1-6 合気道
二階から拍手と歓声が聞こえた。
サヤカの舞と、しだれ桜と、乱舞する花びらと。
道場隅の畳の上で、さくらもヒナコもしばし動けないでいた。
サヤカの両の手のひらから飛んでいった花びら。柔らかく舞う一連の流れのなかで、サヤカはいとも自然に、花びらをキャッチしたのだろう。
「こんなすごい桜見たの、はじめて」
ヒナコは目を大きくし、放心したようにつぶやく。
「本当だね」
さくらの目から涙がこぼれた。
「桜木高校の桜が一番いい」
幼いころから何度も聞いた祖母と父の笑顔が浮かんでくる。
「本当だね、ここの桜が一番いい」
さくらが涙をぬぐったそのとき、
「スイマセン」
と、後ろから声をかけられた。
振り向くと、道着を着た外国人男性が口角をニッとあげて微笑んだ。30代半ばといったところだろうか。金髪を短く刈り込み、茶色い大きな目からは親しみやすさを感じる。道着はかなり着込んでおり、襟のあたりはぼろぼろだった。黒帯なのだろうが、色が落ちて、なんとなくみすぼらしかった。道着ごしにもがっしりとした筋肉を感じる。
「タイケンのカタですか?」
キョトンとしている二人に、流暢な日本語で話しを続ける。
「ケンガクだけでもダイジョブです。ダイジョブ、ダイジョブ、シンパイない」
「いや、ちょっと・・・」
とさくらが引こうとしたとき、
「あ、サヤカさん」
と、男が片手をあげた。
サヤカが裸足で道場の端を歩いてきた。
「ジョー・・・」
サヤカはいたずらを見つかった子供のような、少しばつの悪い表情をした。
「ジョー? 知り合い?」
ヒナコが首を傾けた。
男は、自分の道着と帯の刺繍をヒナコに見せた。道着の裾にカタカナで「ジョー」と刺繍がしてある。黒帯にも同じようにカタカナの刺繍があった。
「ジョーです。よろしくおネガいします」
ジョーはさくらとヒナコににっこりと微笑んだ。
「サヤカさん、キョウはケイコ?」
ジョーが聞く。
「まさか。今日は花見。チェリーブラッサムビューイング。ハ・ナ・ミ」
ネイティブのような発音でサヤカが答える。たった1ワードで英語が堪能なのが分かる。
「あ・・・」
さくらとヒナコの二人を見て、サヤカが声をあげる。
「どうも」
ヒナコが愛想よく答える。
さくらはかろうじて会釈した。言葉がでてこない。
「今日はよく会いますね。これで3回目ですよ」
「さっきの舞いはなんですか、何かのダンスですか。とにかく、もう、すごく素敵でした」
「テニス、いきなり先輩負かしちゃうなんてすごいですね」
言いたいことはいろいろあるのに、一言も口にでてこない。
そのとき道場の電気が点いた。ぱっと視界が明るくなり、小学校低学年の男の子、女の子数人が道場に入ってくる。
「あ、サヤカ先生だ」「サヤカ先生」
サヤカは「やば」とつぶやくと、「じゃ」とだけ言い、足早に去っていった。入口で小学生につかまりそうになるのを、笑顔で「ほら、ちゃんと挨拶して」とかわす。
小学生達は、皆、入口できちんと正座をして、頭を床につけるように「よろしくおねがいします!」と一礼をする。そしてジョーのところにタタタッと走ってくると、再び「よろしくおねがいします」と一礼。それから「うわ、すっげー」「ちょーすげー」と戸枠のしだれ桜に走っていく。
その後も、小学生の母親、父親、初老の男性、小学校高学年、中学生と、次々に老若男女が集まってきた。皆道着を着ているが、帯の色は、白、黄、青、茶、黒と様々だ。
サヤカは廊下でも「あら、サヤカちゃん、久しぶりー」とおばさんに声をかけられている。
大人たちも道場入口で正座、一礼し、ジョーに挨拶をした後、「いや、これはすごい」「満開ですね」と、しだれ桜を見ながらストレッチをはじめる。
「柔道?」
道場の隅でさくらが聞く。
「空手かな?」
ヒナコが答える。
「よかったらどうぞ」
と、袴をはいた若い女性が二人にパイプ椅子を持ってきてくれた。袴にはオレンジ色の刺繍で「春名」とあった。サラサラのショートカットが清々しい。
「見学だけでなく体験もできますよ。着替えは持ってきた?」
「あ、いや、大丈夫です」
さくらが答える。ヒナコは何か言いたげにさくらを見つめた。
「せっかくだからやればいいのに」
感じのいい笑顔で春名は言い、
「あ、これもどうぞ」
と、二人にチラシを渡す。
女性が男性を投げ飛ばす大きな写真に、護身、健康、ダイエットなどの文字が並ぶ。その中でも一番大きく太い文字を、さくらは声にだした。
「合気道・・・」
「護身教室という名で募集することもあるんだけど、この学校では週に一回、毎週この時間にやっています。見てのとおり、小学生からおじいちゃんまで、全市民対象。本部道場もわりと近くにあるので、週末も」
丁寧に説明をしてくれる春名の声を遮り、ジョーの大声が響いた。
「集合!!」
ジョーが大きな声をだすと、今までざわめいていた老若男女が一斉に走りだし、横長二列に整列し、正座をした。
「あ、ごめんね。じゃあゆっくり見てって。もしやりたくなったら着替えてきてね」
春名は早口でそう言うと、小走りで列に加わった。
「やらない?」
ヒナコが言う。
「無理無理、絶対無理」
即効で拒絶するさくらに、ヒナコはあきれるように肩をすくめた。
前列は子供、後列は大人。どちらも道場全体を使うくらい横に長い列だった。帯の色で列順が決まっているのか、左端の白帯が一番多く、右端の黒帯は数名しかいない。小さい子から老人まで、全員が正座をし、目をつぶる。
さっきまでの騒々しさが嘘のように、道場がしんと静まりかえる。
黙想。
空気が凛とはりつめる。
さくらとヒナコもその空気感に引き込まれる。
「あー、いいなー」
とさくらは思う。
なんだろう、この静けさ、緊張感。
パイプ椅子に座り、目を開けたままのさくらも、なぜだが静かに高揚していく。
そのとき、静寂を破るように、どんどんどんと大きな足音を立てて、ジョーが上座まで歩き、正座した。
一呼吸置いて、一番右端の黒帯の男が号令をかける。
「正面に、礼!」
皆、一斉に畳に頭をつけ一礼をする。
ジョーが生徒たちに向き直る。
「先生に、礼!」
再び黒帯の男が声を張り上げる。
「よろしくお願いします!!」
全員が大きな声で一礼し、稽古が始まった。
稽古は、大人と子供の二手に分かれて始まった。でんぐり返しや、後ろでんぐり返しなどの受け身。号令にあわせた構えや基本動作。さくらとヒナコはパイプ椅子に座って、やや離れたところから全体を見ていた。
やがて、ジョーの周囲を全員が丸く囲み、中心でジョーの模範演技が始まった。
黒帯の相手がジョーを襲ってくる。ジョーは一度受け止め、体をくるっと反転させる。次の瞬間、相手の体は宙を舞い、ダーンと大きな音を立てて背中から畳に落ちた。
その音の大きさにさくらはビクッと体をこわばらせる。
「なに?」
さくらには何が起こったのかまるで分からなかった。
ジョーはそのまま相手をうつぶせの体勢にし、動けないように抑えつける。
「つえーな、ジョー」
ヒナコもアクション映画を見ているように楽しげだ。
次にジョーは、一つ一つの動きを分解し、要所要所で動きを止めて解説する。皆、真剣な表情でジョーの一挙手一投足を見つめている。
「手首かな」
ヒナコはそう言いながら、自分の手首をあれこれと曲げてみる。
「こうして、こうすると、こてん、と、いや、違うな」
ぶつぶつとつぶやきながらジョーの動きを見つめる。
解説が終わると、次々に二人組みを作り、今の技を各々練習する。初心者同士にならないように、白帯と黒帯とで二人組を作っているようだが、どの組も動きがぎこちない。右足と左足が逆だったり、背中が猫のように丸まっていたり、体がぐらついて自分で転んでしまったり。ジョーが全体を見歩きながら、手の持ち方や、回転の仕方をアドバイスする。
白帯のおばさんも、茶帯のおじいちゃんも、恰好はあまりよくないけれど、いい表情をしている。
ちょっとやってみたいかも・・・、さくらがそう思ったとき、ふいに手を握られた。
「ちょっと手貸して」
ヒナコは自分の手では想像がつかないのか、さくらの手を軽く握る。
「やだ、無理、やめて。痛いのやだ。痛くしないで」
「大丈夫だから、じっとして。ほら、痛くない」
ヒナコはさくらの手首をほぐすように動かしながら、いたずらっぽい目でさくらを見つめる。
「優しくするよ、お嬢ちゃん。ヒッヒッヒッ」
さくらは軽蔑するような目でヒナコを見つめる。
「ほれ、ここか? ここか? ここがいいのか?」
「エ?」
ヒナコが手首をひねると、さくらはあっけなくパイプ椅子から転げ落ちた。
「ロ?」
パイプ椅子が派手な音とともに倒れ、練習していた一同がこちらを見つめる。
「大丈夫? 痛くなかった?」
慌てるヒナコに、さくらは狐につままれたような顔でうなづく。
大丈夫。痛くなかった。
白帯のお母さんの相手をしていた春名が、慌ててこちらに走ってきた。
「大丈夫?」
「あ、全然大丈夫です。すいません」
さくらが答える。
「中途半端に真似すると怪我するよ。やるならちゃんと教えますから。少しやってみる? 次は投げ技」
「あ、いえ、大丈夫です。ごめんなさい」
さくらは恥ずかしそうに頭を下げた。
「分かった。まあ、気が向いたらね。くれぐれも真似はしないようにね」
春名は微笑んで戻っていった。
さくらは自分の手首を見つめた。
痛くはなかった。けれど、いとも簡単にヒナコに転がされた。
何だ? 何が起こった?
「やってみれば?」
ヒナコが言う。
「やってみれば少しは分かるかもよ。本当はちょっとやりたいんじゃない?」
「ごめん、無理、やらない」
「なんなら一緒にやってあげるよ」
「えっ?」
さくらは、無意識にカバンからのぞいているジャージを見つめた。
「でももうすぐ終わりそうだし」
「そっ。じゃあ私はちょっと上見てくるわ」
ヒナコが二階を指さして立ち上がった。
「一緒に行く?」
「えっ?」
「いいよ、ゆっくりしてて。なんなら体験しててもいいよ」
「うん、じゃあ私もうちょっと見て、後からいく」
まただ・・・。
本当はやってみたいのに、いざ声をかけられると、断ってしまう。
自分で自分が悲しくなる。
二階も気になっていた。時々笑い声や拍手が聞こえるから、あのお花見同好会の面々がいるのかもしれない。何よりこの巨大なしだれ桜を二階から見てみたい。二階からならこの大樹の全容が見えるのだろうか。それとも更に想像を越えた大きさなのか。本当は今すぐ二階に駆け上がりたいぐらいだ。
再びジョーの周りに人が集まり、次の技の模範演技と解説が始まった。
まだ間に合うかも・・・と思うものの、さくらは自分から動くことはできない。
まあ、もうすぐ終わるかもしれないしね・・・ジャージに着替えて戻ってきたら稽古が終わってた、なんてこともあるかもしれない。そう自分を納得させる。
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