元に

 月日が経って、俺は若い夫婦の家にお邪魔することになった。

 俺がその家に着いてすぐ、妻が夫に言った。


「私、あなたと一緒に外国に行きたいの。ねえ、今度の休みにでも行かない?」


 夫は少し考えて言う。


「うーん……今は仕事が忙しいからなあ。あと、家でゆっくり休みたいし……。またの機会にしよう」

「でも、あなたはずっと前からそう言ってるじゃない」

「確かにそうだが……だけど仕事があるんだ。いつか連れて行ってやるから」


 彼女はうつ向いて黙ってしまった。


「じゃあ、俺は仕事があるから」


 そう言い残すと彼は部屋を出て行ってしまった。

 彼女はしばらく空を見つめてから深くため息を着いた。




 ある日、妻は俺の目の前に座った。

 電源ボタンがそっと押され、風が彼女の前髪をそよそよと撫でる。

 彼女は雑誌を見始めた。

 開らかれた雑誌には外国の綺麗な街並みの写真が載っていた。

 雑誌を読む彼女は何だか寂しそうな表情を浮かべていた。

 ページをめくってはため息をつき、またページをめくってはため息をつきを繰り返していた。


「はあ。大好きだったおじいちゃんまでいなくなっちゃったし……寂しいな。何か良いこと起きないかな……」


 彼女はお腹に雑誌を乗せて畳に仰向けで寝転んだ。

 彼女の頬を涙が伝った。

 彼女が泣いているその顔はどこかで見覚えのあるものだった。


 ちょっと考えて、俺は思い出す。

 それはお爺さんの面影だった。

 次の瞬間、俺の頭にはあの光景がはっきりと甦ってきた。


 お爺さんの後悔が。




 しばらくすると、彼女は涙を手の甲でぬぐって買い物へ出かけた。

 入れ替わりで夫が帰ってきた。


「また扇風機消し忘れてる……」


 彼は俺のことを見てそう言うと、座って床に転がっていた雑誌を手に取った。


「うわ、濡れてる。水でもこぼしたのかな」


 俺はその水滴の正体を知っていた。だが、もちろん真実を伝えることは出来ない。


「行きたいのはわかるんだけど、仕事があるしな……。旅行はいつでも行けるだろ。年取ってからでもゆっくり行けば良いかな」


 俺はお爺さんの気持ちを彼に伝えたかった。

 ただただ、彼の後悔が見たくなかった。彼女の涙が見たくなかった。

 こんな気持ちは初めてだ。

 まるで、自分の家族を大切に思う気持ちのようだ。

 名前さえ知らない人にその気持ちを抱くことがあるなんて。


 腹の底から感情がどっと湧き上がってきた。

 全意識を「伝えたい」という思いに注いだ。




『夜に煌めく星……』


 その音は突然に出た。


 自分でもどうやったのかわからない。あの夜のお爺さんの声が、まるで録音でもしていたかのように、扇風機に向かって喋ったときのあの独特な震えた声となって、この部屋に響いたのだ。


 夫は、自分一人しかいないはずの部屋に生まれた声に目を大きく見開いた。

 信じられないという顔だった。


 俺はもう一度、全力で気持ちを「伝える」ことに意識を注いだ。


『夜に煌めく星の海

 明日は雨かもしれないが……』


 俺はとにかく無我夢中で声を風に乗せた。


 お爺さんの声を聞いて、初めはただただ驚いていた夫の顔も徐々に違う物へと変わっていった。

 あの夜、お爺さんが発した全ての声を出したところで俺の電源は落ちた。

 部屋に沈黙が広がる。



 散らばった宝石を拾っておこう

 明日、空が曇っても

 私の心が曇らないように……


 いつ二人でいられる時間が終わるかわからない、か……



 彼は雑誌についていた水滴を見つめて顔色を変えた。


「まさか……!」


 彼は血相を変えてばっと立ち上がった。

 

 がらがらと音を立てて玄関が開く。


「ただいまー。あら、あなたお帰りになったのね。今ご飯を……」

「聞いて欲しい」


 夫の妻を見つめる目差はまっすぐだった。

 彼女はどうしたのかしらという顔だ。

 彼は一呼吸置いて、満面の笑顔を浮かべると、


「一緒に旅行に行こう」


 彼女は目を丸くして少し固まって、それから綺麗な白い歯を覗かせて、


「やっと行けるのね……嬉しいわ!」


 二人は抱き合った。

 彼女の目から流れたそれは「悲しみ」ではなくなっていた。

 

 二人は早速、本を開いて計画を立て始めた。


「暑いから扇風機をつけましょう」


 彼女の声でハッとしたように夫は顔を上げると、俺に手をやって「ありがとう」と笑いかけた。

 妻はその様子を不思議そうに見ていた。


 それから、彼は俺の電源ボタンを押した。

 だが、俺は動かなかった。


「あれ、おかしいな……さっきまで動いてたのに」


 俺には終わりが来たのがわかった。

 俺は最期を迎えたのだ。



 ***



 意識が戻った時、俺は暗い箱の中にいた。

 箱はガタガタと揺れている。

 いつの間にか体は人間のものに戻っていた。

 目が慣れてくると、周りに家電がたくさん置いてあることがわかった。

 俺は壁をドンドンと叩いた。


「誰かいますか!? 開けて下さい!」


 少しして箱の揺れがおさまった。

 ガラガラと音を立てて壁の一面が開き、光が差し込んだ。

 そこには作業服を着た男が立っていた。

 俺は箱から出て、それがトラックだったことを知った。


 俺は目をぱちくりさせている男に向けて言った。


「何かの手違いでトラックに入ってしまっていたようです。お邪魔しました」


 男は「あり得ない、さっき見た時は確かに扇風機が置いてあったはずなんだけど」とかゴチャゴチャ言っていたが、俺は彼を残して歩き出した。久しぶりの太陽だった。


 少し行くと見覚えのある場所に出た。


 自動販売機があり、その前で笑顔を浮かべた少女がこっちを見ていた。

 俺は自販機の前へ歩み寄り少女が指さしたボタンを押した。

 ガラガラと音を立ててペットボルが落ちてくる。

 俺はペッドボトルを取り出して後ろに立つ少女に差し出した。

 だが、そこに少女はいなかった。

 俺は立ち上がって周りを見回したが、やはりどこにも彼女の姿は無かった。


 蜩のわめき声の中、俺の額は照りつける陽差しによってジリジリと焼けていた。

 首筋を汗が流れ落ちていく。

 

 俺はペッドボトルの蓋を開けてジュースを飲んだ。

 近くの家から風鈴の涼しげな音。

 俺は携帯のカレンダーを見た。そこには俺が扇風機にされた日付が表示されていた。

 よく見れば、時間もあの時とほぼ同じだ。


「時間が止まっていた……? それとも何か他の……?」


 俺は頭が痛くなってきて、考えるのを辞めた。

 世の中、考えたってわからないこともある。


 俺はジュースを飲み終えると、それをゴミ箱の中へ捨てて歩き出した。

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