声を風に乗せて
滝川創
扇風機に
蜩のわめき声の中、俺の額は照りつける陽差しによってジリジリと焼けていた。
首筋を汗が流れ落ちていく。
せっかく仕事がない日なのに、地域のパトロールの仕事があるなんて。
俺は地面に落ちていた空き缶を思いきり蹴飛ばした。
高い音を立ててカンは遠くの茂みへと飛び込んだ。
俺は昔から気性が荒く、喧嘩っ早かった。
前歯が一本折れてしまっているのも、高校の時に友達と喧嘩をして、相手にかぶりついた際に折れたのだ。
俺は大人になってもその気質が治らず、ついに事件を起こした。
しばらくの過酷な刑務所生活を過ごし、ようやくこの前釈放された。
自分なりには、かなり反省したと思う。
妻や娘に対しての生き方を改めたつもりだ。
今ではちゃんと真面目に働きながら、こうして地域パトロールまでやっている。
金髪だった髪も今は黒く染め、落ち着いた生活を心がけている。
いやあ、それにしても暑い。
「おじさん、おじさん」
俺の頭の中には、涼しげな軒下で風鈴の透き通った音を聞きながら、かき氷を食べている自分の姿が浮かんでいた。
「ねえねえ、そこのおじさん」
しばらくしてから、少女の声が指す「そこのおじさん」が自分のことだと気付く。
俺は周りをキョロキョロ見回して声の主を探す。
近くにあった自動販売機の下に小学校低学年くらいの少女が立って、こちらをじっと見ていた。
「おじさん、あそこのジュースのボタンを押して欲しいの」
そう言って、少女はその身長では到底届きそうにない一番上段のオレンジジュースを指さした。
俺はイライラしていたこともあり、彼女を睨み付けた。
「俺は今忙しいんだ。その下の届くところにあるジュースを買いな」
少女は真顔のままこちらを見ていた。
「何か文句あるのか?」
「あんた、冷たい人間だね」
その声は先ほどまでの少女の可愛らしい声とは打って変わって、ドスの利いた声だった。
「私はこう見えて魔法使いなんだよ」
「ま、魔法使い? 何を馬鹿げたことを。テレビの見過ぎだ」
「どうやら信じていないようだね。私を怒らせたらどうなるか教えてあげるよ」
そう言うと少女は不思議な言葉を一言つぶやいて、指を俺の方へ突き出した。
少女の指先から雷のような物が飛び出し、俺の腹に当たった。
「いて! 何するんだ」
「よく反省するがいい。その魔法は君が本当の優しさを見つけるまで解けることはないよ。今日から君は扇風機として生きていくんだ」
「扇風機……冗談じゃ……ない……」
俺はその場に力なく倒れた。
***
気が付くと俺は畳のある部屋にいた。
目の前にある障子は開かれており、そこからは大きな丸い月とそれを取り巻く広い星空が見えた。
俺は必死に体を動かそうとするが、扇風機になってしまった今、体は一ミリたりとも動かせなかった。
俺は諦めて星空をぼんやりと眺めていた。
しばらくすると廊下を一人のお爺さんが歩いてきた。
老人は俺の前に座ると、俺の電源をつけて涼み始めた。
静かな夜に風を切る音が走る。
月明かりに照らされた老人の眉毛は風に揺れていた。
深いしわが刻まれたその顔にはどこか寂しさが見られる。
俺は黙って(話そうと思っても、声を出すことができないのだが)お爺さんのことを見ていた。
少ししてお爺さんは俺の方へ顔を向け、詩を呟き始めた。
夜に煌めく星の海
明日は雨かもしれないが
今、目に映る星空が
広がる事実は変わらない
あの煌めきに心を奪われよう
散らばった宝石を拾っておこう
明日、空が曇っても
私の心が曇らないように
お爺さんは空を見上げた。その頬を一つの星が流れた。
風が吹いて庭に立っていた木の葉を揺らす。
ふみ子、私は君の願いを叶えてあげられなかった。
お爺さんは俺に向かって話し始める。
君はいつも、遠い国の綺麗な海を見に行きたいと言っていた。
だが、私は仕事ばかりを優先して君の願いを後回しにしてしまった。
今になってわかる。君と一緒にいられることの幸せが。
あの時、君の願いを叶えてあげれば良かった。私の心には毎日のように後悔が浮かんでくる。
今、君はあの星の中にいるのだろうか。私の手が届かないあの煌めきの中に。
どうか、私がこの星を発つその時まで、待っていて欲しい。
その時が来たら一緒に綺麗な海を見に行こう。
この世界では見ることができなかった、本当に美しい海を。
お爺さんは口を閉じて再び顔を月に向けた。
お爺さんの座っている床には海ができあがり、そこに大きな満月が浮いていた。
お爺さんは数日後、この星を発った。
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