第5話 顔の無い女
会議が終了すると俺は颯爽と退勤し、早足でコンビニで弁当を二つ買って帰路についた。
食事をしているところをずっと見られるのも嫌だし、餌付けでもすればあの女も大人しくなるだろう。それに、また文句を言われるのも面白くない。
ゆっくりとドアノブを回してみる。今度はしっかり鍵がかかっていた。よしよし、いいぞ。なんだかペットにしつけを教えてるみたいな気分になってくる。
少し緊張しつつ扉を開けると、例のごとく部屋は明るくて、野良猫のような女が白い足をほっぽり投げたままテレビを見ていた。
俺が革靴を脱ぐのと同時に彼女は身体を起こして、玄関へとかけてくる。
「おかえりー」
「…………た、ただいま」
「お、今度はちゃんと返事してくれた。嬉しー。なんかペットがしつけ覚えてくれたみたい」
同じ思考レベルだと……? 俺は戸惑った。
「……そっちこそ。今度はちゃんと鍵閉められたんだな」
「えへへ、偉い?」にこにこしながら頭を傾ける女。何がそんなに嬉しいんだ。
「あたりまえのことなんだが」
「なんたって、今日は一歩も外に出てないからね」
「前言撤回。君にこいつはやらん」
「褒められてもないのに、何を撤回されるの」
女の呆れ顔をスルーして、俺は温められた弁当袋を高く掲げてみせた。昨日貴様が死ぬほど食べたがっていたデミグラスハンバーグ弁当だ、どうだ参ったか。
「あ、もしかしてわたしの分のお弁当買ってきてくれたの?」
「一応、そういうことになる」
「一応って何よ」
「まだあげるとは言ってない」
「うっわほんとイジワルだねえ」
女はおかしそうに笑って、「でも嬉しい。ありがとう」と言った。
「……ていうか、何だ? この匂い」
部屋に入ったときから鼻腔を刺激し続ける香ばしい甘い匂いの正体はなんだ。俺はネクタイを外しながらキッチンに目をやる。そこには加熱されている状態の鍋があった。
「クリームシチュー」
正面の彼女は真っ赤なエプロンをしていた。意外と似合う。
「君が作ったのか」
「他に誰がいるの」
「お隣さんからパクってきたとか」
「そんなこと言うとあげないんだから!」
むくれてしまった彼女をなんとかなだめて、俺は彼女のクリームシチューを頂けることになった。弁当は冷蔵庫にしまって明日の朝ご飯にでもしよう。
小さなローテーブルに二人ぶんの盆を並べると、もうそれだけでいっぱいになってしまう。俺たちは二人でソファに座った。
「ご飯とシチューは別けて欲しいんだが」
「ええ、そういうの先言ってよー。一緒のほうが美味しいのに」
「まあしかたないか。……いただきます」
「あれ、『いただきます』はちゃんと言えるんだね」
「作ってくれたことへの恩だからな。その部分だけ感謝してる」
「余計な一言言わなきゃいいのに」
「悪かったな。でもこういう性格なもんでね」
「減らず口凄いね~、面白いけど」
女は目を細めながら、湯気が立ち上る乳白色の中へとスプーンを潜らせる。
「うん、美味しくできた! 幸良くんはどう?」
「急かさないでくれ。自分のペースで食べたい」
「早く感想聞きたいな~」
結局急かされながらも俺は熱々のクリームシチューをすくい、口の中へと運ぶ。
「あっつ……あふっ!」
「あはは、猫舌なの、幸良くん」
「べろ火傷した」
「べろとか言いかたかわい。で、美味しい?」
「熱い」
「そうきたかあ!」
女の作ったクリームシチューはじゃがいもがほくほくで、まろやかな風味だった。薄味なのにしっかりと舌の上に吸収される甘みが、なんだか懐かしい味だった。
咀嚼を続けていると、なんだか急に気持ち悪くなってきた。車酔いをしている感覚に近くて、口の中が饐えた匂いでいっぱいになり、急激に吐き気が込み上げてくる。
なんだ――これは。
「――今日はじゃがいもがね、珍しくほくほくにできたんだよ~。ねえ幸良くん、おいし?」
女が隣で微笑みながら、こっちを向いてくる。
「――あ~、またその顔したな。それは嘘ついてるときの顔だ。わたし、知ってるんだ」
「――も~、わたしの口から言わせないでよ。ほんと、幸良くんはイジワルだなあ」
隣の女に顔を向ける。
女には、顔が無かった。
真っ白だ。まるでその部分だけが世界から切り取られているようだった。
全身がぞくぞくしてきて、動悸がする。この状態のままでいるのは良くない。
俺は逃げるように瞼を堅く閉ざす。
すると、無音だった世界にようやく平穏が訪れる。
さっきまでの気分の悪さはどこへやら。すぐ隣には例の名前も知らない女が座っていて、心配そうな顔で俺のことを見つめていた。
「幸良くん? どうしたの、具合悪い?」
「いや、なんでもない」
食事中に一瞬見る夢ってなんだ。それに、この感覚には既視感があった。
「もう、びっくりさせないでよー」
女は小さくため息をつくと、付け合わせのサラダに箸を伸ばす。
「……ていうか君、箸の持ちかたおかしくないか」
「へ?」
女が呆気に取られたような表情でレタスを摘まむ寸前で手を止めて、首を俺のほうへ向ける。俺はマイ箸を構えて、その理想型を見せつけてやる。
「こう、だろ」
「違うよ、こうだよ!」
女は人差し指と親指だけで箸を握り、残り三本の指は箸の土台になっていた。
「いや待て、絶対におかしい。なんだその持ちかた。そんなんで食べ物挟めるのか」
「そんなにヘンかな? わたし今までこれで生きてきたんだよ。この食べかたが一番性に合ってるの」
「そう言う問題じゃなくて、大人として恥ずかしいぞ。見てないようで皆見てるんだから」
「別に箸の持ちかたくらいどうでも……」
「こうだ、一本の箸を親指、人差し指、中指で支えるんだ。で、空いた空間にもう一本の箸を入れて、基本この指で支えてるほうの箸を動かす」
「教える気満々じゃん。なんなの幸良くん良くわからないところで本気出さないで」
「些細なことでも一般常識は必要だぞ。箸の持ち方で人からの印象は大きく変わる」
「人の目気にするのなんて、洋服とお化粧くらいだよ」
ぶつぶつ言いながら、それでも女は俺の言う通りに箸を握った。
「……こう?」
「そう、できるじゃん。これからはずっとそれで食えよ」
「…………掴めない」
二十歳を超えた大人が箸でレタスを上手に掴めない。なんとも虚しいシーンを俺は目撃してしまった。
「こうなったらもう食べさせてもらうしか……」
「甘えるな。最初は誰だってできないんだから――」
「あ、できた。へえー意外とこれ掴みやすいね。なんか慣れてきたかも」
「ああ……そうかい」
異常な習得スピードで女はマスターした。こいつ、箸の天才か。
女はきらきらした瞳でサラダを摘まみまくっている。いや食えよ。食べ物で遊ぶな。「こら」と子供を叱りつけるように女の手を叩く素振りをしてみせる。すると女は茶目っ気いっぱいの顔で「はーい」と返事をした。本当に子供のような女だ。
夕食を食べ終わり、食器の後片づけをしているときだった。
「洗い物担当は幸良くんね」
「なんで俺が」
「当たり前でしょ。わたしがご飯作ってあげたんだから。あ……そうだ、わたしたちがこれから同棲していく上でのルールをいくつか決めようよ」
「同棲のルールって……俺と君はそういう関係じゃないだろう。ていうか、今後もマジで居座るつもりなのかよ」
女が自分のスマートフォンで同棲について調べ始めた。『同棲』とは、一つの家に一緒に住むこと。夫婦、男女が一つの家で一緒に生活すること。とあった。
「確かにこれだと、俺たちのこの状態も同棲に含まれるな」
「言葉って面白いよね。たった一つしかないのに、いくつも使いかたがあってさ。人の気持ちとか考えによっても捉えかたって違うし。……わたし、そういうの好き」
「名前も知らない女と同棲してるんだ、なんて知り合いに言ったら間違いなく怪しまれるけどな。大多数の人が恋仲の延長線の意味で解釈するだろうから」
「うわあ、それ迷惑」
「こっちの台詞なんだが」
「とりあえず……うん。ご飯はさ、一緒に食べようよ。朝ご飯と夜ご飯。毎日わたし作るから」
「マジで? 毎日なんかできるのか?」
「頑張るんだよ。でもお皿洗いは幸良くんが毎日するんだよ」
「そんなんで良いなら構わないけど」
「よし決定! 毎日コンビニ弁当なんてダメダメ。栄養偏って死んじゃう」
「んな大袈裟な」
「死ぬよ。栄養っていうのはエネルギーの源なんだから。偏ってたらそれだけ色んな病気にかかりやすくなっちゃう。それは間接的に死へと繋がるんだよ」
女の顔は真剣だった。そんなんで死ぬんなら、俺はもうとっくに死んでる。こいつ、栄養偏って死にかけたことでもあるんだろうか。
「あとはねー、週末は二人で一緒に映画を観ること。レンタルとかで良いから」
「生活関係すっ飛ばして一気に趣味方向にいったな」
「何言ってるの。何よりも大事なことじゃない。同居している人間とのコミュニケーション。幸良くんもわたしも映画好きだし、この間みたいに映画の話したいし」
「……まあ、いいけど」
というか、今でも俺は週一で観てる。それが二人で観るようになるだけだ。
「ん~あとはねえ……」
「あのさ」
「ん?」
楽しそうに指を折っていく女が、くりんとした丸い黒目で見つめてくる。
「いい加減、アンタの名前教えてくれよ。いつまでも花子さんじゃ嫌だろ」
「じゃあ立夏(りつか)って呼んで」
あっさりと言うものだから、俺は拍子抜けしてしまった。
「隠してると思ってたらなんだよ、しかもいきなり名前だし」
「自分の苗字、厳つくて嫌いなの。最初は幸良くんのことヤバい人だと思ってたし」
「どんな苗字だ……剛田とか? あとヤバい奴ってレッテルはそっちも一緒だからな?」
「教えなーい。でももっとスタイリッシュで格好いい感じ」
「余計気になるわ……五十嵐?」
「ぶっぶー! チャンスタイムは終了しました。次回のご来店をお待ちしております」
「店だったのかよ」
いい加減で意味のわからないノリだったが、なぜだか調子を合わせてしまいたくなる。俺は嫌いになれなかった。
「次回来店したときはマイナス50ポイントからのスタートだから」
「いや絶対当てられないだろこれ、四択にしろよ」
「ファイナルアンサー……?」
「うるせえ、店潰すぞ」
それからも俺たちの謎のやり取りは続いた。
夜も大分深くなってきたところで、俺と立夏はまたもや狭い洗面所を取り合い歯磨きをした。
部屋の照明を落とし、それぞれの寝床に向かう。これから毎晩ソファで眠らなくちゃいけないと思うと、なんだか悲しくなってくる。そこで俺は宣言した。
「……俺、布団買うわ」
「なんのカミングアウト?」
立夏がタオルケットから目だけを出して笑った。「あ、でもわたしも生活用品欲しいのある」
「だったら、今度買い物行くか」
「二人で一緒に?」
「お前は俺を一人で行かせようってのか。図々しくベッド使ってるくせに」
「いいよ、一緒に行こ」
「当たり前だ。荷物だってきっちり半分半分にするからな」
「うわー細かいー、モテないぞー男の子」
「うるさい、もう寝ろ。明日だって普通に仕事なんだよ」
「はーいお父さん」
「…………突っ込み待ちなら残念だったな………………………………娘よ」
「……え、何? 深夜のテンションなの?」
「寝ろ」
「ふふっ、幸良くんってたまに面白いよね。ではでは、これからもよろしくってことで」
「ああ」
「…………わたしの名前、呼んでみてよ」
「はあ? なんでわざわざ――」
「――嫌だね、とそっけない声で幸良は言った。本当は目の前の女の名前を呼びたかった。しかし、彼女の名を口にすることで今の付かず離れずな距離間が崩れてしまうことを幸良は密かに恐れていた。そして、彼のそのいたいけな心は自らの良心を傷付けるには十分過ぎた。そう、彼は……チキンだったのである――」
「おい、小説みたいな語り口調やめろ。勝手に人の心理を描写するな」
「えーだって……せっかく名前教えてあげたのになー。ねえねえ、名前で呼んでみてよー」
「俺はアンタのことが良くわからないよ…………立夏。ほら、これで満足か?」
「ふふ、おやすみ幸良くん」
暗闇のワンルームには、俺と立夏の呼吸の音だけがあった。
瞼を閉じると、夕食を食べていたときに見た幻覚がもう一度思い浮かぶ。
あれは……一体、誰なんだ?
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