こうして恋は愛へと変わった

南海鶏飯蓬莱山

第1話 待ち合わせ

 走っていた。ずっと走っていた。

 息が上がって足がもつれる。初任給で買った腕時計に傷がいっている。どこかでぶつけた手首が腫れて足もすりむいている。スーツももうこれは、駄目やな。せっかくあんたに囃されて奮発してええの買ったのに、…責任取ってくれや。どこに、おんねん。

 走りながら、似たような後姿を探して、何人も別人の肩を叩く。怯えたような顔に何度も頭を下げた。肺が千切れそうに痛い。鉄の味が、喉からせりあがってくる。苦しい、いや、あんたの苦しさに比べたらこんなもん、そう思い直して、早く、分からないけど、あんたがどこにおるんかさえも、今は分からんけど。

 それでも足は止めない。ぶつかって、舌打ちをされても、悪態を吐かれても、足は、止めない。止まりたくなかった――



 *



 いつだってあんたを見つけるのは俺の方が3秒早くて、3秒遅れであなたは俺を見つける。


 例年よりも強いという春の日差しを受けて眩しそうに細めた目は、頭上の太陽よりもっと高くて遠いところを見ながら笑っているように見えた。庇をつくった手をそのまま下して頬を触りながら、視線が絡まるまでの、あなたが俺を探して視線を漂わせる短い時間が愛おしくていつもわざと声はかけなかった。


 階段を悠長に下りてくるおっちゃんは柄シャツの上にライダースを羽織り、赤いベルトを巻いたパンツはいつも通りで、長い黒髪は耳あたりから毛先にかけて、ゆるくウェーブが入っていて、一段下りるごとに艶めいて揺れた。今のうちに吸いさしをそっと携帯灰皿にしまう。


 こちらに気付くと、おっちゃんは両手で頬を挟んで首を傾げて、ぎょろ目でおどけた顔をしてみせた。

 撤回するように手を首を振りながら、もう一回ひとりでやってみている。それを見ながら何してんねんと思わずつぶやきながら、おかしくて気付けばつられて一緒に笑っている。

 照れ隠しのようないじらしいおどけも、唐突なようで核心を突いた言葉も、俺の目にはそのふとつひとつが色濃く、輝いて見えた。


 おっちゃんの作り出す空気はみるみるうちに人々をとりまいて、瞬きをするで明るく楽しい空気にいっぺんに塗り替えてしまう。


 モデル歩きをしながら髪を得意げにかきあげて、自分でやっておいてそれがおかしくてたまらないみたいな笑顔を称えながらこちらへ向かってくる姿を、やっと視界の真ん中に持ってくる。また、笑った。照れ臭くて、やっぱり細い首のあたりを見る。


「康平」


 まだ距離があっても構わず名前を呼ぶ声は、人混みでもはっきりと聞き取ることができた。

 それは夏祭りで、またある時は初詣の、少し離れたところからおっちゃんは呼びかけた。

 大きく手を振るあんたに注目が集まっても平気などころか得意げに、こちらから振り返すまで構わずに手を振り続ける。駆け寄ってその細い体を力いっぱい抱きしめてしまいたい気持ちを悟られないように涼しい顔をつくる。


「いこか?」


 やくざみたいやったで、と人差し指と中指で目を細めながら吸うまねをしてからかわれ、見てたんかい、とばつが悪くなるのもお構いなしに、洗練されたなめらかさでおっちゃんは俺の腕を取る。


 絡められても体をこわばらせてぎこちなく歩くのがやっとだった腕をさりげなく解いて、細い腰に手を回して距離を更に近付けた。

 見上げて目が合い、くつくつと笑い合う。肩に乗せてきた頭から髪の毛がさらさらとこぼれてくすぐったかった。


 どこ行こうか、たなちゃん。


 少し考えてから、耳元で返事をした。

 右肩に伝わる熱を感じながら、表情は見えないけれど、きっと笑っている。


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