第55話

「流石だね、浦本君」


 まっすぐ長い滝のような髪。背中にまで伸びたそれは、変装を否定していた。


「誰かに髪を見せるの、何年ぶりだろ」


 姉らしく落ち着いた声でミサキが呟いた。


「アカリンに見せたのが去年。大貴から逃げちゃったのが……二年とちょっと前」


 けれど悲しそうな目は、いつもより子供っぽかった。


「逃げちゃった?」


 思わず繰り返していた。麻耶の話では、当時同棲していた東が、『急に消えた。どこにいったかわからない』と言っていたとのことだ。

 智大はそれ以上の言葉を見つけられずに黙った。ややあって、ミサキが静かに口を開き、



「おねいさんはね、天才なんだよ」



 と、口を開いたついでにあくびして言った。


「頭の回転が良すぎるせいで、常に脳疲労を起こしてて身体がだるい。でも、あたしの超すごい話なんて誰にも理解されない。凡人が大半の世の中に、感性の違いすぎる人間なんざ居場所がないの」


 ミサキは残り半分のジンジャーエールを飲み干す。


「そのくせ見てくれだけは立派なもんで、中身まで立派だと思われちゃう。だから『普通の人』として社会に適応するために全てを費やした。そうせざるを得なかったのさ。自身の感性を根絶やしにして、求められる全てに結果を出して、妹の前でも完璧な姉であり続けて――あたしは壊れたんだ」


 そこでミサキは、抑えきれない何かを吐き出すようにゲラゲラ笑った。不自然な大笑いは自虐と呼ぶにも豪快すぎるものだった。


「わけもわからず家を飛び出して、わけもわからず逃げた。父さん、母さん、大貴、麻耶……みーんな連絡をブロックしちゃってねぇ」

「そんなことがあったんですね」

「ちょっと違うなー。あるんだよ。今も、ずっと」


 智大は彼女が笑い終えるのを待った。その間に頭の中を整理する。


 ずっと引っかかっていたのだ。麻耶や東に会いたがらないのに、なぜ近くに住んでいるのか――。


「大切な人と向き合いたいんですね」と言った。


「僕と話したがった理由は、失ってしまった自分を探すため。黒塚さんの味方をする理由もそこにあるんですよね」


 ミサキは頷いた。


「本当ならすぐにでも謝りたい。でも難しいみたい。自身の不完全さを許さずに生きてきたから、不完全な自分が皆に会うことを許さないの。今更ぬけぬけ謝る自分が許せないし、でも、謝れない自分も許せない。まさに生き地獄ってやつだね」

「…………」

「……んでまあ、黒塚家のご令嬢がひょいと現れたわけさ。いつか謝れる日まで大貴を見守る、代わりに恋愛相談に乗ってほしい、なーんて宣いながら」


 真っ先に取引を持ちかけるあたりが朱璃らしいと思った。口ぶりからしてミサキは契約に乗ったのだろう。


「それで僕のことを知っていたのですか」

「あの子妙に話が上手いからねぇ、君に会いたがるようアカリンに誘導されちゃったっぽい」

「では、便箋の件は?」

「話を合わせてほしいって言われたからそうしただけだよん。麻耶が引っ越してくるのは予想外だったんだろうねぇ。変装はアカリンがしてるもんだと思ってたから、そこだけは驚いたけど」


 その対価がぼうぼう広場での会話か、と内心呟く。


 忘れてはならないことがある。羽根田ミサキは、頭の切れる麻耶をもってして天才と言わしめる人間なのだ。

 今の話だけ聞くと朱璃に利用されているように感じるが、その気になれば少女一人どうにかするなど容易いだろう。それでもなおあたり、彼女らの根底には確かな信頼関係があるのだと思う。


「浦本君」


 ミサキは最後の餅を箸で掴んだ。


「はい」


 智大も真似するようパスタを食べる。


「心から満足できる答えを見つけるために、僕が知りたい――間違いないね?」

「はい」

「ならそれは、君だけが持つ立派なアイデンティティだよ。君が君である何よりの証だ」


 智大は得心したようなしていないような顔をした。


「いまひとつ要領を得ませんが……」


「こればっかりは感覚的なものだからねぇ。理屈じゃないっつうか」ミサキは困ったように髪をいじっている。「もうちっとだけ、自分の気持ちを信じてあげな」


 智大は残り少ないパスタをまとめて食べた。


「わかりました」


 よく噛んで飲み込むまでの間に言葉を探ったが、それしか見つからなかった。


 ミサキもほぼ同時に食べ終わり、雑談会はお開きになった。



「今日はありがとうございました」


 会計を済ませてカフェを出ると、智大は深々と頭を下げた。するとミサキは強風に身を震わせながら、


「なはは、こちらこそ」


 と言った。


「浦本君、おねいさんまだこんなこと言う年じゃないけど、人生いろいろあるよ」

「はい」

「人生ってのは、迷うことなんだと思う。この先うだうだ悩むこともあるだろうし、不完全な自分に嫌気が差すこともある。……そんなんでいいのさ。そんな不完全でどうしようもないグズなところも含めて自分なんだ。天才のあたしが言うんだから間違いない」

「…………」

「大事なのは正しく迷うこと。ほら、間違ってるところを正しく認識しなきゃ問題って解決しないじゃん? それと同じで、不完全な自分を認めるところから自分は始まるんだよ」

「……きっとそうなのでしょうね」

「焦らなくていい。どんなに頑張ろうとも、どれだけ時間が経とうとも、君は君。変えられない根っこっつーのは案外存在するもんだ。これは悲しい事実であり、嬉しい事実でもある」


 人生とは迷うこと――理屈で説明できないはずのそれが、今の智大には少しだけわかった気がした。ミサキと自分は似ているのだ。同じような欠け方だから、探し求めるピースも同じ。ゆえに互いの心を理解できてしまう。


「ありがとう」そう呟いたのは、智大ではなくミサキだった。


「僕は相談に乗ってもらった側ですよ」

「うん。そんで君は答えを出した」

「なんだか大袈裟ですね」


 誤魔化すように智大が笑うと、ミサキは背を向けて、


「ありがとう。あたしもちょっとだけ、大切なものを取り戻せた気がするよ」


 風に踊る長髪を嬉しそうにかき上げた。

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