第65話 三十六計逃げるに如かず
ヴァイダの顔にはやや心配そうな表情が浮かんでいる。
それはそうだ。彼女がトドメを担当するという事は、それまではこちらが受け持つという事なのだから。
大丈夫だ、問題ない。とか言うとフラグになってしまいそうなので実際にやってみせて納得してもらうしかないだろう。
俺はコキュートスを睨みつけながら、じりじりと後退っていく。
「俺たちはなるべく逃げながら戦いますので大丈夫ですよ」
ちょうどいいことに、宮殿には誰も居ない。障害物を使って逃げ回れば相当な時間が稼げるだろう。
「行きますっ!」
掛け声と共に俺はアウロラの手を掴むと、コキュートスに背中を向けて走り出す。
向かうは宮殿だが、それを見逃すほどコキュートスは甘くない。彼女の目的は、俺の殺害なのだから。
「逃がさないっ」
俺たちの邪魔をするように正面から吹き付けてくる様な風が生まれる。これはコキュートスが行う砲撃の前兆。
大気を固体へと変え、それで弾丸を作って対象物を凍てつかせる砲撃を行うのだ。
だがそれには明確な弱点があった。
俺は首だけで後ろを振り向き、肩越しにスマホをかざして――。
≪ホロウ・バレット・レイン≫
迫りくるコキュートスの攻撃目掛けて、真空の弾丸を迎撃として撃ち放つ。
計16個もの真空の弾丸が固体窒素にぶち当たりる――が、その全ては砲撃に弾かれてしまい、軌道すら逸らせずに消えてしまう。
魔族と人間が力をぶつけ合えば当然と言える結果だ。
――そんな事は分かっている。
「アウロラ、出来る限り姿勢を低く!」
俺が狙っているのはその先だ。
俺とアウロラが頭を下げたちょうど真上を巨大な氷塊が通り過ぎていく。他にも、制御を失った氷塊があちこちに飛散し、壁や地面に当たって砕け散る。
ただ、俺たちに直撃する物は一つも無かった。
もちろんこれは偶然ではない、狙ってやったのだ。
氷は気圧が下がればどれだけ低温であろうと蒸発を始める。つまり、真空の弾丸が当たれば、その箇所だけで蒸発が始まるのだ。それもものすごい勢いで。
イメージ的には氷塊の一部分に突然ブースターが取り付けられたようなものだろうか。そんな状態では直進できるはずも無い。
かくして一つも直撃はしないという訳だ。
「背中がガラ空きですよ!」
ヴァイダの声が響き、それと同時に打撃音も聞こえてくる。
俺らを狙ったその隙をみて攻撃してくれたのだろう。
これで、少しずつコキュートスの中に蓄積された熱エネルギーが消費されたはずだ。
イフリータの事を考えるのならば、コキュートスを倒すためには、蓄積エネルギーを全て消費させ、その上で破壊的な攻撃を叩き込む必要があるだろう。
不思議と――いや、不思議ではない。この知識が恐らく神様からもらった贈り物なのだ。
胸の中にすとんと落ちてくる様な確信。
今ままでも何故かそれらを覚えていたが、この確信は全て、知っていたからなのだ。
それが俺には分かった。
「中に!」
宮殿へと通じるドアを蹴り開けたアウロラが俺を呼ぶ。
一瞬だけ振り返ると、鬼のような形相をしたコキュートスが、構わず突っ込んでくるのが見える。
――ここに仇が居るぞ。
そう睨みつけると、俺は宮殿の中に駆け込んだ。
迷路のような宮殿内部をひた走る。
何度来ても迷ってしまいそうな作りだとため息が出そうになるが、今だけはその心配はない。
山道でさえも迷う事なく散歩をするアウロラが、宮殿程度で道を間違えるはずがないのだ。
「回り込んで奇襲できる道はあるか?」
「……ないよ」
アウロラは脳内の地図と照らし合わせたのか頭を振って断言する。
なるほど、それなら発想の逆転をしよう。
ないなら作ればいい。……迷惑と被害が凄そうだけど、魔族を倒すためだから仕方ないよね。
俺はそう心の中で言い訳すると、スマホを操作して――。
「アウロラ。今コキュートスがどこら辺に居るか分かるか?」
「多分、あっちら辺かな。もっと近づいたら分かるけど」
「なるほど」
≪ブラスト・レイ≫
長射程で貫通力の高い魔術でもって、宮殿にまっすぐ穴を開ける。人が居ないと分かっているからこそ出来る芸当だ。
更に別方向にも一発。だが――。
「そこかっ」
これだけ派手な事をしてバレないはずがない。
作ったばかりの穴からコキュートスが顔を覗かせた後、俺たちの為に開けたその穴を利用して、まっすぐ突っ込んで来た。
「――アウロラは早く逃げろっ」
俺は開けたばかりのもう一方の穴にアウロラを押し込み、その後を追って飛び込んだ。
「走れっ」
コキュートスが壁を突き破る音が鼓膜を震わせる。彼女との距離はもうほとんどない。
――追いつかれる。
もしもコキュートスに触れられてしまえば、直接熱を吸収されつくして氷の彫像となってしまうだろう。
だが、人間と魔族の身体能力は絶望的な差があって――。
「――なーんて」
近づかれるのは当たり前。
俺は穴に飛び込んだ後、そのまま横に身を隠したのだから。
アウロラの背中を目指して壁をぶち破った直後、完全に無防備な横顔を俺に晒す。
≪フリージング・ヴァイン≫
冷気の棘が、完全に虚を突かれたコキュートスの肌を這いずり回り、彼女の中に眠る熱を引きずり出していく。
「くあぁぁぁっ」
いくら人間が放った魔術とはいえ、ふいを突かれ、直撃したのだ。そのダメージはかなりのものだろう。
だがコキュートスは苦悶の声を上げながら、それでも冷気の棘を引きちぎり、内側から魔術を破っていく。
……まあそうだよな。なんて心の片隅で納得してしまう。
イフリータが凍り付いたのは一気に数十発も叩き込んだからだ。それに凍らせてしまっては意味がない。
蓄積させた熱を消費させるのが目的なのだから。
凍ってしまい、魔術の効果が終了してしまっては、魔力だけ無駄に消耗してしまう。
何度も何度も間隔を開けて叩き込み続ける、なんて地味な下準備が必要だった。
「じゃあな」
俺はそれだけ言うと、ドアを開けて廊下に飛び出す。そのまま後ろも見ず、一目散に走り出した。
「貴様ぁっ」
声と共に氷の弾丸が飛んできて、背後の壁を打ち砕いていく。
ゼアルの守りがあるとはいえ、何発も受け止めてはくれないだろう。基本的に当たれば一撃死。そう考えて当たる方がいい。
俺は足に力を籠め、全速力で長い廊下を遁走していく。
背後で何かが爆発したのかと錯覚するような音がして、恐ろしい死の気配が迫って来る。
……間に合え!
俺は祈りながら出来る得る限り最高の速度で足を動かし――。
ゾクリと、嫌な予感が背筋を走り抜ける。本能に従い俺は体を空中に投げ出した。
先ほどまで俺の上半身があった空間を、死神の鎌が薙いで行く。
あと一瞬でも判断が遅ければ俺は今頃何百もの氷片となって廊下に散らばっていただろう。
だが――間に合った。
≪クリエイト・ウォーター≫
扉の陰からアウロラの魔術――ただの水を作り出す魔術が飛んできてコキュートスの顔面を濡らす。効果はたったそれだけ。
しかし、熱を奪うコキュートスだけは話が違う。しかも彼女は俺を殺すために熱を吸収する魔法を全開で駆動させていた。水は瞬時に凍りつき、コキュートスの顔を覆いつくして視界を奪う。
魔術は結局使い方次第なのだ。
1重の魔術だったとしても、状況次第でその効果は何十倍にも跳ね上がる。
値千金の隙を生み出してくれたアウロラに心の中で感謝しつつ、俺は……。
≪アイスバーグ・パイル!≫
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