第2話 三月兎

『万物のまえに 混沌と闇と夜の国の門あり』


イスラエル・リガルディ



梅雨も開け、陽射しも夏めいて連日30℃は越えようかという日々が続いていた。

それと交互するように、私立聖メサヴェルデ学院高校では恐怖の夏休み前の定期考査が終焉を迎えた。

3日間にわたって行われるテスト。

生徒たちは、毎日コツコツ頑張るもの、一夜漬けのものなどなど思い思いの勉強法でそれに臨んだ。

その地獄の日々も今日で終わりを告げる。最終日の金曜日。

3校時終了のチャイムが鳴った。

「はあ〜終わった。これで眠れるわ。」

列の一番後ろの生徒が解答用紙を集めに来る。

それを見送ってから、劔地綾那はイスに座ったまま両手を上に高々と上げ、伸びる。

さらに大きなあくびも出てしまった。目からは大粒の涙が。

「女の子がはしたないですわよ。それにまだ3校時終了のあいさつをしていませんので、終わっていませんわよ。」

綾那の背後にいつの間にか、音もなく本条院美咲が立っていた。

「きゃあ!ちょっとお、どうしてこんなとこにいるのよ!! みっさ、あんた1組でしょう?何で3組なんかに!?」

「さあ? ほら、あいさつの号令が」

美咲が前方の教卓を指さして言った。

あわてて綾那は立ち上がった。

「起立。注目。礼。」

クラス委員が号令をかけ、クラスは安堵のどよめきに包まれた。

美咲も綾那の後ろで何食わぬ顔で号令に従った。

すぐ座って友達としゃべり出す者、廊下に出ていく者、今の教科の答え合わせを教科書でする者、ぼーっとする者と色々だ。

ちょっとため息をついて、綾那も腰を下ろす。

すばやく美咲が綾那の前へと進んでくる。

「あのね。いつでもどこでも出没するのやめてくれない。幽霊じゃないんだから。せめて時と場所を選んで」

「時は選んでますわ。少なくともチャイム鳴ってから来ましたから。」

あまりにも間髪をおかずに無表情で語る美咲に綾那は毒気を抜かれた。

「そういうことじゃなくてねー はぁ~」

何を言っても無駄なことはわかっていたが、言わずにはいられなかった。

「ところで例の計画はいつ実行に移します? 今日は榊先生も出張でいらっしゃらないので、部活は3時には終了だそうですよ。」

「もちろん!今日実行するわ!!」

先程とは、うって変わった目で、綾那は力説した。

美咲もそれをみて「よろしいですわ」といわんばかりの笑みを目に浮かべていた。

「じゃあ、早く調理室へ行きましょう。ちょうどお昼ですし、逃げられてしまいますわよ。それに先生方は今日から採点というお仕事が待っているのですから。」

「OK!」

綾那は、一枚の紙を握って立ち上がった。



北校舎4階にある調理室は、甘くおいしそうなにおいでいっぱいだった。

オーブンをのぞきながら、臣人がにやっとした。

「焼けたでー。名付けて『臣人ちゃん特製低カロリーで食物繊維ばっちり!女子高生のダイエットの強い味方おからココアケーキ』や!」

オーブンにキッチングローブをはめた手を入れ、天板を取り出す。

直径4cmのかわいらしく丸められ、お菓子用の赤や青といったチェックのアルミホイルにのせられた一口大のケーキが16個お目見えした。

おいしそうに湯気をたてている。

少し余熱を取りながら、臣人が上から茶こしでパウダーシュガーをふった。

さらさらの雪のように褐色のケーキが化粧をされていく。

バーンは準備室ドアを開け放し、そこにある事務用机に頬杖をついたまま、その様子を眺めていた。

オーブンのまわり、コンロのまわり、流しのまわりに臣人が分身の術でも使っているように何人も見えるのは気のせいだろうか?

ちょっとバーンは頭をかかえた。

気が付くと、目の前に紅茶を入れたカップ&ソーサーと先ほどのケーキが3つ載せられた花柄の皿がコトンっと置かれた。

三角巾をとった割烹着姿の臣人が立っていた。

「さ、食ってみい?」

促されるままにバーンはそのケーキを1つ口へ運ぶ。

その試食している顔を臣人はのぞき込んだ。

「……」

紅茶も一口飲み、さらに次のケーキに手を伸ばした。

「どうや??」

「……」

何らかの感想を期待して臣人は待っているが、当の本人はそんなことお構いなしに味わっていた。

「食ってばかりおらんと何かこう言ってほしいな。まずいとか、お世辞でもいいから『旨い!』とか、ここをこうすればもっとええとかなぁ?」

バーンは臣人を見上げるが、

「……」

答えは返ってこなかった。

「まあ、それだけおまえが食えたんやから、まあまあのできだとは思うけど。今度の調理実習はこれでいこかと思うとるんや。でな」

その時、調理室のドアをノックする音がした。

「失礼します。」

臣人が返事をして入口の方をみると、綾那と美咲が入ってきた。

「臣人先生。」

「おー、劔地と本条院やないか。」

準備室から出て、調理室の黒板の前で話し始めた。

「テストはどやった?」

「聞かないでください。」

綾那がぷっとふくれた顔をした。

(愚問ね。)

美咲はちょっと自信ありげに言った。

綾那は美咲をちょっと睨んだ。

「そっ、それにしてもいいにおいですね。」

綾那は急に話を切り返した。

「クッキーでも焼いたんですか?」

これ以上美咲に話されると本末転倒してしまうと思ったのだ。

「いや、ミニケーキを焼いてみたところや。今度2年生でやる大豆製品を使った調理実習のための研究や。今バーン毒味させたんやけど、旨いんだかまずいんだかわからないねん。無言のまま食いよってよ。」

「きっとおいしかったからですよ。臣人先生って本当に料理が上手ですよね。お嫁さんになる人って幸せかも!?私もそのケーキ食べたいな。」

「あほ!今度の実習までおあずけや。つまらんやろが。そんなに食いたきゃ、来週旨く作るこっちゃ。」

「残念だな。」

にっこりと微笑みながら綾那が言うと、美咲が、

「似合ってない…」

「え、何が?」

「オッド先生に花柄のティーカップとケーキ皿」

と、ぼそっとつぶやいた。あせった綾那は必死でフォローを入れた。

「そんなこと言わないの。白いティーカップかも知れないじゃない。」

「あれ…」

美咲が準備室を指さした。

中には、ピンクの花柄ティーカップを口元へと運ぶバーンがイスに座っていた。バーンが、綾那や美咲に気が付いてこちらを向いた。

相変わらず無表情のままであるが。

綾那は『もういいかげんにして』と言わんばかりに片手で頭を押さえた。

次に美咲の右腕を抱え込むと後ろを向かせ、こそこそと相談を始めた。

臣人は何のことがわからず、二人の後ろ姿を見ながらあっけにとられるばかりである。

「(ちょっと何、余計なことを言ってるのよ。これで臣人先生の機嫌が悪くなったらどうするのよ。もう。)」

「そんなに怒らないでくださいな。」

「(とにかく!あとは私が何とかするから。黙ってて。)」

それだけ美咲に言うと、綾那はくるっと向き直った。

「それより、今日はお願いがあってきました。」

「なんや?急に改まって。ま、借金と彼氏紹介してっていう相談以外ならなんでもOKやけどな。」

美咲がその言葉を聞いて、ちょっと微笑んだ。

「それでは、何も聞かずにこの紙に印鑑を押してください。」

そう言うと綾那が一枚の紙を差し出した。

「みっさ!」

綾那が一喝した。

美咲はまずいと思ったのかそれきり何も言わなくなった。

「私は臣人先生を尊敬しています。先生はいつも明るくて、冗談を言って私たちを笑わせてくれる楽しい先生です。料理もお上手だし、教え方だっていつもわかりやすいし・・・。先生の家庭科の授業受けていて楽しいですよ!!もう、すぐ生活に役立つって言うか・・・」

綾那はお世辞を並べ立てた。

臣人は気をよくして、デレデレである。

「いやぁ、それほどでもあるかいな。わはは。わいのギャグは超一流やさかいな。それをわかってくれる劔地はえらいでぇ。」

(かき氷、シャーベット、ペンギン、しろくま、ハンディファン、液体窒素、絶対零度……)

美咲は心の中でそう思った。

口に出すとまた綾那に怒られそうだったのでやめた。

「で、このかわいい私たちのためを思うなら、ここにポポンッとハンコをですね。」

「今、ここにハンコなんてもってきてないで。」

きょとんとしながら臣人が言った。

「じゃあ、サインでいいです。お・ね・が・い、臣人先生。」

綾那はバチッとウィンクをした。今度は色仕掛けである。

「まぁ、ええわ。かわいい劔地のためならな。どれ、どこや。」

「ここです。ここ。」

綾那は指さした。

「わいを奴隷にしますとか借金の肩代わりとかいう誓約書じゃあらへんやろな?」

「そんなんじゃありませんから安心してください。生徒を信用できないんですか!?」

美咲がペンを臣人に渡した。

臣人はさらさらと自分の名前を書いた。「葛巻臣人」と。

「こんなんでええか?」

「ありがとうございます!臣人先生!!」

飛び上がらんばかりに喜んだ。

まじまじと名前が書かれた書類を綾那と美咲は見直した。

そしてお互いの顔を見ると、にっ・・・と笑った。

「ちょっと失礼します。あとでまた説明に来ます。じゃあ、失礼しました。」

そう言い残すと二人は、バタバタと調理室を出ていった。

その後ろ姿を見送りながら、カップを手にしたバーンが臣人の背後から近づいてきた。

「はめられたんじゃないか……?」

「ま、だとしてもかわいいもんやないか。あのレベルならな。」

「……」

「ところで“三月兎”ってなんや??聞いたことあらへんのや。一番上の方にでっかく書いてあったんやが・・・劔地達何考えてるんやろ?」

バーンはカップの紅茶を一口飲んだ。

「“三月兎”…ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』、Mad Tea Partyに出てくる登場人物のひとり。」

「Mad Tea Party!? 狂気のお茶会!? 」

「結構有名なキャラクターだけど・・・。」

一瞬の沈黙。バーンは相変わらずお茶を飲んでいた。

「すまんね!そういうのにうとくてぇ。」

腕組みをして臣人がそっぽを向いた。

それを見たバーンの眼が少し優しくなった気がした。


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