Ep.2 勘違い
寝返りを打とうとして、妙に身体が窮屈だなと思った。それになんだか、布団がやけに固くて寝心地が悪い。まるで、コンクリートの上で昼寝をしている気分だ。枕もどこかへ行ってしまったのか、後頭部が痛い。
もしかして、気付かないうちにベッドから落ちてしまったか……。
そんな風に思いながら目を開けると、そこにあったのは見慣れた自室の風景ではなく、見知らぬ男の顔の大写しだった。
心臓が引き絞られる感覚と共に、「あッ」と甲高い悲鳴を上げる。男の顔は
私の部屋に不審者が! 急いで飛びのこうにも、何故か身体が言うことを聞かない。
もしかして私はまだ夢の中にいるのだろうか。悪夢に囚われてしまっているから、自らの意思で身体を動かせないでいるのかしら……。
頭がぼんやりして、己の置かれている状況をろくに理解できぬまま、辺りに視線を配る。
そこに広がっていたのは見慣れた自室の風景ではなく、長らくの間、誰にも使われずに放置されていたと思しき倉庫のような内装だった。
その中で、ずらりと並んだ少年たちが、床に放り出された燈瑚を取り囲むようにして立ち、それぞれが身震いするほどに冷たい目で彼女を見下ろしていた。
「んんッ!?」
声を出そうとして、口の辺りの違和感に気付く。上下の歯と歯の間に噛まされたごわごわの繊維が、両頬から後頭部のあたりまでをきつく締め上げている。
霧がかっていた脳内がたちまち覚醒する。
焦りに任せて立ち上がろうとしが、手足にぎりっと細いものが食い込む感覚に、身動きが取れない理由も悟る。粗末なビニール紐で拘束されているのだ。
――やだ、何これ……! 私、一体どうしちゃったのよ!?
頭の中がパニックに陥る。
燈瑚は言葉を制限するタオル地をぎゅっと噛み締めて、恐怖に震える身体を律する。
彼女を遠巻きに囲んだ少年たちは、目の前で女の子がもがき苦しんでいる姿を目にしても、まるで氷像のような無表情を貫き続けた。
燈瑚は、ふうふうと大きく息をしながら、心の中で己に言い聞かせる。
――落ち着け、落ち着くのよ私。まず周りを見て、この少年たちの顔に見覚えは無いかしら?
燈瑚は、少年たち一人ひとりの顔を順々に見やった。
……おかしい。誰一人として燈瑚の記憶に友人として名が上がる者は存在しないのだ。
そこでようやく、気を失う直前の状況を思い出す。
学校からの帰り道、見知らぬ三人組に声をかけられて、それで……。きっと頭を殴られたのだ。その証拠に、気を失う前に急に痛んだ箇所が今なおずきずきと痛む。
まさか、無差別誘拐か。通り魔的な犯行に出くわしてしまったというのか。
夕方とはいえ、あの時間は人の目も多かったし、住宅街の真ん中で堂々と犯行に及べるとは思えない。
けれど現に今自分はどこだかもわからない一室に監禁されている。
監禁……ぞっとする言葉だ。すべての自由を奪われ、外の世界から遠ざけられた状況に、その刹那、全身の毛穴という毛穴からどっと脂汗が滲む。
混乱に陥る頭の中に突如、
吐き気を催す不快感、不安。額の奥の方がずうん、と重くなり、己の置かれた状況が夢であれと願うあまり、燈瑚の心臓は未だかつてない異常な暴れ方をした。
「ボスが来る前に目を覚ましやがったな」
一人の少年が近寄ってきて、燈瑚の目の前でしゃがみ込む。
「も一度、眠らせるか?」
「……いや、待て」
後ろの方で誰かが立ち上がる気配がする。
「おい、千束。お前、よく平然と外歩けたもんだな」
そう言いながら靴音高く近寄ってくる男の視線のなんと冷たいことか。私はこの男の堪忍袋を断ち切るだけの何かをしてしまったというのだろうか。燈瑚は恐怖のあまりいよいよ胃から不快な波が込み上げてきて、顔を伏せずにはいられなかった。
「あの怪我はどうした? こんなに早く治るとも思えないが、まあ、いいか。うちのボスはもうすぐこちらに到着する。覚悟しておくんだな。十人の陪審員と、俺らの
――何を言っているのかしら。全く話が読めない。本編の途中で
燈瑚は何とか彼と冷静に話ができないかと試みたが、そんなことはこの猿轡が許さない。結局声は意味を成さないままうめき声に変わっていった。
一体、自分が何をしたと言うのだろう。歳若い女にすることとは思えない鬼畜の所業ではないか。
なんとか拘束から抜け出せないものか、と後ろ手に縛られた手をごそごそと動かしたが、固く縛られたビニールの摩擦で手首がひりひりしただけだった。
足も同様に、少しもがいたくらいではどうすることも出来ない。
ああ、何かの間違いに決まっているわ。善良な一般市民の私がこんな目に合うなんて、悪い夢に違いない。そう言い聞かせながらも、燈瑚は混乱の解けぬ頭の中で恐怖の妄想を膨らませ続けた。
きっと、彼らの言う《ボス》がここへ来たら、よってたかって暴行されてしまうのかも……そして、最終的には口封じに――ああ、ここから先のことはとてもここに並べ立てられるような内容ではない。
燈瑚の全身を冷たい汗が滑り落ちてゆく。服に染み込んだ汗が徐々に身体を冷やし、寒さやら恐怖やら、様々な要因が彼女を哀れなまでに震え上がらせた。
少年たちは彼女のその姿を見て、嘲るように笑声を轟かせた。
と、その時だった。
「うわあ!」
少年たちの後ろの方で叫び声が上がった。
反射的に顔を上げると、丁度、大きく開いた扉の外から倉庫内にばたばたと足音が駆け込んでくるところだった。
新たに駆けつけてきた人影は三つ! なんということだ、仲間が増えてしまった。その中に例の《ボス》がいるかもしれないと思うと、とうとう彼女は泣き叫んでしまいそうだった。
「敵襲か!」
燈瑚を取り囲んでいた一団は、
ようやく二十の瞳から解放された燈瑚は、目を白黒させながら、人壁の先にいる三人を見た。
どうしたのだろう。今飛び込んできた三人は仲間ではないのか?
対立する形で向き合った少年らは、砂埃が舞い上がる白茶けた空間で睨み合いを始めた。
「お前は千束の右腕の青木だな。たった三人で乗り込んでくるとは、随分舐めた真似をしてくれる」
十人のうちの誰かが声高く叫んだ。
「それはこちらの台詞だ。よくも俺たちのボスを堂々と掻っ攫ってくれたな」
「先に手を出したのはそちらだろう。いつから千束一派はそんな外道に成り下がったのだ」
「真実すら喋れなくなったようだな。己らの都合のいいように真実を捻じ曲げてまで、自分たちのチームを正義側に立たせたいのか」
「シラを切っていられるのも今のうちだぞ。まもなくボスはここへ駆けつける。それが、俺たちのメンツを賭けた闘いの幕開けとなる!」
燈瑚は彼らの注意が他所に逸れた今のうちに逃げ出そうと地面を這った。服が汚れるとか、鞄を持っていかなくちゃ、などという理性はどこかへと置き忘れた。兎に角、今は外へ出て近くの交番へ駆け込もう。それだけを考えていた。
「行け!」
力強い号令が木霊した。
少年たちは、一斉に三人の
彼らの――三人の闘い振りは、まるで軍神のように圧倒的であった。十人という数をものともしないどころか、相手の一撃を交わすごとに、一つ二つ、見舞う拳の数は倍になって目の前の少年たちを叩きのめしてゆく。
思わず逃げるのも忘れてその戦いぶりに目を奪われていると、青木青年が、向かってくる拳の雨をかいくぐって、燈瑚の傍に駆けつけた。
「ボス! 無事か!」
「え……?」
燈瑚は、彼の言葉を理解しかね、何も応えることができなかった。青木はまず始めに彼女の猿轡を解き、続いて手、足と自由にしてくれた。
よかった、この人は話が通じそうだわ、と異国の地で友人と出くわしたような安心感を抱く。
「あの、ありがとうございます」
「立てるか?」
彼はそう言って、燈瑚に手を差し伸べた。
「ええ、大丈夫です」
「……」
安心して頷くと、彼は何故か怪訝そうな顔をして、自分の手に重ねられた華奢なそれを見下ろしたが、すぐに背後を振り返り、一緒に飛び込んできた二人に向かって、
「三人じゃ不利だ! ここは一旦引くぞ!」と叫んだ。
「はい!」
二人は強く頷いて、外へ通じる赤錆が浮いた扉へ突進した。
「行こう」
彼に手を引かれ走り出した燈瑚は、後ろから追いかけてくる少年たちの群れを振り返り、その迫り来る迫力に青ざめないではいられなかった……。
▼▽▼
「なんとか
川のせせらぎが耳に心地よい橋の下で、四人は息を弾ませながら身を隠していた。
日ごろの運動不足を呪いながら、燈瑚が三人よりも激しく胸を上下させていると、
「大丈夫ですか?」と、やけに背の高い少年が彼女の顔を覗き込むようにして尋ねた。燈瑚よりいくつか年下と思われ、垂れた目じりに細くつり上がった眉が生意気そうな印象を与える。
「ええ……」
息継ぎの合間で何とか返事をした燈瑚に、
「これ、お荷物です」と、もう一人の赤い髪の少年が、通学用に使っている鞄を差し出してくれる。わざわざ回収しておいてくれたようだ。
「すみませ、ん……あ、ありがとう、ございます」
息も絶え絶えに礼を述べると、長身と赤毛はきょとんとした顔を見合わせ、
「……ボス?」
「どうしたんですか?」
と、口々に言う。
――ボス。たしか、私を一番最初に助けてくれた人も、私をそう呼んでいた気がする。
燈瑚は、説明を求めるように、三人を順繰りに見やった。
「それにしても……」と、赤毛。
「怪我はどうしたんです? 病院から出て大丈夫なんですか?」
「怪我?」
さっぱり言葉の意味が飲み込めないでいると、
「何言ってんだお前ら」
青木が呆れたように言った。
「その子はボスじゃない。ボスの妹さんだ。双子の」
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