殻を破って

提灯行灯

第1話

 朝七時の半田駅は駅前広場まで多くの人々が行き交っている。これから電車に乗り込む者……半田市の職場に勤める者……学校へ行くバスを待つ学生たち……実に雑多な人々が駅前に集まっている。

 そんな駅前広場だったが、一か所だけ穴が開いたかのように人通りの少ない場所があった。道路沿いの、本来はタクシー乗り場である場所。時間帯故かまだタクシーが一台も駐車されていないその場所に、眼に痛い塗装のバイクが数台、我が物顔で占拠するかのように停められていた。

 バイクのそば。歩道にであってもお構いなしに腰を下ろしているのは髪を派手に染め、タトゥーもピアスもやりたい放題の若者が数名。未成年らしいが、法律も周りの人々への迷惑もお構いなしにたばこを吸いゲラゲラと笑っている。


 「そうだ健司けんじ、あのお坊ちゃんからもらったカネっていくらくらいだ?」

 「ちょっと待て……五万ってところだな。まあ妥当だろ」

 「五万かー……飲んで食って遊んだらおしまいだな」

 「でもあの辺はいいぜ。塾が近くにあるからパパとママにたくさんお小遣いをもらってるお坊ちゃんが多いからな。それもハンガクの生徒ならねらい目だろ」

 「だな。あそこって中高一貫の私立だろ? 金持ちが多そうだよな」

 「だな! またおねだりしようぜ」


 彼らの犯罪自慢はこれにとどまらない。むしゃくしゃして中学生を殴ったあげく財布を奪う。女生徒への付きまとい。深夜の時間帯でも近くで聞けば鼓膜が破裂するような爆音でバイクを走らせ、偶然居合わせただけの自動車を煽り、複数で取り囲む。

 暴走族まがいの彼らである。しかし、夜通し迷惑行為と暴走を続けて流石に体力が持たなかったか、休憩しながらゲラゲラと笑っていた。

 彼らの声は周囲を顧みないほど大きい。しかし、通りかかる人々は彼らの会話に眉を顰め、道端に集団でしゃがんでいるその様を迷惑そうに見つつも特段注意しようという人はいない。彼らに対する恐れとこれから出勤、あるいは登校するところであることも相まって全員が彼らを邪魔だと感じつつもスルーすることに決めていた。

 だがその行為こそが彼らの自尊心を満たしてもいた。派手に着飾って大きな声でがなり立てる。一人ではなく集団で、自分より若く、背も小さいひょろひょろの中学生なら絶対に勝てる。

 重要なコツはナメられないこと。それを抑えているからこそ、彼らは今のように好き勝手にふるまい続ける事が出来た。


 「いでっ」


 その有頂天に終わりを告げたのは、彼らの内の一人。リーダー格の安房あぼう壮太そうたが通行人にいきなり蹴られた時だった。


 「て……メエ! 何しやがる!」


 それだけのことで一気に怒髪天を突いた壮太がスーツ姿の男に食って掛かる。が、次の瞬間、今度は出勤前と思しき女が壮太の背中にぶつかった。


 「このアマ――」

 「壮太さん! なんかおかしいです!」

 「なんだこれ、どいつもこいつもこっちに押し寄せて――」


 実際、通行人たちは一致団結して彼らになだれ込んできたわけではなかった。もっと別なモノ。見るからにかかわってはいけない暴走族よりももっと恐ろしい何かから逃げているような挙動だ。


 「うおっ!」


 偶然にも壮太だけが集団から弾かれるように転がり出る。そこは人が分かれ誰もいなくなっている場所。さきほど壮太たちがたむろしていたスペースとは比べ物にならないほど大きく穴が開いている。

 そしてその空白地帯ともいえる場所を、一人の男が歩いていた。

 百八十センチに届きそうなほどの長身。誰もが彼を避けた結果出来上がった道をまるで君臨するかのような威圧感と共に黙々と歩いている。サングラスをかけたその顔から表情は読み取れず、寡黙に無表情に彼は歩いていた。


 「な、なんだテメェ! ハンガクか!」


 壮太の言う通り、彼は半田学園ハンガクの制服を着ていた。そのことから壮太は彼を威圧感だけの見掛け倒しだと判断して行く手に立ちふさがる。それを素早く察知して取り巻きたちもわらわらと集まりあっという間に彼を取り囲んだ。


 「ハンガクのお坊ちゃんがよぉ。ずいぶん偉そうにしてるじゃねえか。え?」

 「へへっへ、ボクちゃーん。お兄さんたちいまお金に困ってるんだー。助けてくれないかなぁ」

 「そうそう! 財布をちょーっとおいてってくれるだけでいいからさぁ。ギャハハハ!」


 気色の悪い猫なで声で、耳障りな爆笑で壮太たちは彼に金を出すように迫った。しかし、彼は立ち止まったまま動こうとしない。


 「おい聞いてんのか? 金だよカネ! おらよこせ!」

 「……悪い。今急いでいるんだ。次のバスに乗らないと遅刻する。どいてくれ」

 「…………あ? ちょ待てコラ!」


 それじゃあ。予想外の理由を立ててその場を離れようとした彼を壮太たちが再び取り囲む。


 「なんだテメェ、ふざけてんのか!」

 「俺たちが誰だか知らないらしいなぁ。この俺たち蛮手盗(バンテッド)様をよぉ!」


 蛮手盗バンデッド。半田町周辺で問題視されているグループであり、その悪名たるや、半田町周辺はおろか隣町にまで轟くほどだ。


 「いや、本当に急いでいるんだ。俺に用があるなら今日の夕方五時に又来るからその時に……」

 「ああ!? テメェいいかげんにしろよこのタコ! ふざけんな!」

 「ビビってんのか? あ? ビビってんのかよボクちゃん」


 にべもない彼を怒らせ、あるいは恐れさせようと壮太たちが声を上げる。しかしそのことに夢中になりすぎたせいで、壮太たち以外の通行人が皆彼を恐れて遠ざかろうとしていることには気づかなかった。

 もう一つ。彼ら自身、目の前の人物からくる威圧感を忘れようと声を上げているのだという事にも気づかない。或いは、自分に気づかせないように虚勢を張っているのか。


 「いいや、お前ちょっとツラ貸せ」

 「え、だから急いでいると――」

 「ビビってる! こいつビビってるぜ壮太さん!」

 「ボコっちまいましょう!」


 壮太たちが彼を引きずっていく。通行人たちは威圧感を彼から感じつつも、あの人数差では酷いことになるだろうと気の毒そうに見送るばかりだった。

 しかし数分後。路地裏から飛び出してきたのは連れて行かれた半田学園の制服を着た彼の方であった。「完全に遅刻だチクショウ」と悪態をつきながらバスにタイミングよくやってきたバスに飛び込んでいく。

 壮太を筆頭とする蛮手盗のメンバーは軒並み路地裏に倒れ伏し、恐怖にうずくまっていた。


 「お、思い出したぜ……もっと早く、気づけば……」


 壮太が急いで路地裏を立ち去る後ろ姿に呟く。メンバーの手前臆病なところを見せるわけにいかず、更に頭に血が上っていたことを後悔しながら壮太はその名前を思い出していた。


 「半田市最強の男……竜胆りんどうあきら……!」



 私立半田学園。半田市随一の生徒数を誇るこの学園も、夏休みを終えて文化祭の時期が迫っていた。生徒たちは今年の出し物で盛り上がり、教師たちも出店をだすための手続きや設備の準備で忙しい。

 ここ、二年B組も教室のあちこちで仲のいい者同士グループになって集まり文化祭でこのクラスは何をやるのか。文化祭を一緒に見て回る約束をする友達同士の会話で持ち切りになっている。


 「ほらーお前ら。席に着け―」


 始業のチャイムが鳴り響き担任の国崎くにさき慎吾しんごが入ってくる。話し合いの余韻を残しつつも生徒たちは全員席に座った。


 「出席取るぞー。相浦あいうら摩耶まや―、飯島いいじま芽衣めい―、鵜飼うかい瀬奈せな―」


 出席が取られ始める。半田学園ではあいうえお順で出席番号が割り振られており二年六組では全部で三十一人の生徒がいる。

 一人ずつ名前が読み上げられていく。だが、出席読み上げが終わりに迫った頃。国崎はある生徒の名前で言葉を濁した。

 と、同時に、クラス中の全員が苦い顔をした。今はまだいない。だが、今日も一日そいつと近い距離で授業を受けなければならない。しかも文化祭の準備も一緒にしなければならないのかと思うと腹部に痛みを感じる生徒もいる始末である。


 「り、竜胆―。竜胆晶―、いるかー?」


 意を決した国崎だったが、その声は遠慮がちなものだった。返事はない。どうやらまだ教室に来ていないらしく、願わくば風邪か何かで欠席の連絡が来てくれればうれしいと国崎はふと思った。


 「すみません、遅れました」

 「り、竜胆!」


 教室の扉が開けられ長身にサングラスの男、竜胆晶が入ってくる。制服は若干よれており、どこかで一戦交えてきたのだと容易に想像できるその様から、教室内に緊張が走った。

 特に教壇に立っていた国崎への被害は甚大だった。もともと優しいがそう気の強い人物というわけでもないというのは彼に教えを受ける生徒たちの共通認識であり、しかも昌が入ってきたのは教壇に近いほうの扉。不意打ち気味に彼から発せられる威圧感をもろに受けた国崎は、腰を抜かさないように立っているのがやっとという有様である。


 「い、一応聞くけど、どうして遅れた? 理由を――言ってみなさい」

 「…………」

 「竜胆? ど、どうした」

 「寝坊しました」

 「ね、寝坊だけ? アザが出来ているが」

 「転びました」

 「いやでも……手の甲にもアザがあるぞ?」


 国崎が指さした通り、晶の手の甲には青アザがある。転んで手を突き出したとしても、絶対にできないだろう位置に。

「……その、不良に絡まれて殴り合いになり、倒すのに時間がかかってしまって……でも、吹っ掛けてきたのはあいつらの―――」

 「け、ケンカか!?」


 その瞬間、教室内にヒソヒソとささやきあう声が一斉にあふれた。またやった。今月に入ってもう十回以上。そのスジの人間から声を掛けられているらしい……。根も葉もないうわさではあれど、晶の凶悪なまでの威圧感と表情をよくわからなくさせるサングラスがうわさに尾ひれ腹ひれをごてごてと飾り立てている。


 「…………」


 晶がクラスメイトに視線を向けるのとささやきあう声がぴたりとやむのがほぼ同時の事。誰も彼に対して悪い噂を立てていると思われたくはなかった。既に晶に対してケンカを売った何十人もの不良たちと同じ、もう何番煎じかもわからない末路など誰も迎えたくはなかったからだ。


 「あの、先生。そろそろ席の方にいっていいですか? 出席読み上げも止めてしまっていますし……」

 「ひゃ!? そ、そうだな! うん、そうしよう! いって良し!」


 半ばやけくそめいた調子で国崎が叫んだ。晶はおとなしく自席に向かったものの、他のクラスメイトは恐れるあまり誰一人、動こうとはしなかった。ただ目の前の人物の機嫌を損ねないように黙ってうつむいているのが彼らの精いっぱいだったからだ。不幸にも晶に近い座席に決まってしまった者の中には青ざめた表情の男子生徒や、プレッシャーと恐怖で今にも泣きだしそうな女子生徒すらいる。

 そうこうしているうちに一限目の予鈴が鳴ってしまった。国崎は急いで出席を取り終えるといそいそと教室から出ていく。

 入れ替わるように入ってきた英語教師もまた、竜胆がいることに眉を顰めるのを通り越して一瞬げんなりした表情を浮かべかける。生徒はおろか教師たち一同からも恐れられるのが竜胆晶という男であった。

 そんな竜胆だったが、授業中はなぜかおとなしいことも知られていた。授業の邪魔をせずに、スマートフォンを黒板に向けてセットするとあとは机に突っ伏して眠っているのだ。寝息は小さくいびき一つ立てない。おかげで彼と言う恐ろしい生徒がいながらも授業がまともに始められないという最悪の事態は防げている。そんな彼の、一見すると不真面目でしかないような態度に白い目を向ける生徒がいないわけではなかったが、特段それをとがめるものもいなかった。



 二限目の予鈴が鳴ると二年六組の生徒たちは心の中で安堵する。昼休みの間だけは竜胆が教室にいないため彼に怯える必要がないからだ。

 竜胆は昼休みの間は教室にいない。半田学園では昼食は各自自由に摂ることを許されている。食堂や購買を利用するも弁当を持ち込むも生徒に任されているため教室にいる必要もないのだ。

 いつも通り竜胆が出ていきクラスの誰もが安どのため息をついた。そして緊張から解き放たれた彼らは堰を切ったようにしゃべりだす。


 「はあー、やっと出て行ったよあいつ」

 「てかさー、夏休み挟んでから余計怖くなってない? こっちの耐性が消えたから?」

 「あー、そうかも。でも男子はもっと悲惨じゃない? 体育の時まで一緒とか耐えられないわ」

 「おい女子―、言いたい放題すぎじゃねえか?」

 「でもその通りだよな。あーもう、なんであんな奴と一緒のクラスなんだよ……」

 堰を切ったように愚痴があふれ出す。誰もがどうせ本人には聞こえやしないとタカをくくっていたその時。

 「…………」

 「ヒィィ!!」

 「キャアアァァァ!!?」


 ガラガラと都が空けられ晶が入ってくる。気を抜いていたところに急にまた入ってきた晶の姿に全員が度肝を抜かれた。

 次に今の悪態を聞かれたかもしれないという恐怖が生徒たちを青ざめさせる。本人の居ないところで陰口をたたいていたなど、たとえ晶が相手で無かったとしても避けたいこと。まして相手はあの竜胆晶なのだ。クラス一堂に戦慄が走ったのは当然のことだった。

 晶はゆっくりと教室に入ると自分の机の前に立った。全員が一挙手一投足をかたずをのんで見守る中で、晶は自分の机に置き忘れていた緑茶のペットボトルを手に取る。忘れ物を取りに来ていたのだ。

 その後、晶は再び入ってきた扉からまた教室の外へ出て行った。クラスメイトが叩いていた陰口や悪態は届いていなかったのだと彼らは安堵する。と同時にまた悪態めいたおしゃべりを始めた。


 「あー、怖かった……」

 「生きた心地がしなかったぞオイ……」


 口々に声を漏らすその中で、一人の生徒が恐怖交じりの好奇心からかつぶやいた。


 「ところであいつ、いつもどこで昼飯食ってるんだろ?」



 「はぁ……」


 半田学園三階男子トイレ。未だに和式便座が根強く残っているこのトイレで、晶は誰もいないことを確認した後、盛大にため息をついていた。


 「みんな滅茶苦茶に言ってた……やっぱりあんなこと言わなければ……でもさあ、言わなかったら言わなかったで訳が分からない噂が広がる……ってかもう広がってたし。どうすりゃよかったんだよ……」


 意気消沈しつつ家から持参してきた焼きそばパンを、牛乳もなしにもそもそと食べる。その姿は友達も居場所もないさみしい生徒が行う『便所飯』の光景そのものであり、とても半田市最強の不良ではない。不良とうわさされる晶のことを知っている人間がこの光景を見たら、とても彼を誰もが恐れる不良だとは思わないだろう。

 そう。威圧感がすさまじくサングラスをかけているというだけであって、竜胆晶という男子生徒は不良というわけではない。むしろ誠実な性格であり、学業もそこそこ優秀な生徒として教師たちには――不良ではあるがと言う意味で――知られている。そこに居るだけで他者を圧倒する覇気とその発生源を除けば、彼自身は年相応に友達が欲しいだけの普通の少年である。


 「総菜パンだってもう飽きたっつーの……。みんなはきっと、家から弁当を持ってきて机を並べて一緒に食べたり、学食で好きなものを食べたりしているんだろうな……いいなぁ。俺も友達とくだらないお喋りがしてぇよ。一緒に昼飯が食いてぇよ……」


 羨望と憧憬のつぶやきが男子トイレの中で消える。望む光景を口にしながらも、晶には恐らくそれは絶対に無理なのだとわかっていた。


 「チクショウ……ちくしょう……こんな目さえなければなぁ……」


 焼きそばパンを食べ終えた晶が男子トイレの鏡を恨めしげに睨む。正確には鏡の中に移る自分の顔。普段は色弱を装ってかけるサングラスに隠された二つの眼。

 その眼は明らかに人間のそれではなかった。濁ったような黄色の瞳孔に、薄く切り込みを入れたかのように縦に裂けた黒目。


 「なんでだよ。火代子ひよこは肺なのに……。親父は筋肉だけなのに……爺ちゃんだって目立つような部位じゃなかった。なんで俺だけが眼なんだよ。今までのご先祖様だって、目が出てきた奴はいないのに……」


 竜胆晶が普通ではないのは、彼自身の家系に由来する。竜胆家は家系図をたどれば明治時代にまでさかのぼる、名家というわけではないがそこそこ古い家柄だ。

 文明開化の頃、政府が招いた外国人教師の中に、ドラゴンの血を引く者がいた。その者が現地の日本人、つまり竜胆家の先祖と結婚し、それ以来竜胆家直系の人間は皆体の一部がドラゴンの物に置き換わる様になったのである。

 晶もまた例外ではない。彼の場合は両眼がドラゴンの物になっている。視線を向けた相手に対して威圧感を与え、普通は見えないようなモノも見える特別な眼だ。


 「こんな目じゃなぁ……誰も友達になんかなってくれねえよ!」


 悔しまぎれに拳を鏡に打ち付ける。晶自身はこの特別な眼にも感謝したことはない。それどころか、生まれてから自分の眼と出自を呪わなかった日はないほどに憎んでいる。

 それと言うのも、晶の持つドラゴンの眼に致命的な欠点があるせいだった。彼自身では眼から放たれるプレッシャーのようなものを制御できないのだ。成長するごとに眼から放たれるプレッシャーも増大していき、今では目を向けていない方向にすら威圧感を与える始末である。

 そして恐ろしいことに、この威圧感は小動物程度の生き物なら殺してしまえるほど強いものになっている。それは彼が小学生だった時点で、水槽を覗き込んだら中にいたメダカが全滅したほどの強さだったのだ。まして高校生にまで成長した今、メダカはおろかウサギや子犬。最悪の場合人間の赤ん坊をも殺す程強くなっている可能性がある。そう思うと、晶は恐ろしくてサングラスを外すことはおろか、下手に何か生き物を見ることもできなかった。

 悔し紛れに拳を振り上げる。自分のこの黄色く濁った爬虫類の眼が憎い。こんな目のせいで自分は一人ぼっちだ。そんな黒々とした怨念を、いつも晶は抱えていた。

 だが、爪が皮膚に食い込むほど強く握りしめたその手を、晶は静かに下した。鏡に八つ当たりをしてどうにかなる問題ではない。まして自分の八つ当たり割られる鏡はいい迷惑だし、そもそも鏡を割ってしまえば余計に悪評が経つ。拳のやり場を見失った晶はとぼとぼと教室に戻ることにした。

 晶が教室に戻るのは、クラスの全員が食事に出て行った頃だ。昼休みの半ばを見計らって教室に戻れば、後は授業を記録するためにスマートフォンをセットして授業が全て終わるまで机に突っ伏して眠ったふりを続ければいい。

 変わらずにいつも通りの道を通る。途中すれ違う生徒たちも晶の姿が目に入った途端にすぐさま目をそらし、速足で遠のいていく。

 きっとこれから先の人生で出会う誰もが自分から目を背けるのだろう。誰にも顧みられず、誰にもそばにいてもらえない。そんな人生は死んでいるのと何が違うのか。

 そんな自分の未来を想像して余計にしょげ込む晶の耳に、若干耳障りな高い声の大笑いが聞こえてきた。笑い声の方を窓ガラス越しに見ると、女子生徒が三人女子トイレから出てくるのが目に入った。三人とも制服姿ながら雰囲気それ自体が派手な感じであり、クラスカーストがあればまぎれもなく上位にいるだろう三人である。そのクラスカーストの中にも入れない晶からしてみれば、三人とも憧れる以前に高みの果てにいるような感覚になる。

 三人のがなるようなお喋り声が遠ざかっていく。バレずにやり過ごせたことを確認した晶が安どのため息を漏らして一歩踏み出したその時だった。


 「わぷっ」

 「おっ……と」


 女子トイレから飛び出してきた小柄な人影を、晶はよけきることが出来なかった。ガランガランとぶつかり、人影のほうがしりもちをついて倒れる。


 「すみません。ちょっと不注意で――」


 ぶつかったことがではなく、その後視線を向けてしまった事が不注意だったとすぐに晶は後悔した。ぶつかった少女は小柄で、百八十センチメートルある晶の腹くらいまでしか背丈がない、濡れたような黒髪が印象的な少女だ。


 「あれ、その髪の毛……」

 「――っ!!」


 すぐに晶は少女の違和感に気づいた。濡れたような黒髪だが、本当に水けを感じる。彼女はぶつかった拍子に晶の服まで濡れる程全身ずぶぬれになっていた。


 「だ、大丈夫かよ! ちょっと、あの、保健室行ったほうが……」

 「大丈夫ですから! ぶつかってす、すいませんでした!」

 「ちょっと――」


 晶の制止を振り切って少女が走り去っていく。怯えた顔をしていた。彼女に何があったのかは想像するしかないが、晶の眼が追い打ちをかけてしまったことは間違いないだろう。

 それを思ってまた晶は気落ちした。女の子一人慰めてやれない自分と、それを絶対に許さない自分の眼につくづく嫌気がさす。


 「はぁ……ん?」


 視線を落とした時、地面に弁当箱が落ちていることに晶は気づいた。ガランガランという先ほどの音の正体はこの弁当箱だったのだろう。

 拾い上げれば、小柄な彼女らしく晶の掌にすっぽりと収まってしまいそうなほどに小さな弁当箱だった。届けてやろうと動きかけた足を、再び襲う諦めがとどめてしまう。


 「俺が届けるより忘れ物に届けたほうがいいだろ」


 何より怯えられずに済む。そんな自分な卑屈な考えも嫌いながら晶はゆっくりと職員室に歩いていった。

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