第七話 『ふたりの秘密』
優太はわけがわからなかった。
なぜ明日香が硬式用の使い込まれたグローブを持っている?
なぜ『甲子園』と刺繍されている?
そしてなぜグローブを隠そうとした?
優太は色々な推理をした。中古で購入したのか、あるいは友達から貰ったのか。しかしこの推理は見事に全て打ち砕かれたのであった。
「私ね、4歳年上の兄がいたの」
その言葉を聞いて全てを察した。優太は衝撃のあまり口も頭も動かなかった。明日香はあくまで気丈に語り続ける。
「私の兄は2年前の夏、練習中に亡くなったの。このグローブは兄が最後まで使ってた形見だから。宝物だから」
優太は口が開いたまま、どうすればいいのか全くわからなかった。明日香の顔は笑っていたが、声は震え、その目は悲しみに満ちている。
「打撃練習でバッティングピッチャーしてた時に打球がネットを貫通して頭に当たったの。意識がなくなってそのまま帰ってこなかった。本当に急だったから、まだ現実だと思えなくて」
「…ごめん」
優太はそうとしか言えなかった。
「優太くんが謝ることじゃないよ。それに打った選手が謝ることでもない。仕方ないことなんだよ。でも、だからこそ悔しくてね」
明日香は兄のグローブを一点に見つめ、涙を零す。
「一時期は野球が嫌いになった時もあったんだ。たかがスポーツに兄が奪われたんだと思うと、ね」
「なら、どうして野球部なんて作ろうと思ったの」
優太は勇気を持って踏み込む。これは知らなければならないことだと思った。明日香は涙を拭い、まだ震えの止まらない声で話す。
「兄がきっかけで始めたのが野球だったから。ちょっとした兄への恩返しのつもりかな。だから無謀だと思っても優太くんに声を掛けてみたの」
「そうだったのか…」
「だからね、優太くん。諦めかけていた私の後押しをしてくれてありがとうね」
「おれは何も出来てないよ。明日香が頑張っただけ」
またも零れる涙に、優太は頭を撫でることしか出来なかった。
「実はさ、明日香が誘ってくれてなかったら野球辞めるつもりだったんだ」
優太も自分の隠していたことをさらけ出す。明日香は顔を上げると、疑問を持った目で優太の方を見た。
「何かあったの?」
「おれ、イップスなんだよ」
優太は真剣な目で明日香を見つめた。
イップスは主に心理的な要因によって引き起こされる運動動作障害のことだ。明日香もそのことは心得てはいた。優太は続ける。
「中学が結構荒れててさ、そんなこと知らずに出しゃばって1年生の夏からエースの座取って、それをよく思わない先輩から先生のいないところでいじめられてた。主に元エースで僕のせいでキャッチャーになった先輩。サインを出してくれなかったり、投げたボールを捕ってくれなかったり。そんなことをされてるうちに、いつの間にかボールを投げられなくなってたんだよ」
明日香はまたも辛そうな顔をし、手でその口元を覆っている。そして少し違和感を感じた。
「でも今ちゃんとキャッチボール出来てたよね」
確かに明日香とのキャッチボールではそんな要素は微塵も感じさせることはなかった。優太は答える。
「キャッチボールは大丈夫なんだ。でもキャッチャーが座ってバッターが立つと、途端に大暴投でバックネットへ一直線。リリースの瞬間、キャッチャーがボールを捕ってくれないような予感がして腕に力が入らなくなるんだ」
優太は投球動作を交えながら説明する。
「ごめんね、私が誘ったせいで嫌なこと思い出させてしまったね」
今度は明日香が謝った。でも優太は強く首を横に振った。
「違うよ。ありがとうって言いたいんだよ、明日香。明日香が誘ってくれなかったら好きな野球から逃げてたと思う。高校でも野球部に入るのは使命みたいに感じてたんだけど、この学校に野球部がないと知って少しほっとしてしまったんだ。結果的にだけど、逃げようとした自分は愚かだよ。だってこんなに辛い思いをした明日香が、まだ野球を諦めないで戦おうとしてる。負けてられない」
明日香もまた首を横に振りながら優しく語りかける。
「私の夢に手を貸してくれてありがとう。これから一緒に頑張ろう」
「うん。こちらこそありがとう」
優太は強く頷いた。
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