第2話
小説家になりたいと思っていたが、書きたい物語があるわけじゃなかった。
小学生のころ、作文が好きだった。行事があれば、その都度書かされる感想文。みんな苦手だというけれど、逆に目標の作文用紙じゃ足りないほど書くことができた。
読書も好きだった。図書室に通い、興味がないものでも片っ端から読破した。
読むことが好きで、書くことも好き。そのころから、小説家を目指すだけの下地はあったのかもしれない。
決定的だったのは、小学校の夏休み。自由研究で書いた小説が、小さな賞をもらったことだった。市が開催する市内の小学生限定の作文コンクール。それに応募したのだ。数千字程度の短編だったと思う。書くことは得意だったので、それだけで夏休みの宿題が一つ終わるならラッキー程度の気持ちだった。当時好きだった『エルマーの冒険』を意識した、小さなドラゴンを拾うお話だった。
もらったのは佳作で、賞金もでなかったが、市のホームページに小説がのり、名前が載った。
そのときの快感が、忘れられなかった。
それからだ。自分の夢を小説家にしたのは。
書きたい物語があったわけでもない。伝えたいことがあったわけでもない。ただ、自分の名前が載ったことが嬉しかった。それだけだった。
あれから、二十数年余り。
三十目前になった今でも、相変わらず小説家を目指している。
あれ以来、賞をもらったことはない。書いても書いても、落ち続ける日々だった。
5年前に結婚し、妻の稼ぎで十分生活できるようになってから、アルバイトをやめた。「書いてていいよ」という妻の言葉を真に受けたのだ。
結婚と同時に授かった右際。妻に変わり、専業主夫として毎日を過ごす。子育てしながら小説を書き、落ち続ける。風泉という奴はそんな男だ。
朝6時に起き、朝食を作る。それから右際のお弁当を作り、前日にお願いがあれば妻の分も作る。妻を見送り、右際を幼稚園に送ったあとは、掃除や洗濯を済ませ、そのあとは小説を書く。午後三時になると右際を迎えにいき、ついでに買い物をすませる。帰ってくると洗濯物を取り込み、夕飯を作り、お風呂をわかす。妻が帰ってきたら夕飯。それからは家事をしながらまた小説を書く。その繰り返しだ。
今日も、そろそろ家事を再開しなければならなかった。右際を迎えに行く際、財布を忘れてしまったため買い物は行けていない。卵を買わないといけない。安ければ牛乳もだ。日が落ちるまえに洗濯物を取りこんで、お風呂を洗って、夕飯を仕込んで、それからそれから―――。
目を開けると、どこか外だった。
薄い雲がわずかに広がる空。遮るものがなく、端から端まで水色が見渡せる。
首元と手にチクチクとした感触を感じ、身体を起こす。小学生が描く草原のような、若草色の世界があった。芝生が広がり、なだらかな丘になっている。
「ど、どこだここはあああ!」
叫ぶ隣で「あーあ、移動がずれちゃいましたね」と『な』が帽子を直した。「ここはどこでしょう」
「ねりで丘じゃないかな」と同じく身体を起こした右際が言う。「ほら、あそこにお城が見えるよ?」
「わー! 変なところに連れてこられた! 日本じゃない! 見たことない! どうすればいいんだ!」
「おや、本当ですな。よかった、そこまで離れていませんな」
「『あ』と『お』はどこにいるの?」
「このまま帰れなかったらどうしよう! 家に鍵をかけてないし、クーラーだってかけたままだ!」
「お城にいます。二人とも、右際さまの到着を心待ちにしておりますよ」
「じゃあ、ぼくは先に行ってくるね」
「ママになんていえばいいんだ! まだやらなきゃいけないことが山ほど残ってるのに!」
「おひとりで大丈夫ですか?」
「『な』はパパと一緒にいてあげて」
じゃあパパ、行ってくるね、と声がした。「え、右際」名前を呼ぶが、右際はもう駈け出している。家の中にいたのに、なぜか靴を履いていた。こちらもだ。一体いつの間に。そんなことに気をとられているうちに、右際の姿は小さくなっていた。
「元気な子ですなあ。私ももう少し若ければ」
「わああ! 右際はどこに行ったんだ!」
「ちょ、ちょっと、頭を揺らさないでください!」
がくがくと揺すると、慌てて『な』が叫んだ。「お城に行きました。私たちも向かいましょう」
「お、お城?」
あそこです、と『な』が指さす。若草色の中に、ただひとつ、でん、とそびえたつ建造物が見えた。
遠くで細部までは見えないが、かなり立派なものだ。土を固めたレンガを積み上げているのか全体は黄土色。攻めてくるものがないのか塀や柵はなく、見晴らしのいい位置に建てられている。
「ひらがな国でも一、二を争う素晴らしい建物ですな」
「ひらがな国?」
「先ほども言ったでしょう? いま、あなたがいるところです。ここはひらがな国の、ねりで丘です」
試しに、頬をつねってみる。痛い。痛みがある。
「夢じゃない!」
「なにを騒いでいますかな、置いていきますよ」
先を進む『な』を見失わないよう、慌てて駈け出す。まさかこんな変なところに連れてこられるとは思わなかった。
「あー、帰れるのかなあ……」
「帰れますよ」不安に思っていることが信じられないという口調だった。「今頃は、右際さまが仲裁してくださっていることでしょう」
「……仲裁?」
たしか、『あ』と『お』が喧嘩していると右際は言っていた。それを『な』が助けてくれと言ってきているとも。
「前回も『れ』と『わ』の争いを止めてしまいました。素晴らしい方ですなあ、全く」
「そうだ」パンと手を打つ「さっき右際から聞いたんだが、それは一体なんなんだ?」
「ご、ご存じない!」
『な』は飛び上がるほど驚いていた。「そうですか……。あのお方は、あれほどの功績も大したことじゃないとお話にならないのですね。なんという謙虚な方だ」
違うと思う、とは言い出せなかった。
「では、私からお話いたしましょう。あれは先日のことでした」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます