『あ』と『お』の喧嘩

ねすと

第1話


「ねえ、パパ。ぼくこの前、『れ』と『わ』の二人を仲直りさせたっていったでしょ?」


 その声と同時に、先月五歳になったばかりの息子、右際うきわが書斎に顔を覗かせた。


「『れ』と……なんだって?」

「『わ』だよ。パパ」


 言ったでしょ? と首を傾げられるが、記憶にない。そんな表情を見て察したのか「あれ、ママに言ったんだっけ?」と右際も困惑したような顔になった。だがすぐに「まあ、いいや」と頭から振り落とすように数回、左右に頭を振る。


 幼稚園から帰ってきて、三十分ほど経ったころのことだった。

 迎えに行った車の中で右際がうとうとと舟をこいでおり、「帰ったらお昼寝する」というので布団を敷いた。おやつも食べず、布団に潜り込む右際を見届けたあと、お昼寝の間だけでもと思い、小説の続きを書こうと書斎に戻って間もなくのこと。


 さっきまでの眠そうな顔はどこへやら。重そうな瞼は、すっかり軽そうになっている。


 右際の身長ではノブに手が届かず、閉めると外の音がよく聞こえないという理由で書斎の戸は取り外してある。右際はそこから首から上を器用に覗かせていた。


「ねえパパ、聞いてる?」

「聞いてるよ。仲直りさせたんだってな。それはいいことをした」

「それでね、今回は『あ』と『お』が喧嘩しちゃったみたいで」

 五歳児には似つかわしくないような、難しい顔をした。


「今、調停官の『な』が下にきてるんだ。助けてって言ってるから、ぼくちょっと行ってくるね」

 顔が引っ込む。ちょうていかん? そんな言葉、いつ覚えたんだ? 右際もこっちも、最後まで難しい顔のままだった。なにを言ってるのかさっぱりわからなかったが、これだけはわかる。


 ――息子はどこかに行こうとしている。


「ちょっと待ちなさい! 一人で出かけちゃ」

 ダメ、と言いながら書斎を出るが、姿はない。書斎は二階にある。耳をすますと、パタパタと足音がする。階段を下りている。慌ててパソコンの電源を落とし、一階に向かった。


「右際、パパも行くから待っ……て、うわああぁああぁ!」

 驚きすぎて、転ぶかと思った。

 一階のリビングに、誰か知らない人がいた。体格を覆い隠すような分厚いトレンチコート。つばの長いハット。たっぷり蓄えた髭。襟までしっかり立たせているので顔もよくわからないが、


 ――『な』だ!


 彼(性別不明。おそらく)を見た途端、この人(断定)の名前が『な』であるとわかった。いつの間に家に入っただとか、そんなことは一切忘れてしまうほど、頭の中に強烈にその文字が飛び込んでくる。


 ひらがなの「な」が服を着て立っている。


 そうとしか思えないほど、彼は「な」で、それ以外はあり得ないような、そんな印象だった。

「あれ、パパも行くの?」と、『な』と手を継いだ右際が言う。「ねえ、パパも行ってもいい?」

「ふむ……右際さまのお父様ですか」


『な』は右際から手を放し、歩み寄る。声は中年男性のそれだった。おそらく三十前後。若くはない。ハットを持ち上げると、人の形をしたものがそこにいた。人間だ。おじさんだ。だが、なぜだろう。


 いくらそう思っても、彼が『な』であるとしか思えない。あの姿が偽物で、背中にチャックがあり、実は人の皮を被っていましたと言われたほうが納得できる。ひらがな「な」を極限まで擬人化すると彼のようになるのだろう。


「失礼ですが、あなたのお名前は?」『な』が髭を触りながら訊いた。

「……風泉ふうせんです」


 ふーむ、と、『な』は考える。「な、の文字がありませんね」


「そうですね」

「ちなみに、苗字は?」

太刀一たちいちです」

 また、しばし考える。「こちらも、な、がありませんね」

「はあ、そうですね」


 少しがっかりしたように肩を落とす。が、すぐに落とした肩を上げ「次にお子様が生まれたとき、名前には『な』を入れましょう!」と両手を広げた。「男の子なら『那奈名ななな』、女の子なら『奈菜南ななな』にしましょう!」


 ……なんだこいつは。


 な~それは世界で一番素晴らしい文字~、と歌いだす『な』から遠ざけるように右際の手を引く。


「なあ、あいつちょっと変なんじゃないか?」

「『な行』のひとはみんなああだよ?」


 見慣れているのか、右際は笑顔で首を傾けるだけだった。

「おっと、すいません」『な』が歌うのをやめ、こちらを見る。「こんなことをしている時間はありませんのに。右際さまには、早急にきていただかないと」


「い、行くって、どこに?」思わず右際の手を引く。

「我々の世界、ひらがな国にです」

「……どこだそこ?」


「口で説明するのは難しいですな」とうーむ、と髭を触る。「なあに、心配いりません。右際さまならちょいちょいと解決してくださいます。お手間はとらせません」


 どっかどっかと歩み寄り、右際の手を取る。「では、行きましょう」


「うん。パパもいい?」右際も慣れているのか、怖がる様子はない。


「ちょっと待って、だからいったいどこに行くって――」

 咄嗟に『な』のコートをつかんだ。


「なな! そこをつかんだらだめ!」


「え?」

『な』の叫び声が聞こえたと思ったら、視界が暗転した。


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