第68話
「柊、起きなさい。出かけるわよ」
「んぁ?もうちょい……寝させて」
頭がぼんやりとしていて、愛美の声が柔らかく耳に残る。昨日の疲れが残るなか、起こさせるのは中々に不快だ。よって、俺は布団に潜り抵抗の意思をみせる。されど、愛美が諦めるはずもなく、あっけなく俺の布団は奪い取られる。
「はぁ……。朝から疲れさせないでほしいわね」
「眠い」
「ほら、準備するわよ」
愛美がベッドから降りる音と、振動が伝わる。
何故こんなにも朝に強いのだこの人は。昨日は愛美もハードな一日だったはず。それに加え俺の髪まで切っているのだ。体力と気力が無尽蔵なのかと思ってしまう。
そんな事考えていても仕方がない。
冬の冷たい水でも顔に浴びせれば、嫌でも体が起きるだろう。
愛美を追いかけるように、部屋を出て洗面所に向かう。
階段を上って地下を出るドアを開け、何メートルか歩くと美鈴ちゃんと出会った。いや、出会ったいう表現はおかしいか?だってここは家だ。あたかも、外でばったり会ったみたいに言うのはおかしい気がする。
まぁ、そのくらいこの家が広いのか。
「おはようございます。お兄……さん」
「うん、おはよう。今起きたの?」
「姉さんに毛布取られました」
「それは災難だったね。俺も取られたよ」
愛美に対する愚痴じゃないけど、文句みたいなものを話しながら洗面所に向かう。
「そういえば、今日どこ行くか知ってる?」
「確か、ショッピングって言ってた気がします」
ショッピングって……。今日は休日なはずなのだが。別に嫌じゃないけど、本音を言うと家でゆっくりしていたい。
「ほら、こんど椎名家のパーティーあるじゃないですか。それの用意とかだと思いますよ」
「ぷは。なるほどね」
冷たい水を顔に浴びせ、柔らかいタオルで顔を拭く。最初の方はタオルの香りが分かっていたけど、少しずつ分かりにくくなってきたな。匂いに慣れてきたのかもしれない。けど、愛美の甘い匂いは慣れないというか、ちゃんと分かる。
「そういえば、髪切ったんですね」
「うん。長いと鬱陶しいから」
「へぇー。私は長い方が好きでしたけど」
「え、そうなんだ……」
「まぁ、髪が短くても長くても、お兄さんは私のお兄さんなのでどっちでもいいですけど」
自分の伝えたいことだけを伝えた美鈴ちゃんは 「じゃ、先に行きますね」と洗面所を出て行った。
美鈴ちゃんは長い方が好きなのか。愛美はどっちの方が好きなのだろうか。俺は切るとき、どのくらいの長さがいいとか言ったことがないから、この今の長さが案外好きなのかもしれない。もう少し愛美も美鈴ちゃんみたいに言ってくれれば、俺もそれを目指せるのだが……。とりあえずさっさと準備をしないと、また愛美にどやされそうだな。
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愛美に連れて来させれたのは、前にも誠たちと一度きたレイジータウンのショッピングモールだった。ただ前と一つ違うのは、圧倒的に全ての物の値段が圧倒的に高かった。
例えば、イヤリング。八の後ろにゼロが四個もあった。あれが、ネックレスや指輪ならまだかろうじて分かるのだが、あの小さい輪っかで八万円もするなんて衝撃的でしかない。それと、一応横にもう一つイヤリングがあったのだが、ゼロが6個あった。最初に見たとき目玉が飛び出そうになった。結構本当に。
「疲れた」
「そうかしら?」
多分気付いていなのだと思う。女の買い物は必ず長いということを。前に一度来た時の優香たちの買い物も長かったし。
「とりあえず、お昼ご飯にしましょうか」
「やったー!」
どこまでも元気がいい子だ。その3分の1くらいでいいから、分けてほしい。
「柊くんは何か食べたいものとかある?」
「い、いえ。特に」
「じゃあ、適当にどこか入りましょうか」
「私ハンバーグ食べたーい」
「はいはい」
美鈴ちゃんと愛美の違いはなんなんだろうと考える。違いといっても、外見とか性格じゃない。
何かが違うのだ。もちろん姉妹といっても別人な訳で人それぞれで、みんな違う。
でも、そういうのじゃなくて何かが違うと感じるのだ。だから、なんとなく愛美に聞いた、
「愛美って、変わろうとかって思ったことあるか?」
「藪から棒ね。……あるわよ。一度だけ」
「へぇー。きっかけとかあるのか?」
「……大切なものを奪われたからよ。取り返したかったけど、力がなかった私にはどうする事もできなかったわ。だから、勉強も自分磨きも振る舞いも、それこそ全部、死ぬ気で頑張ったわよ」
「そうなのか」
思った以上に壮絶的だったな。じゃあ、もしかしたら、その大切なものを奪われたりしなかったら、今とは全く違う愛美になっていたかもしれないってことか。もし、その大切なものを奪われなかったら、俺は愛美と会うこともなく愛されなかったかもしれないってことか。なんだろう。少し複雑な気持ちだ。
「その、大切なものは取り返せたのか?」
「えぇ。ちゃんと」
「そうか。……頑張ったな」
「……」
出来るだけ俺なりに褒めると、何故か目を見開く。足が立ち止まりそこから動かない。すると、左目から一滴の滴が垂れ落ちた。
「え?ど、どうした?」
「い、いや。なんでもないわ」
こんな愛美は見たことがなかった。涙を流すことは前一度見たことがあるけど、こんなにも何か達成感というか、もの凄い嬉しさからくる涙が愛美から流れるなんて、見たことも想像もできなかった。どこか愛美は人の心はあるけど、感情は普通の人と比べると薄い気がしていたのだ。
けど、今の愛美を見ると、どこか人間味を感じる。
「ハンカチいるか?」
「……大丈夫」
作り物じゃない。仮面をつけていない。隠しきれていない。そんな、愛美を見たんだ。それこそ変わる前の愛美。言い方を変えると力がない弱い愛美。
もう一人の本当の愛美。
「美鈴ちゃんに見られたらいじられそうだな」
「そうね」
少しまだ涙目だ。そして、それに気づかない美鈴ちゃんではない。一瞬で反応するだろう。さらに、それに加勢するのが百合さんだと思う。
今の状況の愛美にとってある意味最恐のコンビだな。
「……愛美は携帯持ってるよな」
「えぇ」
「俺買いたい物あるから、付いてきてくれよ。お腹が減って嫌ならいいけど」
「行く」
「なら決まりだな」
そうして俺は、愛美の柔らかくて細い手を掴んで、美鈴ちゃんたちと別の方向に歩き出した。
「今の柊じゃね?」という言葉はこの時聞こえなかった。
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