第62話
「その人ってもしかして……桜崎にいる?」
「それは……」
これはどう答えるのが正しい選択なのだろうか。正直に答えることが全て正しい選択ではない。嘘を使って乗り切ることも正しい選択の一つ。
愛美と俺は意外と学校で接してしまっているから、答えにたどり着くのは難しくないはずだ。それに、白石さんにも一緒に歩いているところをガッツリ見られたわけだし。やはり答えは遠くない。
どう答えようか悩みながら優香の顔をチラリと見ると、その表情は真剣そのものだった。
どこからか、嘘は逃さないと聞こえた気がした。
俺は正直嘘をつこうとしていた、けど今は通じない。だから――
「内緒」
はぐらかすことにした。本当でも嘘でもないこの選択を俺は選んだ。
「そっかー。内緒かー」
「うん、内緒」
「じゃあさ、最後に一つ教えて」
「ん?なに?」
優香は何か、覚悟を決めたかのような挑戦的な顔を俺の顔に近づけた。それこそ、あと少し近づければくっついてしまいそうなくらいに。
「大切なものを取られたら取り返す?」
「え?」
「教えて?」
「えっと……」
その問いに対する答えはすぐには浮かばなかった。大切なものなんてつい最近までなかったし、それこそ、無かったわけだから勿論取られたこともない。
だから、俺は必死で頭を回転させて、今、俺にとって大切なものを誰かに取られたことを想像する。
大切なもの……明確に分かるのは愛美と美鈴ちゃんと暮らすあの時間。
奪う人物はピンとはこないけど、とりあえず取られたことを想像する。
「……」
最初に感じたのは苛立ち。俺から大切なものを取ったことに対する苛立ち。
その次は嫉妬。俺と入れ替わってあの時間を過ごしていることに対する嫉妬。
最後に……奪い返すという強い気持ちだ。だから答えは必然的に――
「取り返すよ。何があっても絶対に」
「そっか。分かった。ありがと」
「こんなことしか言えないけど」
と、少し自虐を混ぜながら軽く笑うと、優香が「ううん。すっごく役に立つよ」と口にする。
俺には人を動かせるような言葉も行動もできないから役に立ったのなら嬉しい。
「よし。そろそろ戻ろっか」
「うん」
優香に赤いコートを渡してお茶をのっけてきた、お盆を丁寧に持ち立ち上げる。
久々にきたこの部屋とも、もうお別れだ。雰囲気も匂いも部屋の暗さも、このボロさもこの音も、もう味わうことはないだろう。この部屋にろくなお別れもできなかったけど、少しの間ありがとうと心の底で呟きながら、最後に電気を消した。
前と横は暗い外、後ろは暗い部屋。全てが暗いこの空間。刹那、後ろから甘くてさっぱりしたいい匂いの塊が背中に衝突しそのまま俺に抱きつく。そのまま俺の耳に吐息をかけるように口を開く。
「ふぇっ?」
「覚悟して待っててね」
「な、なにが?」
「絶対に取り返すから」
耳が弱く、その吐息に悶えている最中、その甘い香りの主はその言葉を告げて先に階段を降りていってしまった。
な、何が起こったんだ。体感だと一瞬過ぎて訳が分からない。
「ほらー、早くー」
間違いなく俺の頭を混乱させたのは優香だ。呑気に早くーなんて言ってるけど俺はそれどころじゃない。包まれた感覚を少し思い出すと、心臓がバクバし始める。こう、愛美とは違う安心感と柔らかさがあって、それで……ダメだ、これ以上考えるな。顔があつすぎる。
心臓も心も思考も、落ち着く暇もなく急かされた俺は、壊れかけで錆だらけの階段を下る。
土に足をつけると、優香が俺の顔を覗き込む。
「照れてるの?」
「照れてないから」
「ふーん。じゃあもう一回してあげよっか?」
「い、いいから」
と、さりげなく距離をとる。
「と、とりあえず早く戻ろう。暗いから危ないし」
「そうだねー」
「あ」
その前に、このお盆を大家さんに返さないと。
優香にお盆を返してくることを告げて、大家さんの部屋に足を運ぶ。ドアの横に付いている、インターホンを押すと、ピーンポーンと鳴り部屋の中から足音が聞こえ始める。ガチャとドアが開く。
「もう、帰るのか?」
「はい。お世話になりました。これありがとうございます。美味しかったです」
「そうか」
相変わらず笑顔のない人だ。久しぶりに会ったわけだから少しくらい見せてくれてもいいのでは、と思ってしまうが前からこの人はこんな感じだし、今更強く思うことはない。
最後にもう一度お礼を言って立ち去ろうとすると、「柊」と低い声で呼ばれる。
「約束、忘れるな」
「え?」
それって……。俺がいつかまたここに来るって言ったやつだよな。
それだけ大家さんは俺に伝えて静かにドアを閉めた。
「はは」
何故か少し笑ってしまう。嬉しかったからなのか、大家さんがそんな事を言うことが可笑しかったからなのか分からなかった。けど、約束は守ろうと心に誓った。
「よし、帰ろう。学校に」
「うん。紗枝たちにも迷惑かけちゃったなー」
「一緒に謝るよ。俺もコンテストすっぽかしたし」
「いいよ。私だけの責任なんだし」
「そっか……」
そんな感じで、この凍てつく冬の夜空の下を歩いた。10分くらい歩くと学校の明かりが遠くに見え始める。
「意外と結構近いんだな」とぼそり、隣にいる優香にさえ聞こえないくらいの声で口ずさむ。
冷たい北風が叫ぶように、落ち葉の舞う音が耳によく響く。住宅街を抜けると、見覚えのある通学路にたどり着く。通学路といっても、俺は車で桜崎の近くまで来ているわけだから、もうほぼ目の前だ。
「ふぅ、着いた」
「そうだね」
優香を連れて帰ってこれたと心の中で実感しながら、校門をくぐり抜けようとすると、腕をガシッと掴まれ引き戻される。何事だ?と思うくらいに力強い。だから、違和感を覚えた。優香ではないと瞬時に判断しできる。背中に嫌な冷たさと、針で刺すような緊張感が体に走る。
「どこに行ってたの?」
「あ、あい」
「誰が許したの?」
「ちょ、ちょっと!アイビー先輩!」
左を見るとそこには、優しさなんてどこかに消えたような愛美が眉間にシワを寄せていた。
愛美の目はいつか見た、ドス黒いような闇が渦巻いている。
風はその表情が怖いと思ったのか、さっきまで音を立てていたのに、ふと消えた。
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