閑静な朝
――いい天気ですね!
下手にも程があって、けれどそれだけ、誠意が伝わってくる。そんな人だった。もう少し場慣れして居てくれれば、興味すらも持たなかっただろう。今さらになって悔やんでも、悔やみきれない。
――仕方ないだろう、仕事なんだから。
そんな事は言われなくても分かっている。だからこそ、一言だけでも、気遣って欲しかった。上手い言い訳をして欲しかったのではない。上手く取り繕って欲しかったのでもない。そんなことが出来ない位、こっちの方がよく知っている。
――いくなっ!
もう遅い。踏み出した一歩は戻せない。全部君のせい。全部、全部。もう邪魔なんてしません。だからせめて、一生私を覚えてて?
全てが今更。その筈だった。もう戻れない。もうやりなおせない。その覚悟は、してきたのに。してきた筈だったのに。
なのにどうして、君まで此処に居るの?
朝と呼ぶには遅い時間。昼と呼ぶには早い時間。数日ぶりに閑散とした空気の元、シイナが簀巻きになっていた。同じ方向へ寝返りを打ち続けたのだろう。掛布が体にがっちりと巻き付いている。
「え、えっ。や、うっ。なん、やっ」
呻きだしたシイナの目は、まだしっかりと閉じられていて、きっと半分夢の中。寝ぼけた頭と見えない目で、動かぬ手足はどのように感じられるのだろう。くの字に折れては、まっすぐ伸びてを繰り返している。
「がっ」
やがて伸びた勢いで、後頭部を壁に打ち付けた。それでようやく、薄っすらと目を開ける。己が身を確かめて、嘆息した。
「うそぉ」
脱力しても隙間すら出来ない。薄い掛布はぴったりと体に張り付いていて、たおやかな曲線を描いている。一部を除いて。
「んぐっ、なんっ、もうっ!」
あるいは大声で助けを求めれば、セネカは駆けつけてくれるかもしれない。窓から丸見えだと指摘されたくらいだから、自然と発見される可能性もある。しかしいずれの場合も醜態を晒すことになるわけで、それは最後に取っておきたいと思うのが人の情。それだけ余裕が残っている証。
「ふんぐっ、ふんぐっ」
腹に力を込めた鼻息を掛け声にしながら、首からを上を支えにすることで体を回した。顔が下を向いた時は苦しかっただろう。寝起きの一番からハードな体幹トレーニングを行った結果、シイナはようやく、戒めから解放された。額には前髪が、首から下にはぐっしょりと濡れた寝巻が、ベッタリと張り付いている。
暫くは敷布の上にペタンと座り込んで息を整えていた。腹を繰り返し伸縮させ、体に血液を行き渡らせる。両手をついて項垂れて、やがて大きくため息をついた。カラカラに絞られた体を引き摺って、着替え片手に湯浴みへ向かう。
「おはよーございまーす」
気持ちテンションの高いソフィアが着いた時、食堂には誰も居なかった。それ自体は普段通りだが、今日は物音ひとつしない。訝しみながら調理場をのぞくと、そこにすら誰もおらず、置かれた鍋は冷たいまま満たされ、食されるのを待っていた。
シイナは何処へ行ったのか。食事がまだなら、入違った可能性は低いだろう。昨日の様子を鑑みるに、まだ寝ているとは考えづらい。つまり身支度中ではないか。そう結論付けたソフィアは、あれこれと思案した挙句、常識と欲望の折衷案として、大声で呼びかける事にした。
「シイナー?」
ドタン、ガタン、バダン、ゴン。最後の”ゴン”だけ、やたら低くて鈍かった。おそらくそれは、シイナ自身がどこかに突撃した音。無事を祈りながら見守るソフィアの前に、やたらとキッチリした身形のシイナが現れた。ボロボロの表情がよい引き立て役になっている。
「おはよ」
「おはよーございます」
「ごめん、寝坊しちゃった」
「いえ、まだ早いですから、大丈夫じゃないかと」
「でも、ご飯食べるには、ちょっと遅いよね」
「あー、それは、まー」
「折角カノンが用意してくれたのに」
「いや、どーせあれ作り置きですから。どっちかってゆーと、この時間までほー置されてた事のほーが」
「そうだよね。責任もって食べないと」
「え、何言ってるんですか?」
「だって、捨てるの勿体ない」
「今から保れー庫戻したらいーんじゃ」
「そっか。そうだった。ありがとうソフィア」
「えぇー」
地に足のつかない雰囲気、やたらと影のある笑顔。あまりに様子がおかしてくて、ソフィアの眉間に皺が寄る。姿勢はシャンとしているし、丁寧にのされた外衣はパリっとしていて、後ろ姿を見る限りは気合が入っている感じ。それも合わせて、違和感を禁じえなかった。
「何か手伝いましょーか?」
「ううん、大丈夫。お茶沸かすだけだから」
「火入れするんですよね? 服燃やさないでくださいね?」
「まさかそんな。え、危ないかな?」
「聞かれてもー」
シイナの人となりからして本気なのだろうが、本気でそんな事を聞いてくること自体が冗談のようで、結果ソフィアは混乱した。語彙を失っている。
「あーえーっと、その、気を付けてください、ねー」
「そっか、うん。ありがとう」
「はい」
何がおかしいかと聞かれても答えられないが、間違いなく何かがおかしい。そんな歯痒さを抱えながら作業を見守っていた。
やがて支度を終え、二人連れ立って屋台広場へ移動する。昨日決めた通りなのか、それがいつも通りなのか、先に着いていたカノンが出迎えた。
「早いね」
「そう? 良かった」
「へ?」
「あー、なんか時間の感覚ズレちゃったみたいで」
「ああ。って、子供か」
「あ、はは」
「そんな緊ちょーするような相手じゃないんですけどね」
「お前はな?」
「カノン?」
「なに?」
「名前」
「ぐっ。ソフィアさんからしたらそうでも、シイナにとってはそうでもなくってよ」
「いつも思ってたんですけど、なんで一々怪しい感じになるんです?」
「なんだろ。私なりの余所行き?」
「安っぽ」
「くそぅ」
当人同士も既に割り切っている、お決まりの様な遣り取りの横で、シイナが深刻な表情で独り言ちた。
「そうだよね。余所行きすぎても、安っぽいよね。大丈夫かなこの服、ってこれしかないんだけど」
「わぁお」
「まー誰だって、弱点の一つや二つ、ね?」
「良かったじゃん。探してたんでしょ?」
「だめ、これは、弄れないヤツ」
真顔で小刻みに首を横に振るソフィア。いつもなら自然と進行役になるシイナが動作不良を起こしている為、話が滞ってしまいがち。お互いに目配せをした後、やれやれといった風のカノンが切り出した。
「取敢えず食べよ? 終わってから、ゆっくりした方が、心の準備ができるべ?」
「そーですね。シイナそーしましょ?」
「うん。あ、ごめんカノン、朝ごはん食べてなくて」
「え? あぁまぁそれは後。ほら注文いくよぉ」
昼前の広場は、まだ少しひっそりとしていて、三人の声は余計に良く通っていた。いつもより高い声の成分を多めにして。
少し曇りがちな空が、ようやく暖かさを増し始める。けれど、十分に熱を蓄えるには、まだ暫く時間が必要そうだった。
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