忙しない朝
人の気配。声や足音、その間隙を縫うように、息遣いや衣擦れの音。沢山集まって、ざわざわとしている。慌しい。
空はまだ明けたばかり。朱く染まった東の空で、稜線が金色に輝いている。日差しが刻一刻と強まって、街に温もりを届け始めた。だから日陰は、まだまだ肌寒い。
気配が遠ざかって行く。喧騒も伴われてゆき、室内に静寂が戻ってきた。呻くような寝息を残して。
「んごっ」
ベッドの上で額をついて蹲っているシイナ。昨日の姿勢が染みついてしまっているようだ。両手を真っすぐ伸ばして、カノンに脱がせてもらった時を再現している。さながら万歳土下座。見るからに寝苦しそうだし、実際そのようで、先程から額をぐりぐりと押し付けたり、腰を左右に振ったりしている。それにどれ程の効果が有るのやら。ただ少なくとも、寝続けている。
「んくっ。さむっ」
縮こまった掛布は首の上。そこから下は寝巻のみ。ただし裾は捲れているので、体の一部は吹き曝し。日差しはシイナに届かないし、風はまだ冷気を纏っているので、直に浴びては涼みを通り越しているだろう。掛布を引っ張り上げ、頭まですっぽり被ってしまった。寒さの元が断てていない。
「んぅ」
もこっと盛り上がる掛布。みるみる膨らんで、裾がするすると広がった。体を起こしたシイナの全身がすっぽり包み込まれる。中は十分に暗いだろう。外気が断たれれば、体温だけでも十分に暖を取れる。そのまま上体を壁に預け、再び寝息が聞こえ始めた。
昼と呼ぶにはまだ早い時間。人影もまだ
「あれ、早いね?」
「えっ、うん。あ、カノンの方こそ」
「私はいつも、これ位だよ」
「そうなんだ。あれ? でも一緒に、」
「うん。あ、いや、細かい事はいいじゃん?」
「そう? そうだよね」
お互い様。言葉にしたくない部分は気づかなかった事にして、二人並んで屋台へ向かった。相変わらずの場所で相変わらずのメニュー。両手が塞がった二人は、近くの席に腰掛ける。燦燦と眩しいが、今日は暖を取りたい気分なのだろう。
「そうそう、屋台ってさ」
「うん?」
「自分でやろうと思ったら、」
「止めといたほうがいいよ」
「えっ」
「めんどくさい。あれはホントにめんどくさい」
言葉から実感が溢れている。心底嫌そうな顔をしながら、ジュースを一口飲み込んだ。シイナの顔が僅かに引きつっている。
「そうなんだ」
「実地調査とかいってさ、毎週来んの。半目の、いかにも役人って感じのが」
「みんな、そうなのかな」
誰かを思い浮かべながら苦笑するシイナ。カノンの愚痴は終わらない。
「しかもさぁ、先週より塩気が濃いだとかって、とにかく細かいんだわ」
「うわぁ」
「暑い時期は濃くするんだっつーの。最後の方なんて、ほぼ毎日だったし」
「あ、はは。ん? それ通ってるだけじゃ、」
「ああ、あと、毎月更新しないといけない。キョカショ?」
「それは嫌だなぁ。でも意外。屋台やってたんだ?」
「うん。あの屋台、もともと私の」
「あれなの⁉」
「あぁもう、あの半目クリップで閉じてやりたい」
「やめてぇ、聞くだけで痛い」
それぞれの理由で目をぎゅっと閉じる二人。通りかかった男性が、チラリと見やるなり、ささっと避けていった。先に目を開けたのはシイナ。ジュースを含んで、口を湿らせた。
「なんか意外なことだらけ」
「そう?」
「うん。ずっとあのお店だと思ってた」
「先代、居たからね。暇だし外回りしようと思って」
「その頃からなんだ」
「まぁ、そうなんだけどさ」
「あ、はは。先代さんは、今どうしてるの?」
「どうしてんだろうね」
「え?」
「帰ったら居なかった」
「蒸発⁉」
「いやいや、まさかまさか。セネカさんには言付けしてったみたいよ」
「そっか。びっくりした」
カノンが再び齧り付き始める。シイナも大分慣れてきたようで、ぴったりペースを合わせていた。方や残り半分、もう方や残り二本弱。喉を潤して、ふぅと鼻で一息ついたカノンが、中休みがてら話し始めた。
「でも急にどうしたん? なんか言われた?」
「ふと思いついただけ」
「そう? てっきり役場で何か言われたのかって」
「まだ行ってない。この後」
「あぁ、ごめんごめん。朝の内に済ませてそうって、勝手に思ってた」
「今日はちょっとね、聳え立ってたから」
「山なの?」
「人からはそう見えたかも」
「何それ」
ケラケラと笑う人、痛そうな顔で頬を染める人。静かな時間が流れていた。三人目が来るまでは。
「ちょっと、」
真っ白なレースのリボンで飾られた橙色の王冠。今日は一段と装飾が豪華だ。本人ではなく、その髪飾りに向かって手を振るシイナ。
「やっほ」
「やっほ?」
「あそっか。こんにちは」
「はい、こんにちは。じゃなくて。何で食べ終わってるんですか」
空になった包み紙を折りたたんで、コップ片手に食後のゆったりとした雰囲気を楽しんでいた二人。空腹ゆえか、気性が激しくなっているソフィアを前にして、普段なら真向から対立するカノンも、今は慈愛に満ちている。
「遅かったねぇ」
「遅くないです。そっちが早いんです。待っててくれてもいーでしょー」
「えっ、ごめん。来ないって思ってた」
「なんで? 昨日まで一緒だったじゃないですか」
お下げを垂らしながら、上目越しにシイナを窺うソフィア。その姿はいじらしいのかもしれないが、話しの内容が内容だけに、二人は若干引いている。
「お前ほんとメンドくさいな」
「あなただって同じでしょーがっ」
「私、この後いつもの時間までは居るつもりだから」
「別にそんな、引き留めちゃ悪いですし」
「メンドくさいっつの。はっきり言えよ、独り飯が嫌だって」
「寂しい人みたいに言わないでください。私はシイナと食べたいんです」
「うわぁ」
「あ、はは」
どさくさ紛れに突拍子も無い事を言い出したソフィアに、二人の顔が引きつる。
「何このくー気」
「でもいいの? お付き合いとか、そういうのは」
「むしろ、だからです。誰かとご飯食べるたびに、あーだこーだと面倒なんですよ」
「大変、なんだね。わかった、次からはちゃんと待つから」
「そーしてください。きょーだって、もし入違ってたら」
「だから、いちいち重いんだって。時間になっても来なかったら一人で食え」
「まー、そーしますけど」
「あ、はは。そうだよね、入違ったら、困る、よね」
言葉と共に、だんだんと眉根が寄っていく。限界まで引き寄せてから、一気にびょいんと開放すると、突然シイナは周囲を確認し始めた。何かを探しているようだ。
「ん? どーかしました?」
「えっと、連絡、とかさ。どうしようかなって」
「屋台のおやじ使えばいいよ。あの人、私の弟子だし」
「伝言、ね。うん、わかった」
「なんか歯切れ悪いですね」
「そうかな?」
シイナの表情が、一転してコロッと笑顔に変わる。何かにストンと納得したような、そんなサッパリとした笑顔。
「じゃあ、十二時が目途。それより早く済まさないといけない時は伝言して、遅くなる分には気にしない。ね?」
「そこまでカッチリしなくてもー」
「あんたが言い出したんだから、ちゃんと守れ?」
「はーい」
「それじゃ買いに行こっか。カノンどうする? また食べる?」
「食べる食べる。だって、こいつの奢りでしょ?」
「何でですか。あなたはさっさと、れーぞー庫行けばいーでしょー」
「まだ開かないんじゃん」
やいのやいのと忙しない。シイナにとっての朝ごはんは、まだ折り返し地点を迎えたばかり。賑わい始めた広場の片隅で、それ以上に騒がしい時間が過ぎていった。
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