迷子の、迷子の

ぼんやりとしていた。

なぜ私が床に座り込んでいるのだろう。

自分自身すら見えない暗闇のなかで、だらんと下げていた手を動かすと床に触れる。

ざらざらする。木の床。どうして私はここに。


わからない。

わからない。


どうして不気味に思わないのだろう。

むしろ暖かくて、ずっとここにいたいような気がする。



「私は……」



そういえば。私は何気なく口元に手を伸ばした。

どろりと何かが伝う。匂いを嗅げば、すぐに血だと気がついた。

私は血を吐いた?どうして?こんなにも身体が軽いのに?



「あ……」



黒い煙をまとった縁が視える。暗闇なのに、よく見える。

ずっと向こうへ続いている。


行かないと、いけない気がする。

その縁をたどって歩まないといけない気がする。


立ち上がるのは恐ろしく簡単だった。

だから、歩み出すのも簡単だった。




―――――――――――――――――――



「『魔力浸透圧』というのを知っているかな?」



病室に響く特殊情報管理室の室長の声は、努めて明るく振舞っているようだった。

ここは『花園かえん』、入院病棟の中にも集中治療室と呼ばれるエリアがある。


あの子の一報を受け、早7日が経過した。

ようやく峠を越えたから話をさせてほしいと連絡がきてから1時間。

都内にいる7係のメンバーを招集したこと告げると、彼はすぐにこの部屋に通してくれた。



「簡単に言うならば、濃度の違う水を入れると溶け込んで同じ濃度になろうとする現象。それは魔力でも同じことが言えるんだ。

僕たち人は外よりも体内に濃い魔力を持っているから、常に外に魔力が出ようとしている。それを皮膚や自分の保護能力で防いでいる」



私の隣にいるカケルくんが静かにうなずいた。

灯ちゃんは眉間にしわを寄せたまま、埜々子ややこの袖を握っている。



「今回彼女に起こったのは、急激な魔力浸透圧の変化によって膜が破れて体内の魔力が一気に噴き出した。

怨霊の中に閉じ込められていたときはかなり魔力に満たされた空間だったんだろう。そこから急に外界へ脱出したことで体内の魔力が一気に外へ飛び出そうと……喉にしかない膜に圧力が集中して破れたんだ」



雪園室長らしからぬ早口は部屋を反響する。

他に見舞いがいないのは、看護師たちの配慮だった。



「本来は即死だよ。彼女の魔力量は尋常じゃない、人の形すら保てず破裂してもおかしくないくらいのね」

「あ……う……」



埜々子ややこが顔を覆った。私は思わず彼女の肩に手を置く。



「でも、彼女は生きている。ちゃんと生きているんだ」



ガラスの向こうをちらりと見る。

いくつかあるベッドのなかでも、特に大掛かりな装置に囲まれた一角に、彼女は、菜子ちゃんは埋まるようにして眠っている。

首から下はあらゆる管に繋がれていて、痛々しい。

頭部はヘルメットよりも大きな装置にすっぽりと覆われて、治療には見えないほど異様な姿になっていた。



「喉から体外に排出され続ける魔力を回収して、また喉から強制的に体内へ戻すよう装置を使っているんだ。

いたちごっこの状態だけれど、彼女自身が膜を修復しようと戦っている。打ち勝てば、危険な状態から脱出できる可能性は高い」

「意識は戻るんですよね?」



カケルくんの言葉に、室長の眉間に皺が寄った。



「彼女次第、かな」



あまりに似合わないそれに一撃くらわせてやりたくなる。

けれど、彼もまた苦しんでいるのだから、八つ当たりなんてすべきではないのでしょう。


むしろ彼の方が苦しんでいるはず。

血の海から最初に彼女を抱き上げたのは、確かに彼だったのだから。



「みんな、これ以上時間を取らせるわけにはいかないわ。室長はこれからまた吉川家の皆さんと面談でしょう?」

「ええ、ご配慮感謝します」

「それでは失礼します。ほら、みんな」

「はい……」



カケルくんの背中を軽く叩くと、彼はあきらめたように一礼して踵を返した。

灯ちゃんは埜々子ややこの背中を押して後に続く。


私は立ち去る前に彼の光を失いつつある瞳をじっと見つめた。



「雪園室長、どうかあなたは倒れることがないようにしてください」

「今関係長……」

「あの子が目覚めたら、最初に見るのはあなたの顔であってください。できる限り休んで、力を尽くして。

あの子を遠くから想い続けるのは、あなたの得意分野でしょう?」

「……そう、ですね……はは、流石です」



もう一度ガラスの向こうを見つめて、私たちは帰路についた。




「アタシたちに、さ、何かできること、ないかな」

「……きっと、祈ることしかできないわ……」

「そうですね……」


「あら、あるわよ。ひとつだけね」



驚いた顔で私を見つめる大切な7係メンバーたち。

その煌めく瞳をきっと私は忘れることがないだろう。



「あなたたちに任務を言い渡すわ。

まずは仮名課長を気合で捕まえなさい、そしてこのPCの中身をみんなで見て、特殊警察局の一課に引きずっていくのよ」

「……めちゃくちゃ……物騒……」

「やる!」

「……灯ちゃん……本当に引きずっちゃだめだよ……」

「背後から仕留めるのは忍者の得意分野です!お任せください!」

「……カケルくん……?」


「現着したら刑事一課 1係の堀江係長をとっ捕まえて彼にもPCの中身を見せるの。

今一課の課長代理は彼のはず、万一嫌がったら『今度コイの刺身をもってお邪魔します』って言うのよ?

まあ、いろいろ指示を受けると思うから従ってあげてちょうだい。仮名課長の判断で任務終了とするわ」



あの子はちゃんと頑張っている。なら私もできることをしなければ。

例えば大事になって落ち込んでるだろう男の背中を叩きに行く、とかね。




―――――――――――――――――――



どれほど歩いただろうか。

空気が塊のようになって私を襲う。足が思うように前に進まない感覚がする。

闇の中で足も見えないけれど、縁は今も私を誘っている。


どうしていけないんだろう。その先に行かないといけないのに。

行かないと、どうしても、行かないと。



「おねえちゃん!」



声?

思わず反射的に振り向くと、少年が立っていた。

黄色い半ズボンにキャラクターが書かれたTシャツと靴。どこかで見たことのある白くて大きな親鳥と小鳥が家で団らんしている。



「あなたは?」

「おねえちゃん、おもちゃちょーだい」

「おもちゃ?」



どうして私はこの少年の身なりが見えるんだろう。よく見ると、彼自身が発光しているようだった。

陽だまりのように彼の周りだけ照らされている。

少年はにっこりと無邪気な笑顔で私のところに走ってきた。



「うん!おもちゃ」



少年が私の手を握る。

モヤのような黒い煙が霧散して、私は自分の腕を初めて見た。



「遊びたかったのに、手が届かなかったの」

「手が……?」

「うん、ほしかったのに、届かなかった」

「えっと……」

「はやくかえして」

「え、と、わたし、くるまのおもちゃなんて持って……」



『車』のおもちゃ?

はっとした。

手探りで制服のポケットを漁ると固い感触に行き着く。

そのまま抜けば赤い車が光を帯びて手のひらに収まっていた。



「これかな?」

「うん!ありがとう」

「よかった、あの時拾っておいて。君のなんだね」

「そうだよ!」

「やっぱり、どおりで同じ縁を視……」



縁?そうだ、あのとき私は家の中でおもちゃを拾って、誰かに同行して。



「ありがとう、おねえちゃん!じゃあばいばい!」



考えがまとまらないまま、少年は私が行きたい道を軽快に走り出した。

思わず突き出した一歩が重い。



「ちょっと待って!わたしも一緒に」

「おねえちゃん!」



立ち止まった少年は私に笑顔で声をかける。



「おねえちゃんは、こっちじゃないよ」

「え?」

「おねえちゃんは、こっちじゃないよ」

「どういうこと?」

「ばいばい!」



今度こそ少年は声も聞かず走り去ってしまった。

どうして?

わたしはもう一歩も進められないのに、どうして彼は?


頭が混乱してぐるぐる回っている。

壁にぶつかる衝撃、開かれた3つの扉、口からあふれたもの、おもちゃを捕まえた手の感触。

ああ、そうだ、私はマヨイガと思っていた怪異に巻き込まれて。


見上げると、まだそこに縁はいる。

そういえば、こんなに煙を纏う縁なんてめったに視ない。


危険な雰囲気を感じて、後ずさりしたそのときだった。



「いやぁ~カンカン一発ぅ~間一髪~」



ぼす、と背中に何か当たった。

思わず振り返ると、また発光している人物に出くわした。


派手な黄色と紫の柄のストールを首から下げ、布地のジャケットの間からは赤色の丸首シャツが覗く。

肩につくくらいの茶色いドレッドヘアーを揺らして、大きな笑い声をあげる。



「ぜ~んぜんたどりつけないからもうだめかとおもっちゃったよ!」

「あなたは、お、オルトさん!?」



日本でもっとも有名な『縁視』と言っても過言ではない謎の中年の男性、オルト。

長らく見ていなかった姿に、私は度肝を抜かれてしまった。



「随分遠くまで迷子になっちゃったようじゃないかぁ、あの衝撃なら仕方ないかぁ」

「えっと……なぜここに?」

「ぶっちゃけソレこっちのセリフだけどね??菜子ちゃんこそどうしたのさ」

「私は……えっと、なぜここに?」

「聞かれチャッタ、だはは!」



オルトさんはさらに大きな声で笑う。その声がなぜだか頭に響き、すっと晴れていくような感覚になる。



「少年、ようやく迷わなかったなあ」

「迷わなかった……ですか?」

「そうさ、ずっとずっとあの家で、どこへ逝けばいいかもわからずにさぁ、迷って迷って迷い続けた」

「……マヨイガに似ていたのは、あの子もまた迷っていたからなのですね」

「怨霊になるやつってのは、だいたい2種類さ」



オルトさんは演じているかのように手を後ろで組み、ゆっくりと回り始めた。



「死にたくないやつと、死に方がわからなくなったやつ。共通して言えるのは、『不可能とわかっていながら生きることを諦められない』ことなのさ。だから死に方をわかっていても死ねず、最後は強制的に除霊される」

「そう……なんですか。でもあの子は今まっすぐ走っていきましたよ?」

「ウンウン、珍しい子だよ。あの子はただ誰かに死を認められたかった。怨霊だけど死にたくないわけでもないし、死に方がわからないわけでもなかった。

迷わぬ未来を選びし迷い人だったって訳さ」



ふと両手を肩に置かれて、眩しさに目を細めてしまった。



「そろそろこんな窮屈なところでのんびりするのはやめてさ~帰ろうぜ」

「そう、ですね。帰らないと……」

「ウン」

「……どうやって帰るんです?」

「オイオーイ!だはは!」

「……」

「……知りたい?」

「知りたいです」

「神に祈るんだよ。壺の購入をお勧めするよ今なら3割引でいちまんえん」

「……真面目に答えてもらってもいいですか?」

「ああ!その冷たい視線!さっすが菜子ちゃん」



はいはいわかったわかった。そういうオルトさんは最後に会った時と何ら変わってない。

頭を振って、彼は肩に置いていた手を離した。



「今君がいるべきところを想像するんだ。そしたら魂は、自らちゃあんと身体に帰る」

「いるべきところ……?」

「思い出してごらん。その口元をぬぐってさ」

「あ……」



言われたとおりに触れば、改めて感じる血の匂い。

そうか、私はあの時吐血したんだ。



「私、血を吐きながら魔力がどんどん出ていくのを感じて」

「ウン」

「気を失ったんです。白石さんの声を聴きながら」

「そうかい」

「だからきっと今、病院に――――



突如、足元が光り始めた。

あの少年と同じように、目の前のオルトさんと同じように。

体中が光に包まれていく、心が晴れていく。



「正解。これでもう、大丈夫だ」

「これで帰れるんですか?」

「ああ、ゆっくりと深呼吸だ!目をつむって」

「はい」



言われたとおりに瞼を閉じる。

急に意識が遠のく感覚が体中を駆け抜けていく。

暖かい何かへ、元居た場所へ。


少し眠ろう。

目が覚めるころには、きっと。








「ああ、なんて美しいんだろう!」

「こんなに美しい縁視の力を得しむ者エニシミエシミを見たことがあるかい!?」

「言葉を失うほどの輝き!!喉から手が出るほどの美!!」



「ああ、そう怒るなって。

残念だけど、彼女は僕らのものだ。黄泉には行かせない。


君にはやらないよ―――縁視の力を得しむ者エニシミエシミを憎みし神、イザナミさんよ」

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