妖異に隠された絶望の幻影

「こんなところだろうか」



扉が消えてからしばらくして、私たちは互いの体――洋服が乾いたことを確認していた。

穴が開いて湿った床が、私たちに襲った出来事は幻ではないと訴えてくる。



「ありがとうございます、白石さん。助かりました」

「いいや、お互い濡れただけでよかったよ」



白石さんはそう言って、私の頭の高さに浮いている符を取り上げた。


風と水の力を借りて物質から水分を飛ばす符術。

様々な悪路を経験する警察局の人間にとって、基礎中の基礎符術らしい。

今関さんにもかけてもらったことがあるが荒々しい風で立っているのがやっとだった。

頬を撫でていた穏やかな空気が去っていく。術者によって体感の違いがあるようだ。


しっかりと乾いた袖を確認して、私はもう一度辺りを見回した。


白い壁に木目の廊下は変わらずだが、変化があったところといえば、見渡す限り続いている木材の湿りと匂いだろうか。

あの通り雨のような水たちは、遥か先へと続いていったようだった。



「あらためて先ほどの幻影だが……まず、すべて君の記憶で間違いなかったな?」

「はい」

「ほかの登場人物がいないか探してみたが、あの幻影には君の妹と雪園室長しか見えなかった。今回の妖異の手掛かりはなかったとみていいだろう」

「申し訳ございません、私も何も見つかりませんでした……」

「気にすることはない。俺がそうであったように、君にとっても気分が重くなる幻影だったはずだ」



『大好きだよ』と自分の意思を初めて伝えたあの記憶。

それが彼に暗示の術となっていたことに気づいたのは、吉川家に来てしばらく経ったころだった。


言霊は『私を慕え』という呪いとなって今も生きているのだろう。

彼の言動を見れば、それがどれだけ強いものだったかよくわかる。


きっと彼は、私があなたと話すたびに苦痛を、罪悪感で消えたいほどの後悔を知らない。



「……だが、今回の幻影で状況が変わった」



自責から抜け出し顔を上げると、白石さんは結びなおしていた髪から手を離す。

指を顎に添えて思案顔になってからそのまま数秒目をつむり、廊下の向こうへ顔を向けた。



「妖異の気配がおかしい」

「なっ、それはどういう」

「空気のように留まっていた妖異の気配がざわついている。震えている、のか?」


「もしかして、私の幻影が言霊となって発現したことがきっかけですか?気配が震えると何が起こるのでしょうか?」

「きっかけについてはおそらく君の言う通りだろう、発現がこの空間に傷をつけ、妖異に何かしらの影響があったと考えていい」



やがて瞼を開けて私を見ると、白石さんは思案顔で床穴に近づいた。



「これを見てみろ。崩れるかもしれないから俺より近づかないように気をつけるんだ」

「はい」



穴から30㎝ほど離れた距離まで進み、体重をかけすぎないように下を覗いてみる。

そこには真っ暗な空間が広がっていて、どれだけ広いのか、どこまで深いのかわからない気味の悪い光景だった。

だが、よく見ると時折何かきらりと光るような……。



「何の空間でしょうか……」

「ううむ、重力のない空間のようだが……ん?吉川さん!?手を入れるのは危険だ!」

「大丈夫です、危険な縁はありませんでした。それに、何かがこちらに流れてきます」

「こちらに?俺には何も見えないが……」



頭上から降ってくる白石さんの声を無視して、私は両膝を床につけて床の穴に手を伸ばした。

何かがもう一度きらりと光る。角の丸いものが光に反射しているようだ。

その物は回転しているようで、一定の周期できらりと光る。


やがて浮かんできたそれを、私は掴んで引き上げた。



「それは……」



小さいながらも、若干の重みを感じる。

4つの車輪は自由自在に動き、てのひらの上で不安定に前進と後退を繰り返した。

赤い塗料に纏われた精巧な部品の集合体と言っても過言ではないそれは、



「車のおもちゃ、ですね」

「どうしてこんなところにおもちゃが……ふむ、この家の住人だった遊離ゆうりくんのものかもしれないな」

「そうですね。最初の幻影も子供……いや、子供のものでしたし」

「ふむ……」



手に入ったものを放置するわけにもいかず、車のおもちゃは私が預かることになった。

白い軍服のポケットに入れると、何の変哲もないそれは静かに収まった。



「歩きながら、少し整理をしよう」



白石さんからの提案に、私は頷いた。



―――――――――――――――――――



「幻影は3つだ。この家の家族の幻影、俺の幻影、そして吉川さんの幻影」

「はい、それぞれは別の時間軸、場所のものでした」



湿った木材は静かに重みを受け入れている。

変わらない景色の中で、白石さんと私の話は続いていく。



「引っかかっていることがある。この妖異が『マヨイガ』であった場合、性質と事象が一致しないという点だ」

「確か……マヨイガは人を幻の家に呼び迷子にさせるけれど、脱出することはできて、家のものを持ち帰れば幸運を得られる、でしたよね?」

「そうだ。雫は清水家からマヨイガという幻の家に入ってしまったのではないか、と推測していたと思う」

「はい。廊下や壁も清水家のものにそっくりですし、マヨイガが真似ているのかと思われます」

「同意見だ。清水家の模倣をしていたからこそ、幻影が過去の光景だったことに納得がいった」



「だが、なぜ俺たちの記憶が現れた?

マヨイガはあくまで幻の家、迷い込んだ人間の記憶を投影するような力はあったか?」



白石さんの疑問の声が空間に響く。

ふと、視界の端にもやが見えた気がした。


振り返る。見当たらない。



「もうひとつ、私からも良いでしょうか」

「もちろんだ」

「幻影の話です。ほかにもあったはずなのに、どうしてこの3つの記憶だったのか」

「良い視点だ、続きを話してくれ」



子供が母親と話す仲睦まじい光景。

白石さんと今関さんの別離の光景。

私が蛍都さんへ犯した罪の光景。

この3つに共通することは、なんだろう。



「まず、私にとってあの幻影の記憶は、私が今の人生を歩む……雪園家と距離を取るきっかけでした」

「……そうか」

「白石さんの記憶も、今関さんとの別離は今の人生を歩むきっかけだったと思っています」

「間違いない」


「最初の幻影も、その記憶を持つ人間の人生の転換点だったのではないでしょうか?」

「あの日常の風景がか?」



ふわりと、目の前に縁が現れた。

最初の幻影で見た紫の縁で間違いないだろう。だた、もやの量が多くなっている。

それは上下左右に不安定に揺れながら、歩いてきた廊下の方に繋がっていく。


思わずそれを目で追っていた姿に察したのだろう、白石さんも私を追って後ろを向いた。



「はい、あの後に何かがあったのではないでしょうか」



―――――『ママーーーー!』



「『声だけ聞こえた子供』が遊離ゆうりくんとは別人で、あの記憶の後に何かがあった。

……たとえば、清水家にいる子供が事件があった、とか」


「……ずいぶん物騒な例え話だが、反論のすべがない以上、否定はできないか。

それだけのことが言えるということは、なにか根拠があるじゃないか?」



紫の縁がピン、と張った。

何かに接続されたように、私たちの間を割くようにまっすぐな線となっていく。

私はそこから後ずさりしながら口を開いた。



「人間の場合、縁は実物にしか繋がりが視えないんです。でも確かに最初の幻影に、今目の前に、縁が視えます。

今この妖異の中には、私と白石さんしか人間はいないのに」



白石さんが息をのむ、後方ではあるがきょろきょろと見回している様子から察するに、妖異の気配に何か変化があったんだろう。

同じく後ずさりしながら彼は私に固い口調で言った。



「ひとつ、縁について質問しても良いか」

「はい、もちろん」


「その縁は、人間の生死を問わないか?」



アアアアア……アアア……アア……

アアアアア……アアア……アア……



地面が大きく悲鳴を上げた。

その衝撃が白い壁がばらばらとはがしていく、ヒビを与えて、割っていく。


私たちは同時に走り出す。

息切れする前に、私は声を荒げた。



「おっしゃる通りです!!」



アアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!

嘆きのような声は、大口を開けた子供の泣き声に変わっていった。

背後で木が割れていく音が聞こえる、おそらく地面が崩れていっているのだろう。

足元を支えるものがなくなれば、すなわち私たちはあの暗闇に放り出されることになる。


白石さんに左腕を掴まれ支えられながら、私は必死に足を動かして前へ進む。


視界の端で白石さんがスマートフォンを取り出すのが見えた。

先ほどの水濡れで、外部への連絡手段は途絶えていた。



『もしもし!?砂嵐の間に急に電話が切れたから、いったいなにが』

「今関係長!!緊急事態につき用件だけ失礼する!!」



壁がはがれ落ちた衝撃で視界は煙まみれになっていた。

目に入らないよう右腕でかばいながら前を見ていると、隙間から扉のようなものが目に入る。

あの扉に逃げるぞ!白石さんの声に返事をしたが、聞こえたかどうかも怪しいほど叫び声は私たちの耳を刺していた。



「特殊警察局 刑事一課 課長の白石が宣言する!特殊危険遭遇条例 第4条のもと緊急事態を発令!

非常事態レベル二級、近隣住民および本作戦に参加する者の退避、および陰陽部隊の招集を要請する!」



木造りにドアノブがついたシンプルな扉がはっきりと見えた。

今までで一番違和感のないその扉にすがるる勢いで動かした足が―――――宙に浮く。



「えっ」



腰に手を回されて持ち上げられた私は、混乱のまま左側を見上げた。

いつのまにか札に持ち替えていた彼は、何かをつぶやいて右手を前に突き出す。


そして、私に方をちらりと見て、口を開いたのだ。



「これはマヨイガではない!!この家で命を落とした子供のだ!!」



瞬間、私の視界と意識は、爆発音に包まれた。

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