重力井戸の底で

@Pz5

重力井戸の底で

 「——それでは、明日の予想です。明日は、突入軌道が浅く、多くは太平洋方面に落ちるでしょう。大気圏突入の際、熱で表面が崩れ、ところにより破片が散らばる可能性があります。リィ・ アンゲルス、ポルテノーヴァ方面は警戒が必要です。セント・アンジュ方面はおおむね安全でしょう。また落下に伴う津波の心配はありません。繰返します——」


 作業効率を上げるための「雑音」としてつけていたラジオ配信からは、それまでの音楽の流れを断切って、聞き慣れた不穏な予報が流れ込んできた。


 「はぁ、この曲、好きなんだけどな」

 思わず声に出る。

 月の連中が「独立」とやらを宣言して半年、こんな事が続いている。水も空気も自分達では生産できないくせに「独立」だ等と嘯き、独立戦争を仕掛け、石ころを落とし、こうやって俺らの愉しみを邪魔する。なんともイヤな連中だ。犯罪者や、地球が嫌で出て行った連中が「月と地球は不平等である」なんて言っても、今更な自己責任だろうに。戦争をしかけるほど地球が嫌いなら、そのままずっと地球からは見えない月の暗黒面に引き蘢っていればいい。


 道具が作業箇所を滑る。

 気を取直してやり直そうとするが、ふつふつと月の連中への文句がわいてきて先程のリズムに乗らない。

「ああ、くそっ」

 そう言って時計を見ると、既に日付が変わろうとしていた。

「今夜はもう、ダメか」

 そう独りごちると、俺は道具を置き、作業場を片付ける。

「ちょうどノってきたところなのに、月のくそ野郎どもめ」

 余計な奴らは余計なことばかりする。

 その思いを抱えながら、部屋に戻った。


 夢を見た気がする。

 その夢には、ジョー・クールが出てきた。

 以前飼っていたビーグル犬だ。

 ジョーは嬉しそうにこちらに駆け寄る。

 抱えようと腕を伸ばすが、その手に触れる直前で動きが止まり、そのままどんどん離れてしまう。

 何故か俺は、それを手放してはいけない気がして、必死にもがく。

 だが、ジョーは、というより俺がジョーから、ひたすら離れてしまう。

 ジョーは尻尾を振り、なんとかこちらに駆け寄ろうとするが、そのままどんどん遠ざかる。


 ——酷い夢だ。


 時計は午前10時半を指していた。

 寝過ぎだ。


 ジョーは、元々は友人のセバスチャンが飼っていたもので、彼が俺と同じ大学の数学科に入った時に飼い始めたのでジョー・クールと名付けた。セバスチャンとルームシェアしていた俺も名前を一緒に考え、葉っぱをキメた勢いもあってか「それよりエースやソッピーズキャメルにしよう」と提案したが、あいつは眼鏡の奥で笑いつつ、「僕の犬だから」とジョーと名付けるのを譲らなかった。

 見た目はひょろひょろした東洋系のナードなのだが意外と意志が強い。

 そこも気に入って、ルームメイトになったのだが。


 ふと、セバスチャンとの事を色々と思い出す。

 大抵はダウンタウンに繰出した話や、甘ったるい紫煙が目に刺さる中、バカバカしい話をした事だ。

 そう言えば、レウェグスに行く途中、ベルストアでガス欠寸前になってパニクった事もあった。

 頭の中が整理されず、毛布を見ながら、そんな事を思い出す。


 セバスチャンと俺はほぼ同時にマスターを取り、あいつはそのままD進、俺は証券会社に入った。

 証券会社の本拠地はポモグランデで、俺だけ大陸の反対側に移った。

 その時、セバスチャンは、ジョーを預かれないかと俺に訊いてきた。

 彼が言うには「ルームシェアまでした仲なので、何か思い出になるものが良いかと思ったのだけれど、適当なものが思い付かなくて。ジョーは君にも懐いているし、ウィア・パリエーシでは過重労働で体を壊しそうだから、犬がいれば生活リズムも整えられそうだしね」との事であった。

 東洋系はただでさえ中性的な顔立ちをしているのに、さらにこんなお袋のようなことを言うな、と思ったものだ。

 実際にはジョーの世話はペットシッター任せになってしまったが、それでもできる限り餌をやったり、一緒にランニングマシンで走ったりした。

 確かに、あのハードな日々を越えられたのは、何かあれば俺の側にいてくれたジョーのおかげなのかも知れない。

 月でレアアースの鉱山がみつかり、地球を主にする会社の崩壊から始まったグラナダ・ショックのピンチも、常に尻尾を振って餌を食べるジョーのお陰で乗りこえられた。


 後年、ポモグランデでの活躍からシリコンヒルのあるサンフランチェスコに移った時、近くに来たついでに驚かせてやれと、何も言わずにイルアンジェリコの大学を訪れたのだが、そこにセバスチャンはいなかった。

 なんでも、俺が東海岸で動いている間、彼は博士になり、その後サンバルテルミの大学に教員として招かれたと言うことだった。

 そのままマルチコプターでサンバルテルミまで行くと、あいつはしばらくほうけた後、眼鏡の奥で涙ぐみながら包容してきた。

 東洋的な家庭教育を受けた人物の行動として珍しいことだ。

 その時、ジョーにも会わせてやると、「随分歳をとったな」と言いながら、おおいに撫でていた。


 そんな昔の事ばかり思い出す。

 そう言えば、ジョーが死んでから何年になるかな。


 警告音。


 そんな事を思い返していたら、突然端末が政府発令の防空アラートを発し始めた。


 閃光。


 周囲が真っ白になる。


 ヴパァアン。


 数秒後、鼓膜が破れるかと思うほどの破裂音がすると、まるで自分の全身が太鼓の革になった様ようなびりびりとした衝撃が全身を覆った。

 体だけではない。壁や床も激しく揺れ始めた。窓のガラスにいたっては、振動し波打っているのが肉眼でも確認できた。

 通常のガラスなら砕けて俺の目や体を傷付けたかも知れないが、カーボンナノファイバーワイヤー内蔵型にしておいて助かった。

 それは上空で破裂音を連発しながら過ぎ去っていく。

 そして、それで終わった。

 沈黙。

 犬の鳴き声が聞こえる。


 「緊急警報!緊急警報!月からの投石は当初の予想より軌道を下方に変えました。予想地付近の住民は防護シェルターに避難して下さい!繰返します——」

 サイドボード上にある携帯端末の「緊急警報」だけがけたたましかった。


 やがて、外も緊急車両のサイレンでけたたましくなった。


 アラートから一秒もないんだったら、警報なんて無意味じゃないか。

 こんな無能な政府だから、月の連中が図の乗るんだ。

 酷く腹が立つ。


 ふと、窓の外にジョーが見えた気がした。



 セバスチャンは死んでいた。


 何でも、先日の投石の巻き添えを喰らって死んだらしい。

 俺は、黒い縁が着いた何とも陰険なハガキで、その事を知った。

 政府は月の連中が放った石を宇宙艦隊で迎撃し、これを核ミサイルで粉砕した、と華々しく報じていた。その際、ミサイルによる衝撃で石が二つに割れ、一つは大気圏外への進路をとるも、片方は減速した関係で太平洋よりも内陸側に堕ちる軌道になってしまったが、これを砂漠地帯に墜ちる様、さらに攻撃を加えたため、「無事」に都市部から離れた荒野に堕ちるよう誘導した、と報道官は興奮気味に言っていた。

 「所詮、月の連中は無力であり、我々がが彼の反乱軍を抑えるのも時間の問題なのです」

 最後に、大見得を切ってキャスターにそう伝えていた。


 何が「月の連中は無力」だ、バカども。

 そのまま海に落としておけばいいものを、お前等が砂漠地帯に落としたお陰で、その近くのサンバルテルミにいた俺の親友は死んだんだ。

 何が「無事」だ。

 セバスチャンは、そこから50kmも離れていたのに、衝撃波で割れたガラスを全身に受け、それが元で死んだんだ。

 サンバルテルミやレウェグスの役所が無事だから全部が助かった訳があるものか。

 この無能どもめ。


 ハガキの案内に従い、セバスチャンの葬儀に参加しているとき、ずっとそんなことばかり考えていた。

 香炉が振り回され、司祭が古代の言葉で何か言っている。

 セバスチャンは、北東アジア系にしては珍しく、カトリックの家系だったので葬儀もカトリック式で行われた。彼自身はあまり宗派性に拘っていなかったのが、彼は結婚もしていなければ子供もおらず、彼の両親の関係でそうなった。

 そうしてみると、「復活」の際に必要になる体に無数の刺し傷が有るのは、彼等にしてみれば辛い事なのだろう。エンバーミングが入念に施されていた。

 ミレニアム単位の昔、カトリックの宣教師達が極東方面まで進んだのが、まさか宇宙人が地球に石を落として来る時代にまで作用するとは思わなかった。


 そう言えば、セバスチャンとは最後に何を話しただろうか?

 ふと、記憶を辿る。


 ああ……

 そんな事か。


 彼とは、喧嘩していたんだ。


 ジョーが死んだ日、彼はわざわざセントアンジュの俺の家まで駆けつけてきた。

 自家用マルチコプターを持たない彼だったが、連絡を受けた次の日にはジェットで近くの空港まで来ると、そのままタクシーで俺の家まで来たのだ。

 「言ってくれれば迎えに行ったのに」と言う俺に対し、彼は「少しでも動いていたかったからね」と答えた。

 サンフランチェスコでの仕事も上手く行った俺は、その資金を元に自分の会社を立ち上げ、これもいい条件でバイアウトされたので、後は余生と、セントアンジュの中でもダウンタウンから離れた山間の方に家を構えて、のんびり過ごしていた。

 なので、他所の郡から来るには交通の便が良いとは言えない状態だった。

 そこを彼は、昔ながらの空路と陸路の組合せで来たのだ。

 俺にはとてもできそうにない。


 「なに。君と違って僕のような貧乏人は、この程度の手間は、手間とも思わないのさ。何しろ、自分で動く事が体に染み付いてしまっているからね」

 と彼は、多少皮肉まじりに返してきた。

 恐らく、研究が真っ当に評価されず資金繰りに苦しんでいた、彼の当時の体制への思いからきたものなのだろう。

 だが、このとき、俺は少しかちんとき。ただ、それでも、折角遠い旅路をジョーの為に来たのだし、疲れてもいるからこんな事を言うのだろう、とその時は寛大に受け容れた。


 今考えれば、この程度の事でかちんときた俺も、ジョーの死に相当なショックを受けていたのだと思う。もし、あの時、お互いに疲れやショックが自分の感情の原因だと分っていれば、おそらくその後の喧嘩にもならなかっただろう。ただ、俺は、自分がそんな程度のことが一々気に障る程自分がショックを受けていた事を認めるを、いや、考えることさえできなかった。


—我等が人に赦す如く、我等の罪を赦し給え—

 遠くで司祭の祈りが聞こえる。

 ふと、説教台に目をやると、そのまま目は神父をそれて、祭壇上の十字架に掛けられたイエスのところで止まった。

 ジーザス


 ああ、そうだ。

 ジョーの埋葬を済ませて、二人で呑んでいたんだ。

 献杯の後、二人とも話したいのだが何も言葉が出て来ない沈黙に堪えかね、適当なラジオ配信を流した。丁度ジャズが流れていたのがあり、それが良いなと思いそのまま流していると、合間にヘッドラインニュースが流れてきた。

 当時、月で分離派が台頭してきた為、治安維持の観点から監視や管理を強化しようとする月政府に怒った分離がデモだったか集会だたかをやり、それが当局に踏み込まれて暴動騒ぎになったとか、そんなだった気がする。

 そう言えば、デマやフェイクニュースが飛び交う「情報戦」もネット上では展開されていたな。

「暴動なんてしないで、大人しく地球の言う事を聞いていれば良いのに、馬鹿な連中だ。なぁ?」

 話題に困っていた事もあり、何の気無しに俺はセバスチャンにそう話し掛けた。

 本当に、軽い返事がくるとしか思っていなかった。

 ただ、セバスチャンは俺の投げかけを受け、少し驚いた様な顔をすると、方眉を上げ、やや考え込み始めた。間接照明が反射した眼鏡のせいで、目からは表情を読取る事はできなかった。

 「あぁ、うん、そうだね……」

 そうして、漸く漏らした声からは、何の意味もなさない音が出てきた。

 「彼等にも、彼等の事情が有るのではないかな」

 意外な事に、月の連中を擁護する言葉を出してきた。

 「あいつらの事情?」

 「あぁ」

 「『事情』って何だ?あいつ等は好き勝手に、或は犯罪を犯したから月に行き、そこで好き勝手にやっている。なのに、更に地球が気に入らないと文句ばかり言っているんだぞ?それの何が『事情』だって言うだ?」

 そうだ、連中は好き充分勝手にやっている。お陰で俺のビジネスも何度かストライクやボイコットに巻込まれ、危うく頓挫しそうになったこともある。

 「そうは言うが、彼等には自治権が無いじゃないか。一応『月政府』なんてものは有るが、あんなのは傀儡だって誰の目にも明らかだ。そこへきて、地球の都合で一方的に監視強化じゃ、怒るのは当然じゃないかな」

「自分達で好き勝手にやった結果、監視強化になっているのに、それに怒るのが『当然』だって?」

 こいつは本当に俺の知っているセバスチャンか?

 確かにあいつは、出自の関係もあってか、どちらかと言えばマイノリティの味方で、リベラルよりだった。だが、理屈の通じない事は認めないし、その理屈だって直ぐさま見抜くやつだった。

「いや、確かに彼等は好き勝手にやっているよ。そして、その結果、月面は開発され、地球に対する食料生産や工業生産下請けの大部分をこなせる様になった。そして地球とは異なる『月文化』が醸成され、彼等はそれに基づいて生活するのが『当たり前』になっているんだ。それを地球の価値規準でとやかく言われ、しかも食料や工業製品の下請けのバーターの筈の水や空気等の生命線を一方的に、しかも恣意的に操作されたんじゃ、君だって同じ立場だったら怒るだろう」

「お前の言う『月文化』と言うのは、あの重婚や変な性的関係を持った集団の集まりだったり、私刑や自警団が横行する、あの無政府状態の事を言っているのか?」

「それを『合理的無政府主義』と呼ぶ一派もいるそうだけれどね。それに、君だってそう言う『旧体制』の価値観からは逸脱したヴェンチャーで成功した、アウトサイダーの側じゃないのかい?」

「違う。俺は、これまでの頭の固まった老人どもとは異なる視点でビジネスを築き上げただけで、きちんとルールや因習に従っていた。そうでなければ協力も得られないからな。ガバナンスが無いなら、秩序もなにもあったものじゃない。それに」

 これは、卑怯かもしれないな。

「ポリアモリーだが何だか知らないが、重婚の中には同性愛もあるらしいじゃないか。そんなソドミーな事、君が属するカトリックは赦すのか?」

 これを言ってしまったとき、セバスチャンの顔は急激に強ばった。

 そして、直ぐに表情が消えた。

 垂れてきた黒髪と喪服で黒尽くめの中、室内灯を反射した眼鏡だけが光る、何か漆黒の塊になった。

「そうだね——」

 その黒い塊から、何か音だけが漏れ出てきた。

「君は、違う側だったね——」

 そう云うと、目だけは白い黒い影は立ち上がり、手にしていたカナッペとワインの入ったグラスを置いて、俺に背を向けた。

「おい、『違う側』ってなんだ?」

 俺の質問を無視して、彼は居間を出て行った。


 セバスチャンの行動の訳が分らず、感情の持って行き場に困った俺は、そのまま居間で眠ってしまった。

 もともと微発砲の赤ワインから、泡も立たなくなるほど炭酸が抜け切った明け方、セバスチャンが出て行く音が聞こえた。

 微睡みと不愉快の中にあった俺は、彼を無視して、ソファの上でただ横たわっていた。

 彼はジョーに別れを告げると、事前に呼んであったのか、相変わらず古臭い地上用のタクシーで我家を出て行った。


 それがあいつと直接会える最後の機会になるなんて。


—彼が世にありし間、弱きによりて犯したる罪を—


 再び司祭の声が聞こえてくる

 罪?


—大いなる憐れみ以て赦し給え—


 あいつは、何か「罪」を犯したのだろうか?

 あいつの棺とイエスの間を目で何度もなぞる。

 あいつは——


—アーメン—

「「アーメン」」

 周囲が合唱する。

「あ、アーメン」

 少し遅れてしまった。



 俺は自家用マルチコプターでの帰路、あの日セバスチャンと呑んでいたのと同じ銘柄のワインを開けると、封蝋で封印された、蠟引きの紙で作られた古めかしい趣味の封筒を眺めていた。

 俺への宛名以外は何も書いていないが、封蝋にはセバスチャンが好んで使っていたイチジクの文様があるので、あいつの物に違い無いのだろう。

 彼の両親から「息子から、何か有ったらあなたにこれを渡して欲しいと……」と言われ渡されたものだ。

「電子全盛のこのご時世に紙だなんて、どこまでもアナクロなやつだ。その内パピルスでもでてくるのか?」

 そう言いながら、最初に入れた一杯を飲み干す。

 酷く苦い。

 甘口なはずだが、外れを引いたか?

 開けなければいけないのだろうが、何だか、開ける気がしなかった。

 もう一杯入れる。

 濃い紅の液体から、しゅわしゅわと細かい泡が上る。

 俺は暫くその泡を見ていると、もう一口だけ飲み、封を開けた。

 中から、更に紙が出てきた。今度のは微妙に手触りに抵抗感のある、コットンペーパーで、それを開くと、紙の間から何かが落ちてきた。

 それはワインの入ったグラスに弾かれると、俺の脚の間を撥ね、絨毯の上に落ちた。


 拾ってみると、それは鍵だった。


 これもまた、何とも古めかしいモノで、最初はこれに指紋や生体認証の機能でもあるかと思ったが、何度見ても、普通の真鍮でできた古めかしい鍵だった。

「何だ?」

 ソファに座り直し、鍵を眺めるが、そこには何のヒントもなかった。

 他の手がかりを求め、先程の紙を見る。折り畳まれた内側には「親愛なる君へ。M26−52、セミナリオ通り、サンバルテルミ」と、住所とセバスチャンの花押だけが書かれていた。

「ジョバンニ!今から取り込む画像の住所まで、航路変更!」

「即座に変更を行うと航空交通法に抵触する恐れがありますが、実際のルールを優先しますか?」

 俺の呼びかけに、聞き慣れた機械音声が応答してきた。

「イエス!その他の条件は、時間優先で処理しろ」

「了解致しました」

 VBS(バーチャル・バレット・システム)のジョバンニは直ぐさまAPS(エアポジショニングシステム。主に地球の大気圏内で使うものを指すが、成層圏でも用いられる事がある)と連動して航路を変更した。


 航路の変更を確認した俺は、再びグラスの中のワインを飲み干す。

 今度は少し甘くなった。さっきのは冷え過ぎていたのだろう。

 もう一度、セバスチャンがよこしたコットンペーパーに目をやる。

「あいつのことだ。行けば分るだろう」


 ジョーが駆け寄ってきた。

 今度はきちんとつかまえる。

 ジョーは嬉しそうに身をばたつかせる。

 なんだお前は。可愛いな。

 突然ぬるりとした感覚が襲う。

 ジョーを見る。

 ジョーは燃えていた。

 ジョーは溶け出す。

 手の間からぬるぬると青い炎が抜けていく。


 セバスチャンが柱の影から出てきた。

 白い布を巻いた様な服を着ている。

 セバスチャンはただ俺を見ている。

 なんだお前は。何が有ったんだ?

 突然鍵が差出される。

 セバスチャンを見る。

 セバスチャンは泣いていた。

 セバスチャンは光り出す。

 目の前に四つの箱が置いてある。


 ああ、この鍵か——


「間もなく目的地上空付近。降下体勢に入ります。シートベルトを着用して下さい」

 ジョバンニの声。

 余程ショックを受けていたのだろう。どうやら寝ていたらしい。

 酷い夢を見た気がするが、何だがよく思い出せない。

 ふとボトルを見ると、酔っていたのか、グラスを二つ出してワインを注いでいた。

 片方のグラスとボトルには、最早ワインは残っておらず、ワインを残しているグラスからも、炭酸の囁きは失せていた。


 サンバルテルミの周辺は、砂漠地帯な事もあって、マルチコプターを置く場所だらけだった。

 セバスチャンの紙に書かれた住所には、彼の研究所兼住処があった。

 建物は旧世界に建てられたかの様な味気ないコンクリート製の外観で、扉もステンレスとガラスを組み合わせた、実にのっぺりとしたモノだった。

 鍵はあるものの、それを受ける錠が見あたらない。

「どうやって開けろってんだ」

 仕方なしに、なかばやけくそに、近くにあったインターホンの呼び鈴を鳴らす。

 こちらも味気ない電子音が鳴り響いた。

「はーい」

 驚いたことに、返事があった。

「どなたですか?」

 あっけに取られた俺は、暫く声を出すことができなかった。

「いたずらですか?もしそうなら、警察を呼びますよ?」

 インターホンの向こうの声は落ち着いていた。

「あー、俺はセバスチャンの知合いの者だが——」

「先生は亡くなられました。やはり警察を呼びますか」

 向こうの声に苛立が混ざる。

「あー、悪戯じゃないんだ。これを見てくれ」

 俺はそう言って鍵をカメラに近づける。

 インターホンの向こうからは沈黙が返ってきた。

 扉が突然開いた。

「信用した訳ではありませんが、それを持っている以上、こちらへどうぞ」

 インターホンから固い声が聞こえた。


 中に入った俺は、応接間の様な処に通される。

 後ろではラジオ配信が流れ一応客間の様にはなっているが、同時にこれ以上奥に通さない為の部屋であることも、何となく見て取れた。

 会社をやっていた頃、自分でも似たような造りにした事がある。

 ようは、商談やセールスマン追い出し用の部屋だ。

 オートマタが俺の注文に応じてコーヒー等を出してきた。

 念の為簡易キットで検査したが、薬物反応は出なかった。

 ご丁寧にカフェインまで抜きやがって。


「別に貴方を毒殺したり、昏睡させる意図はありませんよ」

 その気の抜けたコーヒーを喫んでいると、奥側の戸が開き、少年だか青年だかよく分らないやつが出てきた。

「初めまして。僕はマクシミリアン。先生の助手で、一応数学博士です」

 喪章を着たままの彼、マクシミリアンはそう自己紹介をした。

 見た目はアジア系、ただしセバスチャンのような北東アジアではなく、トルコ系やインド系が混じった顔だちである。鳶色の目に黒い髪、眼鏡はかけていないが、どこかセバスチャンと近い雰囲気を感じた。

 まあ、博士、それも哲学博士なんて取るような変人は、皆似たような空気を持っているものだ。

 一通り自己紹介を終え、セバスチャンとの関係を話すと、マックスはようやく俺に気を許してくれた。—もっとも、「マックス」と呼ぶ度に「マクシミリアンです」といちいち訂正されたが—


「—月のテロリスト集団は、前回の政府軍の反撃に対し、再度投石を行う旨宣言してきました。これに対し連合政府は迎撃の構えを発表し、もしこのような蛮行が続くならば、現在武力集団が占拠する月自治政府首都のアームストロングに総攻撃を行う可能性も示唆しました—」


 ゆっくりコーヒーを喫んでいると、ラジオからはヘッドラインニュースとして、またしても忌々しい月の連中の話が出てきた。

「また月の連中か。政府もようやく武力介入を決意したようだな」

 俺は、話題の延長として、マックスに話を振る。

「今迄が弱腰過ぎたんだ。高々小麦や大豆、多少のレアアースの供給を渋られた位で、そんなだからなめられるんだ。なぁ?」

 マックスの顔は強ばっていた。

 少し、間があく。

 目で下を見ていたマックスはようやく口を開く。

「僕は……」

 賛同なり反対なり、自分の意見を言う事の、何がそんなに詰まるのか。

「僕は、月の出身です」

 マックスはそこまで言うと、また下に目をやった。

「月で生まれ育ち、そこそこ勉強ができたので、地球への留学渡航許可を得て大学に入り、その後先生の研究を手伝うようになりました」


 何だって?

 月のやつと研究していたなんて、あいつはそんな事、一言も言っていなかったぞ。


「ああ、そうか。それは——悪かったな。悪気はないんだ」

 俺はとっさに謝る。

「いえ、お気になさらずに」

 マックスは、テーブルを見たまま、軽くそう告げた。

「いや、でも、マックス、お前は悪そうなやつには見えないよ。そうさ、暴れている連中が悪いんだ。大人しくしていれば悪くはしないものを、ああやって壊そうとするのがいけないのさ」

 俺は、特にその必要は無いのだろうが、思わず言い訳を付加えてしまった。

「僕はマクシミリアンです」

 その声は、冷静だった。

「オスカー。S-1-20をここに持ってきて下さい」

 マックスはVBSにそう言うと、後は黙っていた。

 しばらくすると、給仕用ロボットが銀色のプレートの上に何かをのせてやってきた。

「今回の月の件に関しましては、僕は特にコメントしません。また、その鍵についてですが、恐らくこちらの先生のノートの物でしょう。僕も中身は気になりますが、どうかそれをお持ちになってお帰り下さい」

 彼は早口にそれだけ言うと、革で装丁された鍵付きのノートを手に取り、俺に向けた。


 ノートを受け取った俺は、セント・アンジュの自宅に向かわせたマルチコプターの中でノートに鍵を差し込み、開けてみた。

 鍵がスムーズに廻るところをみると、つい最近まで頻繁に開け閉めしていたらしい。

 表紙をめくると、最初のページに俺とセバスチャン、ジョーが映っている写真が挿んであった。

 俺もあいつも、そしてジョーも若々しいので、恐らくルームメイトとしてやっていた頃のだろう。

「わざわざプリントしたのか。このノートと良い、とことんアナクロなやつだ」

 懐かしさもあって、思わず口に出してしまう。

 中身はあいつの研究ノートだった。

 内容に関しては全く分らないが、途中からマックスの名前がちらほら混ざり出した事や、ビデオシートの動画で視覚的に分りやすいものはわかった。

 ぱらぱらめくっていると、何か落ちてきた。

「ん?」

 手に取ると、それは前と同じブランドのコットンシートだった。ただし、前回は周囲に薔薇の文様が施されていたのに対し、こちらはミッドナイトブルーを基調とした暗い縁取りがされていた。

 封蝋も無い。

 開いてみると、それは手紙だった。


 「親愛なる君へ」


 また同じ書出しだ。

 ただ、今回はその後にも文章が続いている。


「この手紙が開かれていると言うことは、僕、セバスチャン、に何かあったと言うことだろう。君は意気消沈してくれているだろうか。それとも怒っているだろうか。この手紙を受け取るのに随分と手間を掛けさせたのはすまない。それは先に謝ろう。ただ、君に、是非とも『月の住人』に会ってもらいたかったからのことからだ。ジョーの葬儀の日、君と言い合いになってそのままになってしまったが、それが気がかりだった。それと、この手紙が開かれるような状況が起きたからこそ、君にようやく言える事なども記した。できれば、文句を言わずに全部読んで欲しい。」


 随分な書きようだが、あいつらしい。


「僕は司祭の手によって祈りは捧げられたのだろうか?或は、まだ油を塗られている頃だろうか?まあ、どちらでも良い。僕は、君が言うように地獄に堕ちるべき人間だ。つまり、ゲイなんだ。同性愛者だからといって地獄行きだなんて、もうとっくに絶滅したような考え方かと思うかも知れないが、僕の両親はその絶滅危惧種だった。流石近世の迫害に耐えた家柄は違うよ。だから、家を出て、大学に入り、自由になったとき、何とも楽な気持ちになったんだ。それには、君やジョーとの出逢いも大きかった。けれど、それでも、まだ何処かにひっかかっていた。だから、月の『文化』に、その自由さに憧れていたんだ。自由に憧れながら、両親を裏切れないとも思い、信仰を否定もできず、結果その両方を裏切り続けた。そんな僕の卑怯さこそが、僕が地獄行きの理由だ。


 さて、君が出て行ったとき、僕は君との繋がりが欲しくて、ジョーを、僕の分身として君に任せた。大切にしてくれたみたいで本当に嬉しかったよ。ただ、同時に、凄く寂しかった。そんな時に、丁度マクシミリアン(君も会ったと思うが、あの黒髪の子だ。いい子だっただろう)が僕の研究室に入ってきた。月の出身で、地球には無い物腰を感じたが、しかし粗野な部分も無かった。そこで彼から月や地球との関係を聞いたり、彼自身が受けている差別の相談を受けたりしていて、そこから月の独立を支持するようになったんだ。勿論、これには僕自身の憧憬が多分に投影された、勝手な理想化も含まれているけれどもね。因に、マクシミリアンとはプラトニック(文字通り!)な関係な事は記しておくよ。それに関して彼がどう考えているかは知らないけれどもね。

 閑話休題、話が少しずれてしまったね。とにかく月の賛同者になった僕にとって、ジョーの葬儀の時の君との諍いは、本当に堪えてしまったんだ。信頼していた君があんな言い方をするなんて、僕には耐えられなかった。これから地獄の最下層に行く僕が言うのもなんだが、どうか赦して欲しい。君の赦しが無い事が、僕には、氷付けになるよもずっと辛い、最も辛い事なんだ。

 君が赦してくれたかは、それとも軽蔑されたかは判らないけれど、とにかく、別れの挨拶だけはしておこう。さようなら。

                               セバスチャン」


 手紙はこれだけだった。

 馬鹿野郎め。



 自宅に帰った俺は、そのまま倒れ込むように寝てしまった。

 夢の中では、ジョーが飛び込み、俺は笑いながらなで回していた。

 他には何も無い。

 何だか、とても幸せな気分だった。


 目が覚めても、その幸福感に包まれていた。

「変な意地を張らず、最初からこうしていれば良かったんだ」

 思わず、独り言がでる。


 カーテンを開ける為に窓辺による。

 下から漏れている太陽光が、既にその向こうの明るい世界を教えてくれていた。

 カーテンを開ける。


 上空が赤かった。

 衝撃音。

 衝撃波。


 既に肉眼で確認できる位置にそいつはいた。

 断熱圧縮された空気によって表面を真っ赤にした、光と影に包まれた岩の塊。


—彼が世にありし間、弱気によりて犯したる罪を、大いなる御憐れみを以て赦し給え—



「——政府の発表によりますと、昨日早朝に落下しました月からの投石は、第七艦隊による迎撃を受けるも、当該艦隊を巻込み成層圏内に落下。迎撃により軌道のズレた石はセント・アンジュに落下し、これによりセント・アンジュは消滅。レウェグスも50%近くが巻込まれ、壊滅状態となってります。今回の件を受けて、地球側市民からも抗議の声が相次ぎ、地球政府は月政府との和平も含めた交渉に乗り出す構えを見せ、今後の対応が注目されます。——」


 ラジオは淡々と、そう告げた。


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