斯くして彼はフギンとムニンに還る
@kyugenshukyu9
第1話
卒業したら何をしたいか、と訊かれた。
だから、自信を持って、堂々と胸を張って、渾身のしたり顔で、こう答えた。
ぼくは、ぼくの好きなものを守れればいい。それだけです、と。
漆こそが命である黒板が消えた。
罵声。
「これより瑞穂のため、帝陛下のために粉骨砕身の覚悟で信奉するというのに、なあにが好きなものを守れればいい、だ。日和ったことを抜かしおって、お前みたいな馬鹿が一丁前に誰かを守れるわけがなかろう。あれか? さては馬鹿が過ぎて俺の言葉も呑み込めんのか、そうとしか思えんいやそうに違いない」
頭のてっぺんが痛い、名簿で叩かれたからだ。無視するのも失礼なので、痛い頭を手で擦りながら顔を上げる。教卓の上で担任の
「先生、でも言葉は食べ物でもないし空気でもないから呑み込めませんよ。だから、」
ぺし。
まだ答え終えていないのに、名簿の端で前髪を切りつけるみたいに叩かれた。目線を更におでこまで上げ、ついでにじわりと浮かぶ汗を拭い、乱れた前髪を手櫛で整える。
よし、今日も白絹みたいに綺麗だなあ。ま、白絹なんて見たことないけど。
「誰が問答をしろと言った、耳付いてんのかお前は。そもそもお前の馬鹿頭の中にはちゃんと脳味噌が入っとんのか、どうなんだ?」
「先生。そろそろ瑞々しいお米の収穫時期ですね、ぼくお米凄い好きです。一俵は余裕のよっちゃんですよ。あ、あと、帝様もめちゃくちゃお慕いしてます、それはもう物凄くてですね、家の門のところに瑞の穂の旗を掲げてるくらいで、」
机と接吻をした。ぼくの初めてが、なんてこった。しかも今度は頭のてっぺんを名簿の角で叩かれた、それはもう金槌で釘を打ち込むみたいに。
「瑞穂旗を掲げるのはこのご時世当たり前だ、それに何だ帝様とは。帝陛下だ帝陛下、お慕いってお前は友達気取りか。ったく、寝坊で遅刻して来た分際のくせにまだ起きてないんじゃないか馬鹿たれ」
問答から趣向を変えて瑞穂や帝様について言ってみたのに、また馬鹿と言われてしまった。馬鹿と言われるのはぼくが馬鹿だから仕方ないとしても、やっぱり頭を叩かれるのはよろしくないと思う。
「でも先生それは違いますね、遅刻したのは寝坊のせいじゃありませんよ」
より正確に言えば、うたた寝をしたのは教室に来て机に座ってからだ。気付いた時にはもう意識がお空の彼方に旅立っていた。終業式だったけど遅刻したから、致し方なく教室で待機していたのにこの様だ。
うん。これはやっぱりきちんと弁明すべき、
「どうせ烏が電線に止まっていてぼけーっと見ていただの、野良猫を追っかけていただの、それで気付けば道に迷っただの、途方に暮れていたら川の中に鯉を見つけただの、そんで手掴みしようと躍起になって結局捕れず、挙げ句の果てには蟻の行列を眺めていただの、そんなしょーもないことをしてたんだろうが」
「…………先生はえすぱーさんですか?」
「間抜け面を晒すな
眉間に皺を寄せて、吐き捨てる九里先生。
果たして馬鹿は感染るのかな、どうなんだろ。
教室の皆はそれはもう――静かなものだ。このやり取りを始めた最初の頃こそ、そこかしこでちらほら失笑が漏れたものだが今ではすっかりひそひそ声が漣のように波及していくのみ。人は慣れるものだ。
今日は終業式なので学校は昼までで給食はなし、だからご飯は家で食べないといけない。そう思うと、蚊の鳴くような音でお腹が抗議の声を上げた。
せめて今学期最終日くらい給食をたらふく食べたかった。戦争が本格化したらきっともう、一口たりとも食べられないだろうから。
そっか。それが皆分かっているから今もこしょこしょしてるんだ。誰だって給食は食べたいもの。腑に落ちた、腹の虫だけに。
こつん、ぐーで小突かれた。
「だからその腑抜けた顔をやめろ、みっともない。馬鹿らしくするぐらいならな、せめて男らしくか女らしくかどっちかにしろ。そんなんだからお前は――」
チャイムが鳴った。
夏の長期休暇を告げる耳障りな目覚まし時計みたいな音、最後になるかもしれない平和な夏の始まり。
ちっ、と舌打ちを一つ。
「……ほれ、通信箋だ。隠さずしっかり親に見せんだぞ、いいな」
この音聞くと夏って感じがするなあ、と思ってから返答しようとしたら、
「んじゃ、夏バテすんなよ。あ、掃除当番はちゃんと掃除していけよ。夏休みの掃除担当久丘さんにどやされんのは俺なんだからな、神城と、あと百舌」
とうの昔に皆の分の通信箋は配布し終わっていたようで、級長が待ったなしに号令をかけていて、ぼくが一拍遅れて慌てて尻を浮かせた時にはもう皆当然のように座っていた。
チャイム音が殷々と尾を引いていく。そして代わりばんこに蝉の声が大きくなっていく。
帰り支度にざわめく皆の只中で、ぼくは独り
最期になるかもしれない夏が、尋常小学校六年一組にやって来る。
粗野にぐいっと腕まくりをする。
「お掃除だあー、やるぞー。じゃんじゃんやっちゃうぜー」
しんと静まり返った教室に響いたぼくの声も、あっという間もなくひぐらしの鳴き声に埋もれていく。壊れかけで錆びた釘が覗く木製のロッカーから未だに寝起きでぼさぼさな箒を取り出し、教室の隅に溜まった浮雲みたいな埃をぶわあと掃いていく。物陰から追い立てられたアシダカグモがそそくさと壁をよじ登って行き、瞬く間に窓枠を超えて灼熱の校庭へと飛び出した。開け放した窓から斜めに鋭く差し込む真っ白な日差しが、ぼくの髪を容赦なく炙り
やば。
慌てて窓辺から離れようとして、
「うぁ、っとっとっとぉ!」
足元をもう一匹、ぼくの有様など知らぬ顔で物凄い速さで駆け抜けていった。それがいけなかった。そのせいで目線はそいつに釘付けで、足があられもなくもつれ、机を掴んで堪らえようとしたが時既に遅く、広げた掌は虚しく空を切っていく。掴めたのは、ぼろぼろのカーテンをそよそよと靡かせる緩く吹き込む風と日差しの斜面で、
「っあぐ! っ~~~~!!」
迫り来る床へ両手を突き出せばよかった筈なのに、肘から落ちた。
その場で汚れる事を気にする余裕などなく、悶絶。悲鳴すら上げられなかった。そのままいつまでも、行き倒れのように横向きで倒れていた。
宙に漂う埃が輝いている。耳に痛い程の静寂が満ちていった。日向の熱を運んで来る風が埃を押し流していく。木造校舎の床は日に炙られて頬がじんわりとした痛みを訴える。亀よりも断然遅い微々たる速度で西に傾いていく日差しの斜面が、がらんどうな教室の薄暗さをより一層際立たせる。蝉の声だけがやけに大きく耳に届く。粉々に踏み砕かれた白墨の匂いが鼻につく。
ちらり。
肘の激痛が引いていくのを黙々と待っていると、自分の髪が目に入った。まず白い。それもそんじょそこらの白さではない、白墨にだって出せない驚きの白さ。まさに純白、白絹に勝るに決まっている完璧さで、肩口にかからないくらいの髪。皆は口を揃えて変なの、おかしい、九里先生に至っては染めろなんて言い出す始末。実際染められかけた、漆で。何回か前の夏に川遊びをした時には、同級生に髪を洗濯された。いくらぼくでも流石に顔面を水面に叩きつけられたのは初めてだった。
確かに変だ、と自分でも思う。
だけど、だからこそ、ぼくはこの髪が好きだ。
特殊なのは良い事だ、だって一目でもすれば嫌でも記憶に残るから。覚えてもらえないのはとてもとても悲しい事だ。
とはいえ、やっぱり今でも誰一人としてこの髪を褒めてくれた事はいない。一人くらいいたってバチは当たらないのに。
「まあ、どうかして? 早くお立ちになってくださいませ。そのままではせっかくの綺麗な髪が台無しになってしまうわ」
びっくりした。少し悲鳴だって上げた。電撃的な早さでがばっと起き上がり――電流を流したみたいな痛みが肘をぴりっと刺して「っーーっ!」と呻く。
「肘を打たれたのですか? さ、お手をどうぞ」
差し出された掌はすらりと細く、ぞっとする程白く、触れてしまえば壊れてしまいそうなくらい柔く。
「見せてくださいませ。……………………少し腫れてますわね、ファニーボーンかしら。一日二日経っても痛みが引かないようでしたら、病院で診察して頂くとよろしいかと。わたくしのかかりつけのところを紹介致しますわ、とても信用できますからご安心なさいませ」
まさに腫れ物に触れるかのような手つきで肘を診られた上に、吐息さえ聞こえる距離から真摯な目つきで見つめられたものだから、ただただ頷くしかなかった。
「詳しいんだね、えーーーーっと……」
「
変な名前だなあ。
「あー、なんかごめんね。ぼく人の名前覚えるの苦手で……。で、でも顔を覚えるのは得意だよ! ちょっと待ってね、えっとキミの名は黒さんで確かーー組はーー……………………あれ? でてこないな、なんでだろ?」
同級生も名前こそ覚えていないが顔はしっかりと記憶しているのに、今目の前にいる綺麗な人の顔が一向に思い出せない。大見得を切った手前、忘れたとは言えない。
「ん~~~~、こんな可愛い顔ならぜったい覚えてる筈なんだけど」
「あらいやですわ、お世辞がお上手だこと」
「いや嘘じゃないさ、ほんっとうに綺麗で可愛いよ! ぼくよりずっと美しいしお上品だし頭良いし、何よりいい人だから!」
ぼくなら可愛いとか綺麗より格好いいと言われたいけど。
「医学を少々嗜んでいるだけですわ、でも……ふふ。そこまで熱弁されては些か照れてしまいます。……こうしてお褒め頂くのは初めてですが存外に――満更でもなくってよ」
抜けたように白い頬を染めた朱は照れのせいか、或いは日差しの熱にやられたせいかぼくにはよく分からない。でも、照れ隠しのために桃色の唇に自分の指先を触れさせて悪戯っぽく微笑む様が雅であるのは、ぼくでもよく分かる。
そこではたと何かに気付いたように、黒さん。
「それはそうと、お掃除の最中だったのでは? よろしければお手伝い致しましょうか?」
「んあー、そういえばそうだったねえ、でも大丈夫。もう一人神城くんって男の子が当番になってるから。それにしても遅いなあ、まさかご飯を先に食べてから来るのかな」
ぴょんと立ち上がり、制服についた埃をぱんぱんと払い、コケた時にほっぽり投げた箒を拾って辺りを見回すも、やはり教室にはぼくと黒さんしかいない。すると、つられて腰を上げた黒さんが漆黒のスカートの皺を直しながら、
「神城様はわたくしと代わられたので来られませんわ。それに小百合様が覚えておられないのも無理はありません、なにせわたくしは別の組なのですから」
「へ?」
目をぱちくりさせていると黒さんはくすりと微笑を零し、ぼくの脇を抜けて窓枠に手をついて、どこにも影を作っていない眩い校庭を見渡す。
「貴方とは一度お話をしてみたいと思っていましたの、それに今日は実に良い機会ですし。まあ、狙って作ったものですが」
「えっと……あはは、ごめんね。ぼく馬鹿だから黒さんの言ってること、よく分かんないや」
「ご自分を卑下されるのは感心しませんわ、百舌小百合様」
あれ? そういえば何でぼくの名前、
「今日までの二週間に渡り無礼を承知でずっと拝見していましたから、貴方の事を。――ぼくの好きなものを守れればいい、でしたか。とても素敵な目標だと思いますわ」
半身だけ振り返り、にこりと微笑む。それは皆や先生が事ある毎にするような呆れ顔の苦笑ではなく、賞賛の意に満ちたそれ。続けて黒さんが何か言っている。目標は結構ですがそれでも先立つものが必要でしょう、そもそも一口に守ると言っても家か国か友か想い人かで分かれますわね、小百合様はどちらへ進学なされるのでしょうか? 黒さんの唇がそう動いている。が、耳の右から左へ流れて行くばかりで内容を理解できていない。
それでも、口をついて出た言葉は、
「――それ、本気で言ってるの?」
対し、黒さんはきょとんと首を傾げる。
「ええ。小百合様もまさか冗談で仰っていられたわけではないのでしょう」
まさか本気でぼくの言う事を信じてくれる人がいるなんて。
「そ、それはそうだけど、でもぼくはちっこいし体も弱いし日差しに弱くてろくに外も出歩けないし、それにほら、こんな髪だし。おまけに目も少し悪くて、のろまだし方向音痴だしおっちょこちょいのドジだし、よく遅刻も寝坊もするし何より…………馬鹿だじゅ」
急に指先で鼻をむぎゅと押さえられた。真剣な目つきが、ぼくを射抜く。
「そんな事、取るに足らない些事に過ぎませんわ。大事なのは小百合様の意思が如何ほどのものであるか、それだけです」
その時にはもう、思わず目を逸してしまっていた。みるみるうちに動悸が早まっていく。心臓の大きすぎる鼓動が漏れてしまいそうで、胸をぎゅっと押さえつけた。
初めてだ、こんなの。
射竦められて息を詰めるぼくをよそに、黒さんは教卓の真ん前にある机に歩み寄っていく。ぼくの席だ。そこには誰が書いたかは知らないがでかい字で「バカ」と書かれてあって、九里先生曰く「お前が馬鹿だからそんな風に書かれるんだ。お前専用の机なんだから卒業するまで責任持ってお前が使え、卒業したらしっかり消せよ、後から使う奴が可哀相だからな」だそうで、ぼくとしては最近物忘れが酷い事もあって分かりやすくて助かってる。おまけに最近は朝来た時に生き物係の人の手違いか分からないが、白い花の花瓶が置かれていたりする。ぼくとしては好きな色だからさして邪魔だなとは思わないけど。
黒さんの指が机をなぞり、その指先を追うように視線を滑らせて文字を読み取っていく。その瞳には憂いが滲み、長い睫毛が悲しそうに伏せられている。
ぼくのせいでそんな目をしてるんだ、と思った。だから、黒さんの唇が動き始めるよりも早く口火を切る。
「黒さんもさ、何か夢とか目標があるのかい?」
機先を制され、黒さんはぐっと口を噤む。ややあって、戸惑うように口を開く。
「何故、そう思われるのでしょうか?」
「んーー、黒さんがずっとぼくの事を見てた理由がそれかなって思ったから。なんて言うのかな、しんぱしーってやつ?」
何の気無しの当てずっぽうで口走ったことで、
そしてぼくは、ぼくの机の傍に佇む人の顔に綯い交ぜのない純粋な驚愕を見た。
開いた口は金魚みたいに塞がらず、目は皿のように見開かれ、まるで心臓を掴まれたかのように息を止め、珍獣を見る目つきでぼくにじっと視線を留めた。可愛いなあ、すっごく。
そして観念したかのように、ため息を一つ。
「……小百合様は勘が鋭いですわね。まあ当然ではありましょう、なにせわたくしが見込んだお人なのですから」
そうして、はにかむような微笑みを湛える。けどそれは今までに見せたそれとはまるっきり違う。ともすれば陰のある嘲笑のようにも思え、この時になって初めてぼくはそれが黒さんなりの流儀で、これこそが本来の微笑だと知った。
「小百合様がそうであるように、わたくしにも守りたい大切なものがあるのです。まあ、それは妹なのですが、この妹がもう九つになるというのにわたくしの後を雛のようについて来まして、危なっかしく片時も目が離せないような子でしてね」
昼過ぎの陽光の只中に立つ黒さんは、陽炎達が踊り舞う校庭に視線を移す。眼差しは校庭ではない何処かを見据え、その妹の事を思い出しているのだろう。ぼくはその和らぐ目元から視線を追って校庭より更に上、綿飴みたいな夏雲を見上げる。
「こんな時勢ですが、せめてあの子よりも長生きしたいと思っています。そのためにも何か、生きていくための、自分の身を守るための術を身に着けなければならないとも」
「生半可な覚悟じゃ目標なんて到底達成できないってこと?」
同意の首肯が返ってきた。むう、やっぱりそういうもんか。
「ならその、医学の勉強をしてるんだったらその道を進めばいいんじゃないかな。今だったら野戦病院とか、あ、でもそれじゃ危険な目に遭っちゃうかも。それじゃ本末転倒だし、」
「一応、第一高等学校を目指し、それから帝国大学の医学科へ入るつもりです」
「ほえー、じゃすっごい頭良いんだ。すごいなー、ぼくなんて通信箋が丁ばっかりだよ」
「それでも白線浪人にはならないようにしないといけませんが」
苦笑するように、黒さん。贅沢な杞憂だなあと思う。黒さんの危惧はどうあれ、ぼくとは雲泥の差だ。
「ペンは剣よりも強し。腕力よりも含蓄に富む事もまた然り。今の成績が悪いからと言って知能指数が決定づけられるわけでもありませんし、小百合様なら時間さえおかけになればわたくしなどあっという間に追い越してしまうでしょう。さすれば、小百合様の目標も必ずや達成される筈で、」
「あー、そうなったらいいねえ……」
言葉を遮る形で思わず口走ってしまった。まずい。
それを誤魔化す必要があった。誰かの机に腰掛け、目線を毒々しい程に青い夏空から薄汚れた床に逃がして、肩口ほどの白い髪を指で梳く。返答に窮する。黙っていれば勘付かれるというのに、二の句が継げない。
そんな事だから、やはり黒さんが探る目つきでぼくを見遣る。
「まるで希望的観測みたいな言い草ですね」
「そうかな。ぼくって割りと悲観的だからさ、そういうつもりで言ったわけじゃなかったんだけど」
愛想笑。
これまで見透かされてばかりだ。せめてこれだけは悟られないようにしないと、でないと
「死期がもう近いから、でしょう」
「」
頭が真っ白になった。何を言ってるんだろう、黒さんは。それが質問ではなく確認の意であった事に気づくのに、随分と長い間が必要だった。しばらく沈黙したまま、蝉の声だけが教室まで届く。ようやくとすら思える間を置いた後、割れた声が乾いた口から漏れる。
「…………何を、」
「先天性白皮症者、つまり白化個体は皮膚癌発病のリスクが高い。そして小百合様は以前から背中にかかる程の長髪でらしたのに、一週間前に唐突に髪をばっさりと切られた」
「それは……もう夏で暑かったから、」
「失礼ながら、百舌家の経済状況は芳しくないようですね。手術をしたくてもお金がない、かと言って放置しておく事も憚られた。故に化学療法や放射線治療に頼らざるをえないと存じます。如何でしょうか? もし間違いがあればご遠慮なく指摘して下さいませ」
「……………………」
言葉を失くした。ぼくを見るその目は追及するそれではなく、試すようなそれ。ふと夏雲が日差しを遮り、陰に埋もれたせいで黒さんの目の奥にある筈の感情の色は窺い知れない。
嘘をついても良かったと思う。たとえ看破したとしても、黒さんなら何事もなかったかのように引き下がるだろうとも思った。それでも、
「……黒さんの言う通りだよ、何もかも。ぼくにはもう時間がない、だからせめて何かしたいと思ったんだ。実を言うとぼくはね、黒さんみたいな具体的な考えなんてないんだ。守りたいなんて、何となく思いついただけで。もちろん面倒を見てくれてる
黒さんになら言ってもいいと思えた。どうせ意味がないと、今までずっと他言しなかったのに、いざ吐き出してしまえば胸のつかえが下りたような気がした。
黒さんはずっと神妙な顔のまま、黙って聞いていた。そしてふと目線んを背けた。見事な気遣いだった。その姿が滲んで見えた時になってようやく、ぼくは自分が涙を流しているのに気付いた。
どうして泣いてるんだろ。悲しいから? よく分からない。
「……小百合様、わたくしは貴方に謝らなければなりません」
喉の奥が熱くて返事もできないぼくを見つめ、黒さんが眉間に皺を寄せて続ける。
「わたくしは貴方の病名を知っていたわけではありません、ただカマをかけただけなのです。その代わり、別の病気を存じ上げています。今日はそれをお伝えするために、このような機会を作らせて頂きました」
そうして完全にぼくの方に向き直り、真正面から臆する事なく告げる。
「――百舌小百合様、貴方は心因性結晶型健忘症を発症されていますわ」
もう、何も分からなかった。何一つ、分かりたくなかった。嘘だ、と叫びたかった。なのに黒真珠のような瞳はぼくを射止め、その視線が刃となって突き刺さる。
「残念ながら、既に記憶粒子の漏洩が始まっています。もはや歯止めが効かない状態でございま」
「嫌だ!!」
その病気は発症したら最後、必ず死ぬ。生き残った話なんて聞いた事がない難病で、治療法はない。それをぼくが?
気付けば両手を握りしめ、行き場を失くした叫びが口から迸っていた。一瞬だけ蝉の声が掻き消えた。日差しはぼくの気持ちなんて知らずに鋭い光を教室に投げかけている。
どうして。何で。ぼくはまだ何もしてないのに、何もできてないのに。まだ何者にもなれてないのに、このまま死ぬしかない? そんなの、
「いやだよ…………」
情けないくらい弱々しい声が零れた。喉がひりつくように熱く、歯がかちかちと鳴る。血が出るかと思うくらい強く唇を噛んで、嗚咽が漏れるのを堪える。いつもこんな簡単に泣かないのに。
すん、鼻を啜る音が小さくも響く。
「生きたいですか」
雲が流れ、空が晴れた。露わになった瞳の奥にあったのは、黒に瞬く一点の光。
「何一つ為せず、何者にもなれず、唯一の願いも叶えられない。その意思を果たせないまま死ぬのは、さぞかしお辛いでしょう。だからこそ、」
夏雲は陰影を作り、日向のぼくと日陰の黒さんが真正面から見つめ合う。白髪の上を陽光が滑り、黒髪は薄暗い教室と同化するように日陰に溶け込む。
差し出されたその掌がどんな意味を持つのか、ぼくには分からない。彼方と此方を分かつ境界線上に晒された掌は明暗にくっきりと分かれ、一度その手を取ってしまえばもう、後戻りできないような気さえする。それでも。
「歴史に、何より記憶に刻むのです。自らの名を、姿を、存在を。狂奔さを持ってして、意思の名の元に果たすのです。そうして、果てましょう。それはきっと、小百合様を本来在るべき場所に到達せしめるでしょう」
本来在るべき場所。とても聞こえの良い、琴線に触れる言葉。
袖で目元をごしごしと拭い、瞬きをすれば霞んだ視界が鮮明になった。それは考え抜いた末の決断だったと思う。
「ぼくは、何をすればいいの?」
そう言った瞬間――微笑。黒さんは、嗤う。
「瑞穂を救うのです。戦争を終結させ、然る後に荒廃するであろうこの国を立て直す。それからは、人々の生活を守る任務に就きます。ご心配なさらずに。貴方の好きなものを壊そうとする輩を討ち倒すだけの、ごくありふれた普通のお仕事ですから」
喉の奥が苦しくて吐息が熱く、拭ったのにまた頬を伝う雫が床に落ちていく。
「間に合うかな。ぼく、最後までやりきれるかな。黒さんの言うその場所に着けるまで、生きられるかな」
返ってきたのは、無言の首肯。
「貴方はこれから永遠に生き続けるのです。たとえ肉体が滅んでも人々の記憶の中で、塔京の礎となっていつまでも。ついぞ果てるその時が来たとしても、わたくしもご一緒しますわ」
花の咲くような微笑だった。だから。
ぼくはその手を取った。
夏休みの始まりの、蝉が鳴く白昼だった。
この日、百舌小百合は死んだ。
そして、識別名【
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