空に墜ちる
小稲荷一照
重力は星の愛
今日も、いつもと何も変わらない、何も新しいことのない平凡な一日。
……そうなるはずだった。
たしかに今日、学校で放課後にふられた。
それだって、幸せな未来が代わりに平凡な未来になるだけのはずだった。
いや、まだ無難な着地点はあるはずだ。
無難な着地点。
そうそれが重要だ。
そう思いながら、既にその分水嶺は超えていることは認識しつつ、実際に地球が青かったことを確認している自分はダレだったかを思い出すのにしばらく時間がかかった。
叔父が言ったことは本当に掛け値なしに本当だった。
疑ったことは間違いなくマチガイだった。
疑いようもなく、疑う前にマチガイだと理解するべきだった。
叔父は気が狂っているという風に思ったことも幾度かあったが、これで間違いなく気が狂っていることが確認できた。
メデタシ、めでたし。
切っ掛けになった叔父の言葉を思い出してみる。
「反重力ってアバンギャルドっていうか、アナーキーな響きがあるよね。
横書きにすると反動ってカンジだしさ」
あんちぐらびてぃと縦に流れるような平仮名でメモ書きしてまでみせて、叔父が紅茶をすすりながら言った。
その段階で嫌な予感はしていた。
「うん。実はさ、作ってみたんだ。
この間、川の脇のあの黒い建物の上の金色のウンコ、アレ見ててティンとくるものがあったんだ。
あんなのに意味が有るか無いかは、重力並にどうでもいいことなんだって。
つまりは重力というのは背景次元から溢れ出した、どうしようもない実相世界の素粒子たちの愛の吹き溜まりなんだということさ」
愛なんて、学校で告白をして交際の申し出を断られたばかりの人間に向かっていう言葉なのか。
そんなようなことを言った瞬間に叔父の目が輝いたことを思い出せる。
どんな言い方だったかは、自分の脳味噌の中から削除されていたけれども。
アレはまさにNGワードだった。
「愛が足りない。
そう、それこそが反重力を体験するにふさわしい状態だ。
私のような超絶的に愛に満ちた人間では、その愛の井戸から逃げ出すことは困難だ。
今日ココで愛が足りなかった自分を喜びたまえ」
有無を言わさず叔父は自慢のスバル三六〇に押し込むと、テレスコピックに改造されたステアリングハンドルの操作をレクチャーしだした。
ヨーとかロールとかピッチとか回転軸の話をしているトコロをみると飛行機みたいな三次元運動をするらしい。
こうなったらコッチがオトナになるかと、付き合って次にとうとう主電源の接続がおこなわれることになった。
「危ないから、シートベルトを締めて、窓を閉めなさい」
叔父がそういった言葉も、せいぜい自動車に乗るときの基本的な手順という認識でいた。
スバル三六〇に五点式のシートベルトなんてありえないわけだが、きっと凄いエンジンを載せているんだろう程度に思っていた。
たしかに凄いエンジンだった。
ウルサイなぁと思っていた甲高いハム音を響かせる黒いスバル三六〇は、ふわりと浮き上がった。
ラピュタはほんとにあったんだ~。
と言っている間に視界が流れる速度が増してきて、すぐに楽しいと言えるような視界の速度ではなくなって、あっという間に暗い夜の世界に突入した。
スゲエ。と思ったのもさておき、窓の下には青い光。煌々と光輝を放つのは太陽だろう。正面には恐ろしくくっきりとした陰影の満月が見える。
確かにあの青い水玉には愛が満ちている。
サイドミラーから見切れたままでも感じられる。
うん。
愛の何たるかを感じるに良いアトラクションだった。
そう思いながら、帰り道に乗るためにハンドルを操作する。
小さなクラシックカーの皮を被った最新鋭輸送機はくるりと姿勢を代えた。
簡単じゃないか。
目の前には巨大な水玉。
進路転換良し。
目標地球。
ヨーソロー。
機関一杯。
全速前進!
ハンドルはテレスコでピッチ、回してロール。ペダルでヨー。三軸の回転だった。
ちなみにペダルは真ん中にブレーキがある
すると、前進はどうやるんだ?
アクセルではない。
Dで前進、Rでバックかと思うんだが。
スバル三六〇はオートマシフトではありません。
コラムシフトなんだよね。
ミッションはニュートラルに入っているらしく、前後にかなり動く。
シフトのそばに二つ大きめのスイッチがついているが、怖くてそれを操作する気にはなれない。
突然エアコンが止まったりしたら死んでしまう。
ブレーキを踏んでみるとドコかが開くような音がするが、地球からはジリジリ遠ざかっていくようにみえる。
辺りをと見回すと後ろのエンジンボンネットがペダルに合わせて開閉している。
エアブレーキか!
宇宙ではエアブレーキは何の意味もありません。
直感レベルでは帰り方が分かった。
スイッチを切って重力加速度で落下して雲が見えた高度でエアブレーキで減速しつつ、海面なり砂漠なりの死ななそうなところに落下しろ、ということか。
往きの振動も衝撃もないスムーズな飛行になぜ五点シートベルトかと思ったが、還りの乱暴な行程のために予め用意されていた。
恐るべし、孔明の罠!
映画ライトスタッフでジェミニ計画の飛行士達がどんな表情をしていたか。
振動と異音と熱に怯えて、地球の手荒い抱擁に耐えていた。
あんなものに載せられたら、たぶん漏らす。
アレから既に五十年近く。
技術は進んだと考えてもいい。
材料も発展した。このスバルの皮だってとんでもなく軽いのをよく知っている。
叔父が手ずから作った真空焼き窯でできた炭素素材のモノコックボディか、その改良版だろう。
いやぁ。
そうなんだろうが。
なんか
マシ
な
方法が
ない
だろうか。
と思いながら、運転や命には関係なさそうなところを弄ってみるコトにする。
エアコンにカーナビ完備かぁ。
とうぜん原型にはこんなモノはついていない。
考えるもバカバカしいGTカー以上の魔改造をされているスバル三六〇はこの小さな車体で宇宙空間を相手にどうやって空調をしているんだろう。
カーナビをつけてみると当然のようにとんでもないところを表示が示していた。
今、インド洋の辺りを走っているらしい。
さらにテレビのモードにして自動走査にさせていると声が入った。叔父の声だ。
「おーい。聞こえているか~。うーん。ダメかなぁ。先にラジオのスイッチ入れさせればよかったなぁ。
あんまり遠くから落ちてくると操縦も回収も大変なんだが」
画面をみると「帰り方マニュアル」という表示がある。
「次」と書かれたところに指を当てると画面が変わった。
あ、気がついたらしい。よかった。よかった。
ラジオから叔父の声が聞こえる。
「これ今、音声双方向じゃないから。ってかブルートゥースのハンズフリー使うこと考えてたから、マイク積まなかったんだ。
持ってたら使ってね」
という明るい叔父の声も宇宙と地球を見ながらでは虚しい。
「今きみの乗ったソレは毎秒だいたい十五キロくらいで火星軌道方向に落っこちています。
速度そのものはそのうち落ちてくるけれど、返ってくるまでの時間がどんどん長くなるから早く帰還手順を踏んだ方がいい。
酸素は余裕あるんだけれど、二酸化炭素の吸着剤が三時間くらいしかもたないから、一日中いるとたぶん二日酔いみたいに気持ち悪くなると思う。
帰り方は簡単でカーナビに落下したい地点を入力して、あとはその指示にしたがって姿勢を変えるだけ。レースゲームと一緒だ。
地球も大気も結構いいペースで動いているから極地に降りたいとか思わなければ、割合どこでも平気だから。
ちなみにオススメポイントは外房かな。
少しくらいズレても上陸適地が多いし、漁船も結構出ているから困ったら助けてもらうといい」
言われた通り、カーナビを九十九里浜のそばの海面に設定する。
ぽーん。
「これよりルート案内をいたします。
反重力装置のスイッチを切ってください。電源をOFFにはしないでください」
キーの絵が出てONからACCにする。もうひとつ隣にOFFのきざみがあるようだが、OFFにはしないでください。と言われたので慎重にキーを回す。
「約八分ほどお待ちください。降着予定時刻は十七時五十八分頃です」
最初の三分は退屈だった。
途中は興奮だった。
大気圏に入ります。
とアナウンスがあったときはかなり不安だった。
頭の上に青い地球が文字通りに落ちてきている光景をやけに見通しのいい乗用車の窓越しに見ているからだ。
直径一万キロの青い球体が音も立てずに、夜を削って降ってくるのはひどく恐ろしい。
思わずハンドル操作で移動させたかったが、スイッチがACCではハンドルもペダルも利かないらしい。
ブレーキだけは独立しているらしく、ぱくんばくん、と音をたてる。
だが、そんなのは序の口だった。
「大気上層に接触しました。姿勢を変更してください」
というアナウンスが入り、スイッチをONにするように指示が出て、姿勢を変えろと表示が出ている。
親切にハンドルとペダル量について指示があった。
それなら最初に姿勢を指示しろと思いながら、操作をするとピタリと合わせるのは意外と難しい。
「スイッチをACCにしてください」
と言われるのをみると降着予定時刻がまた少しずれていた。
どうやら、スイッチがONの間は律儀に上昇をするらしい。
いつの間にか夜の部分に入り込んでいた。
姿勢を変更するときは迅速におこなわないと、操作が増えて面倒がいっぱいになるらしい。
カーナビの行程軌跡をみるとクルマは西に向かって放り上げられて、東から降下しているらしい。
房総沖というのはそういうことか。
納得いった。
しかし、怖い。
改めて、大気圏上層に侵入しました、というアナウンスを受けてから、窓の外に色々なものが光ってみえる。
最初は流星だろうと思っていた。
マチガイではなかった。
車体が揺れる度にその流星が増えたり減ったりしていることに気がついたからだ。
最初は小さなライターの火花のような感じだった。
そのうち車体を叩く音が増えたと思ったら、窓の外が赤く燃え出した。
最初はボコボコと車体を叩く感じだったものが、ミキサージューサーに固いものを押し込んだ時のああいう嫌な感じの音になった。
恐怖に我慢が出来なくなったところで姿勢変更の指示が出た。
スイッチを入れると恐怖を掻き立てていた外の音が力強いハム音に変わった。
姿勢を変えてスイッチを切ると外は静かになっていた。
ちょっと待て。
と思うと、再びバーナーで窓の外が焼かれ、ジェットの脇で立たされているような、軍飛行場の離陸コース直下のおウチの屋根に寝ているような不安な気分。
恐怖にブレーキを踏む。
踏んだ瞬間にバーナーの炎が窓を向いた。
熱い。
熱い。
触れていないのに目が熱い気がする。
いや、実際に赤外線が顔を焼いている。
「大気上層では危険ですのでブレーキは踏まないでください」
アナウンスが入って改めて姿勢変更の指示が出た。
言われるまでもなく、スイッチを入れて姿勢を変える。
なにもするな。
そういうことらしい。
生温くなったサイドウインドウを撫でて、ようやく事態を受け入れることができた。
仕方がないので、メリーさんの羊をくり返し歌いながら目を瞑り、振動と顔をほてらせる窓の外の光景を無視することにする。
だんだんスピードの上がるメリーさんの羊を二十回ほど繰り返した頃、外の轟音が止み振動にかわり、紫色というよりは群青か藍に近いよく知っている空の色に変わっていた。
カーナビをみると大西洋そろそろフロリダという辺りだった。
ブレーキ操作とハンドルペダルで微妙な方向変換をおこないながら、どのくらいの速度で飛んでいるのか、墜ちているのかは気にしないようにしながら、操作をする。
実際のところカーナビの表示によれば音速の三倍かもう少しで落っこち、スイッチを入れるとそこからすさまじい勢いで加速して、戻すと強烈な音を立てて減速してということを繰り返しているので、今どのくらいの速度というのはあまり意味がないように感じる。
と、思っていたら、目の前から掠めるような勢いで戦闘機が飛んできて、すれ違った。というか追い越したと思う。
コッチは圧倒的な速度で飛んでいるのが、間違いない。
遠くに三角形のものが二つ見えたと思ったら、あっという間に足元に見えなくなった。
「スイッチをONにしてください」
アナウンスに手を伸ばしてミラーに目をやると、バックミラーに電柱のようなものが見え、スイッチを入れまた少し高度を稼ぐと、消えた。
「スイッチをACCにしてください」
なんだか運が良かったのかどうなのか、だんだん麻痺してきた。
そうこうしている間に太平洋に抜けていた。
到着予定時刻は一九時を回っていた。
操作が不適切であることを責められているような気もするが、なんだかそれも腹立たしい。
何度か危機は迎えたが、試練を耐え切った。
宇宙飛行士のオムツに関するジョークを幾つか聞いたことがある。
耐え切った。
ハワイの南を過ぎ、地図の上の方にカムチャッカ半島が見えてきたときに勝利を確信した。
遠くにまだ見えない街の光を確信したときに、地図の上とはいえ帰還を実感した。
だから、素直にナビの指示には従うことにした。
少なくともあの怖かった大気圏突入も何のことはない問題なかったわけだ。
進行方向に対して背を向けてやや下を向く少し左に傾いた姿勢も少しばかり疑問だが、なにか意味があるんだろうと思ってカーナビをみると夜の雲が向うに流れていった。
ようやく見方がわかるようになってきたインパネの中の計器は高度計と速度計と水平儀であるようだ。
なにを基準にしているのかよく分からないが、音速かそこらで今は成層圏から落下しているという風に読める。
電源スイッチを入れるとどういうわけか西の方に加速されるらしい。
そんなことを考えているとフロントウィンドウの向うが夜の雲に覆われ、ミラーの中に紫色の黄昏の雲が流れていた。
綺麗だ。と思う。
軽く惚けた数分後に水面が近づいてきた。
「着陸姿勢をとってください」
ぽーん。という軽い電子音と共にアナウンスが入り、画面ではヘッドレストの脇のハンドルを掴んだ姿勢の絵が表示された。
絵の中でハンドルを掴んだまま肘を羽ばたくように動かして、脇を締めてください。と注意書きが出る。
ブレーキは使うつもりがないらしい。
なにがおこなわれるのか、直感が知らせた。
海面にこのまま落下するつもりなのか!
海面がみるみる迫り、バンという音がする。
ベルトが色々なところに食い込んだ。
生きている。
奇妙な浮遊感と高速回転があった。
もういっかい衝撃。続いて浮遊感。
もういっかい。
もういっかい。
もういいかい。
もういっかい。
もういいかい。
モウイッカイ。
モウイイカイ。
モウイイカイ。
何分か、完全に失神していた。
「目標地点近辺に到着いたしました。お疲れさまでした」
電子音に起こされ、辺りを見渡すと砂浜だった。
車というか宇宙船というかそういうチョー未来的な先進的な乗り物は九十九里の浜辺に乗り上げていた。
なにがあったのか最後はよく分からなかった。
この機械がどれくらい重たいものかは知らないが、陸地に押したり引いたりして引き揚げないですんだことは、素直に感謝に値した。
ただ股間が生暖かかったのが残念な感じだった。
近くに見えた公衆便所でパンツとズボンを濯いで靴下を雑巾替わりにシートを拭いて、ひどく重たい手回しの窓を開けて休んでいた。
カーナビというかラジオから地元のFMラジオ局から音楽が流れている。
海岸線にフォックストロットはステキだ。
できれば晴れた昼間だったらなお良かった。
あー。運転免許とらなくちゃだなぁ。
クルマはまだとれないから、とりあえず二輪。
ふと気がついた。
このクルマにはハンドブレーキが二本ついている。
いや、左膝の辺りに伸びているのはハンドブレーキだ。間違いない。
じゃぁ。右膝辺りのこれはなんだ。
「飛ぶ/走る/泳ぐ」と下手な文字の刻印で書いているようにみえる。
今は「飛ぶ」にあっているようにみえる。
む?
クルマのキーは明かりが欲しかったのでACCになっている。
なんだか分からないが、危険な香りがする。
だが、
いまさら
だ。
ろ?
なにが起こってもいいように靴も靴下もまだ濡れているズボンも車内に取り込んでおく。
用心のためにシートベルトを締める。
怖いのでペダルからは足を離しておく。
本当はハンドルからも離れておきたいが、それはこの位置では無理だ。
一段引きながら回して「走る」に合わせる。
ハンドルが動いた。
というか、テレスコピックに押し込んでいた分、戻ってきたようだ。ペダルもさっきとは踏みごたえが変わっていた。
一番大きな違いはインパネの中でメーターが回転した。
スイッチを入れてみる。
今度は飛び上がったりはしない。
だが、走れるようでもない。
もう一度キーを回してみる。
奇妙な手応えがある。
さらに回すとイグニッションモーターの唸りと共に車体が軽く前に動く。
ああ、と、ブレーキとクラッチを踏み込んでもう一度挑戦するとエンジンが掛かった。
コラムシフトを一速に入れて、ハンドブレーキを外してクラッチを繋ぐと黒い亀のような小さな車はもそりと砂浜を登りだした。
多少苦労しながら、クルマを舗装路まで誘導すると流石に「泳ぐ」を試してみる気にはなれなかった。
まぁいいや。
帰ろう。
カーナビの住所検索で自宅を示して、自力で帰ることにした。
明らかな無免許運転なんだけど、捕まりそうになったら飛んでいけばいいや。
なんか色々つかれた。
でも、どうにか帰ることは出来そうだ。
こんな話は誰にもできないけれど、おじさんにこれをくれと言ったら、くれるかもしれない。
学校には秘密だけど、まぁいいだろうさ。
いや、その前に、このキーで操作する上下動には大きく苦情を言わなくてはならないだろう。
思いつきで組み込んだにしても最低だ。
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