女神様の言うとおりに

武田修一

序章

 毎日、毎日。

 平凡的な普遍的な日常を繰り返していると、唐突に飽きてくる。変わらない日常、繰り返される業務的な日々、実にくだらないと。

 ベランダで煙草の煙をくゆらせて、想像する。ぼんやりと煙草の煙を見て、突飛な妄想を頭に描く。


 ――――突然、空から隕石が降ってこないか。

 とか。

 ――――突然、世界が終わらないか。

 とか。


 それらを夢想するも、現実でそんなことが起こるわけもなくて、私は相も変わらず、普遍的で平凡的で普通に生活を送っているのだ。”普通”が悪いわけではないが。多少の刺激がほしい、とついつい思ってしまう。

 ただ、最近の流行りのようなサスペンス的なことが起こればいいわけでもなく。たぶんきっと私は現実にそのようなことが降って沸いたなら、嬉しいという感情が出てくるわけでもないだろう。ただうろたえるだけの哀れな男に成り果てるだけだ、きっと。そんなことはわかりきっている。切り抜けるようなスキルが自分にはないし、度胸だってない。

 ただこの繰り返しに飽きているだけで。夢想が現実になることは望んでいないのだ。


「そうなんですか?」


 目の前に突然現れた美しい黒髪を持つ女はそう問うてきた。

 おいおい、ここは二階だぞ。しかも女の立っている場所に、床なんてものは存在してないし。こいつはなんだ?


「そういうのが好きなんだと思ってたのに」


 焦る私を無視して、女は続ける。だらだらと何かを喋り続けているが、それ以降の言葉が私の頭に入ってくることはない。一度眼鏡を外して、拭いて、かけ直すが、目の前の女は変わらず話し続けており、こちらを見ている。

 眼鏡のブリッジをあげて、ピントを合わせてみても、変わらない。これは、現実のようだった。

 ここは、間違いなく私の部屋で、今日はいつもの休みであり、私は煙草を吸っており、意識は完全にあるはずである。でも目の前の美しい女は、べらべらと何かを喋っており、床のない場所に立って――。

 もしかして。

 幽霊か?そうだとするなら下手に見えているような素振りは危険かもしれない。そろりそろりと、窓を開けて、部屋へと戻ろうとする。女は、目の焦点が合っていなかった。私を見ているが、私と目が合うことはない。あれ、私を見ていると言うことは下手に動くと私は殺されてしまうのでは?

 よくよく見れば、手元には刃物が握られている。実に丁寧に研がれた包丁を、握っていた。幽霊のくせに。ああでもなんだか変に現実味があるな。いやだな。

 つぅ、と汗が流れ落ちる。ヤバイ。


「わたしのこと、見えてますよね?」


 女は、ずいと近寄ってくる。美しい顔だ。それになんだかいい香りがするような。……いや。この女は、包丁を握っているのだ。汗が流れる。手に汗がたまる。だめだとわかっていても、距離をとりたくなる。下がった分だけ女は近づく。

 待ってくれ、まだ私は死にたくない。どうすれば、どうすれば、この場を脱せるのだ。どうすれば、どうすれば。

 ――――女は焦点の合わぬ目で私を見つめながら、ゆるりと笑って、


「ねえ、この世界退屈なんでしょう?……だから死んで、他の世界に行っていいですよ」


 意味のわからない言葉を吐いたと思ったら、刃が肉に食い込んでいく不快な感触が伝わって、腹部が焼けるように熱くなるのがわかった。立っているのが、力を入れているのが難しくて、ズルズルと倒れていく。女は笑いながら、包丁を引き抜いて、振り下ろす。何度も、何度も。やめてくれ、そんなに刺したら死んでしまう。


「やめてくれ……」

「…………」


 女は笑いながら、何も聞いてないフリをする。絶対に私の声は届いているはずなのに。ああ、熱くて痛かったのが、薄らいでいく。だんだんと寒くなって、それと同じように痛みがわからなくなっていく。自分の手が赤くて、周りも赤くなっていく。そんな、いやだ、いやだ。

 命が終わるのがわかる。わかりたくないというのに、だ。


「まだ、しにたくない」

「そう」


 女は、私の言葉に対して、実にそっけなく短く返す。

 どうして私なのか。私が何をしたというんだ。


「許してあげる」


 何を?

 私はだんだんと冷えて、ただの肉の塊に成り果てようとしていた。意識はそこで終わっている。女の小さく控えめな笑い声が六畳の部屋を埋めていた。

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