1-5

 そんな風に打ち解けた始めた頃、遂に博美があの件を持ち出した。これを避けて通るわけにはいかない。この話をしたくて、わざわざここまでやって来たのだから。

 「闘犬は昔からやられてるんですか?」

 遂に来たか。由美子も内心、覚悟を決めていたようだ。博美と話をしている間に、その決意を固めたのかもしれない。先ほどの様な躊躇いを見せることも無く、今度は毅然とした雰囲気を纏ったまま答える。

 「えぇ、もうかれこれ20年くらいかしら?」

 「・・・・・・」

 「・・・・・・」

 「大丸君は闘犬には向いていないと、私には思えます」

 またしても沈黙が辺りを満たした。その重苦しい空気が耐えられなくなったのか、一実がそっと席を立ち、静かに事務所を後にした。

 「えぇ、私もそう思ってるんだけど・・・ 主人がどうしてもって・・・」

 「丸男さんは闘犬が好きなんですね?」

 「いえ、決してそんなことは無いのよ・・・ ただ・・・」

 「ただ?」

 「大内は、もう自分には闘犬しか無いと・・・」

 「どういう意味でしょうか、『闘犬しか無い』とは?」

 「ごめんなさい。そうとしか言えないの。本当にごめんなさい」

 「いえ、奥様に謝って頂くようなことは何も・・・」

 「ごめんなさい・・・」

 俯く由美子を、博美は黙って見つめることしか出来なかった。


 大内土木工業の玄関を出ると、上がり始めた気温によって氷柱からポタリポタリと水滴が落ちていた。博美は雫のカーテンを一気に通過しようとピョンと跳んだが、着地地点も雪に覆われていることをすっかり忘れていた。思わずツルリンと滑った左足に引っ張られるように、博美のお尻は地面に向かって降下を始めたが、その破滅的なバランス消失をいち早く感じ取った博美の三半規管は、直ぐさま脳に指令を送った。このままではみっともなく尻餅をつくことになると。自身の危機を察知した脳は、間髪入れず右脚に指令を送り、態勢の立て直しという困難な命令を下した。

 「はぁーーーーっ!」

 その結果、ギリギリのところで尻餅を回避した博美は、ロシアのコサックダンスの静止画のような態勢で踏み止まることに成功したのだ。

 「ふぬぅぅぅぅーーーー・・・ ぬぬぬ・・・」

 博美の鼻からは不気味な音と共に鼻息が漏れ、併せて紅潮した顔がプルプルと震えた。なんとか・・・ なんとかしてこの体勢から身体を立て直さねば。博美は全身の筋肉に力を込めて、少しずつ身体のバランスを安全サイドに移動させようと重心移動を開始した。しかし、少しでも気を抜けば、この体勢からでもスッテンコロリンとなってしまいそうだ。決して油断はできない。ジリジリと右脚の位置を動かし始めた時、遠くで大丸号が吼えた。

 『バウッ!』

 その声よって、張りつめていた緊張の糸が切れ、博美は大の字になってひっくり返った。

 「でしょうね」

 博美は真っ青に透き通る冬の空を見上げながら、そう呟いた。日本海側の冬には似つかわしくない程の快晴だ。「まっ、いいっか。きれいな空も見えたし」そう独り言を言って起き上がり、お尻に付いた雪をパンパンと叩いた。そして何事も無かったかのように駐車場の車に向かって歩いてゆくと、奥の檻の中に大丸号の姿が無いことに気が付いた。

 『あれ・・・? さっき聞こえたのは・・・?』

 運転席のドアを開けて乗り込んで、間髪入れずに院長に聞く。

 『ねぇ、大丸君が居ないんだけど』

 『大丸? あのヘタレの闘犬か? 奴ならさっき、散歩に出かけたぞ』

 『そう・・・ 息子さんが奥にいらっしゃったのかしら?』帰る前に少し話をしたいと思っていたのだが・・・ 由美子の言う、もう闘犬しか無いとはどういう意味なのか。

 『息子? いやいや、若い女の人が連れて行ったぞ。お前よりも、もっと若くて綺麗な人だ。どうせ飼われるならお前にではなく、ああいう美人に飼われたいものだが・・・』

 『うるさいなぁ。それって一実さんかしら? 昼の散歩は息子さんが連れて行くんだって、由美子さんが言ってたんだけどなぁ・・・』

 博美と院長がそんな会話を交わしていると、道路へと通じる駐車場の角を曲がって大丸号が顔を出した。博美が「あら?」と思っていると、雪山の陰からそのリードを掴む手が現れ、続いて一実が姿を現した。可愛らしい赤のダッフルコートとモカモカの耳当て、オレンジ色のミトンがキュートだ。

 「あれ、一実さんじゃん」博美はそう独り言を漏らすと、運転席のドアを開けて外に出た。

 「一実さーん!」左手を口元に当て、大きく右手を振る博美。

 「あら、博美さん。今お帰りですか?」それを見つけた一実の表情も、パッと明るくなった。

 『お姉ちゃん!』

 大丸号は例によって『バウ』と吠えた。やはり、先ほど聞こえたのは大丸号の声だったのだ。

 「えぇ、丁度。一実さんが大丸君のお散歩に行ってたの? 昼の散歩は息子さんの仕事だって、由美子さんが言ってたのに」

 そう言って博美は大丸号の前にしゃがみ込み、その大きな顔をくしゃくしゃにして撫でてやった。すると大丸号は嬉しくなって、その場でピョンピョンと跳ねた。その動きを抑えようと、一実はリードをグィと締め上げる。か弱い女性とは思えぬ、力の籠った動きだ。

 「えぇ、昼は私の担当なんです」

 「へぇ~、そうなんだ? えぇっと・・・ ん? ・・・ん?」

 博美の眼が点になった。車内からその会話を聞いていた院長の眼も点になっていた。二人がアホみたいな顔で一実の顔を見つめて固まっていると、彼女は恥ずかしそうに俯いた。

 「あ、あの・・・ ボク・・・ 男なんです」

 両目を見開いた博美の顎が外れそうになるより先に、院長の顎が外れた。

 「え、えぇ? ちょ、ちょっと待って・・・ 一実さん・・・ 男なの?」

 「はい・・・ そうなんです」

 博美が金魚の様に口をパクパクさせている頃、ダッシュボード上の院長は既に白目を剥いて気を失っていた。その口から何やら白い煙のような物が立ち昇っているのは、超常現象の一種だろうか。

 「アハ・・・ アハハ・・・ ぜ、全っ然気付かなかった。いやぁ~、まいったなぁ。アハハ、全く気付かなかったでござるよ。だって、物凄く女の子っぽくて。ナハ、ナハハ」

 何故か侍言葉である。

 「そんな・・・ 女の子っぽいだなんて。ボクから見れば博美さんの方が、ずっと女らしくて素敵です。羨ましいです」

 「いやいや、私なんて女捨ててるから。世の殿方は全然相手にしてくんないし」

 「そんなこと無いですよー。博美さん、すっごく綺麗で、憧れちゃいます」


 立ち話も何だからということで、大丸号を檻に戻した一実は、博美の車の助手席に座っていた。その膝の上では正気を取り戻した院長が、デレデレと鼻の下を伸ばしながらゴロニャンしている。本当は男であったとしても、やはり美しいものには敵わない。院長はここぞとばかりに甘えん坊モードで、一実が顎の下を撫でてやると、彼は目を細めてゴロゴロと喉を鳴らした。それを苦々しい眼つきで睨み付ける博美は、同性だか異性だか判らない一実の美しさにドギマギしていた。

 「じゃぁ、一実さんがなってから、丸男さんが闘犬にはまり出したってことなのね?」

 「はい。父は強い男が好きなんです。なのにボクがこんなだから・・・ こんな女々しい息子なんて要らない。それが父の考えなんです・・・」

 「そんな・・・」

 そんなことは無いと言おうと思ったが、本当にそんなことは無いのだろうか?

 「そりゃぁ、ボクだって最初は頑張りました。お父さんの期待に応えようと無理して男の子っぽく振舞ったり・・・ でもダメなんです! そうやってると、どんどん心と体が離れて行っちゃって、自分が誰なのか判らなくなっちゃうんです! 心が引き裂かれちゃうんです! ・・・だから、もう今は無理をしないで、こんな風に好きな格好をして・・・」

 「それで今は、少しは落ち着いてるってことか・・・」

 「はい。母もその方がいいって言ってくれて」

 先ほど、由美子と話し込んでいる時の躊躇の意味が、やっと判った。ありのままの息子を受け入れる気持ちは有っても、まだ心の理解が追い付かないといったところだろうか。

 「ボクには判るんです。もう父は、ボクと口を利くことも無いし、目を見ることもしない・・・ 父にとって大切なのは、もう大丸号だけなんです」

 他人の家庭の事情など、外から判るはずなど無いではないか。なのに勝手な思い込みだか何だかで、いい加減な慰めの言葉を掛けてやることが、どうしても博美には出来なかった。

 「丸男さんがそんな風に思ってるのかどうかは、私には判らないわ。でも、その代償行動として、大丸君を闘犬に引きずり出すのは違うと思う。それじゃ、誰も幸せになれないよ。今のままじゃ、あなたも丸男さんも、それから大丸君も」

 一実は両手で顔を覆いながら頷いた。

 「私、あなたのことを丸男さんにとやかく言うことは出来ない。だってそれはあなたたち親子の問題だから。でもね、大丸君のことは、ハッキリと言わせてもらうつもりよ。私は大丸君の代弁者なの。だからあなたも勇気を出して。お父さんとしっかり向き合って、思いのたけをぶつけてみたらどうかしら? 話せば判って貰えるなんて、無責任なことを言うつもりは無いわ。ひょっとしたら判って貰えないかもしれないのは事実。でも話さなきゃ、決して判って貰えない。女の子としてのあなたの代弁者は、あなたしかいないのよ。でしょ?」

 一実は膝の上で拳を握り締めながら、「うん、うん」と頷いた。頬を伝う涙がポタリポタリと拳の上に落ちた。その涙にぬれた拳を院長のザラザラした舌が舐めると、一実は思わずクスリと笑った。泣き笑いだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る