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車のステアリングを握りながら、博美はその前を通り過ぎた。外壁に褐色のタイルを用いたそれは、道路に面した一階の手前が大きなガラスで仕切られており、道行く車からでもその内部が見通せる。そのガラス窓の上には白い看板が掲げられ、『(有)大内土木工業』の文字が除雪されてコンモリと嵩を増した雪山の上から覗いていた。事務机が並ぶその事務所には20歳台と思しき女性事務員が一人、パソコンに向かって忙しなくキーボードを操作しているのが窺える。事務所の脇は広めの駐車スペースとなっており、今は作業車が出払っているのだろう、閑散としていた。そのさらに奥には大きな檻のような物が見え、そこに大丸号が居た。駐車スペース脇の花壇に花の球根でも植えているのか、初老の女性が雪を掻き分けてショベルでせっせと土を掘り返している風情は、この地の冬ももうそろそろ終わろうとしていることを告げているようだ。大丸号は遊んで欲しそうに、その女性に向かって「バウ」と野太い声を上げている。一泊入院の後、退院した大丸号の様子をコッソリ見に来た博美であったが、それは絵に描いたような脇見運転であった。
『危ないから前を見ろ、博美』
ダッシュボードの上で日向ぼっこよろしく寝転がっている院長の声だ。
『判ってるって。大丈夫だから』
『大丈夫ではない。お前は今、反対車線を走ってるぞ』
『えっ? きゃぁっ!!!』
右側車線上で急ブレーキを踏んだ博美は、正面から近付いて来る車に景気良くクラクションを鳴らされてしまった。博美はペコペコと頭を下げながら、申し訳なさそうに左車線に戻る。最近のタイヤは雪道でもしっかりと停まってくれるのは有難い。
『ちょっと! 早く言いなさいよ、危ないじゃないのっ!』
自分のことを棚に上げて、危ないもクソも無いもんである。文句を垂れる博美を無視して、院長はダッシュボードの上で欠伸をした。
花壇の手入れをしていた女性は、先ほどの盛大なクラクションに驚いた様子で腰を伸ばし、こちらを覗き込んでいる。その女性と図らずも目が合ってしまった博美は再び頭を下げると、歩道に残る残雪を踏みつけながらオズオズとその駐車場に車を入れた。ウトウトし始めた院長に『ちょっと待ってて』と言い残し、車から降りた博美に最初に反応したのは大丸号だった。
『あっ! お姉ちゃん! 遊びに来たのっ!?』
まだまだ寒いこの季節だが、彼はいたって元気のようだ。博美は大丸号に向かってニコリと笑うと、花壇の前の女性に向かってもう一度頭を下げた。
「こんにちは」
博美がそう言うと、女性も微笑みながら頭を下げた。
「こんにちは」
大丸号は檻の中で、まだハッスルしている。
『ねぇねぇ、お姉ちゃん! こっちに来てよ!』
「私、ひまわり高原どうぶつクリニックの・・・」
「あっ、獣医の先生ね? ウチの大ちゃんがお世話になりました」
「いえいえ、とんでもございません。その後、大丸君がどんな様子か見に来ました」
「これはこれは、わざわざすみません。こんな野良仕事の格好でお恥ずかしいわ・・・ ここじゃ寒いですから、事務所の方に回って下さい。今すぐ参りますので」
「あっ、どうぞお構いなく」
「まぁ、そんなこと仰らずに、是非ごゆっくりしていって下さいな。お願いします」
年嵩の女性にそこまで言われたら、固辞するわけにもいくまい。色々聞きたいことも有るので、博美はその勧めを承諾した。
「それではお言葉に甘えて・・・」
「じゃぁ、表から入って待ってて下さいな。私、手を洗ったりしてから参りますので」
『大内土木工業』の看板下の入り口から入ると、先ほどの女性事務員が顔を上げた。そして要件を聞こうと口を開き掛けた時、裏手から先ほどの初老の女性の声が響いた。
「カッちゃん、お客様にお茶を出して。ソファでお待ち頂いて」
女性事務員は奥に向かって「はぁ~い」と返事をすると博美に向き直ってニコリと笑い、事務所横に併設されている流しに向かった。
「どうぞ、そちらに掛けてお待ち下さい」
女性事務員は給湯エリアから振り返りながら声を掛けた。博美は「有難うございます」と言ってコートを脱ぎ、透明なビニールでカバーされた、スプリングがギシギシいう安物のソファに腰かけた。
お茶が出てくるまでの間、手持ち無沙汰で周りを眺めまわすと、土建関係のポスターやら何やらに紛れて、男性と子犬の写真が目に入った。その写真は、丸男と大丸号のものだろうか? いや、写真の古びた感じといい、丸男の若々しさから察するに、大丸号の前の犬との写真かもしれない。他にも犬との写真が幾つか額縁に入れられていたが、どれも土佐犬ばかりで、丸男は根っからの土佐犬好きの様だ。比較的新しそうな写真には、太い綱を首に巻いた横綱風の写真も有り、それはきっと闘犬の東北大会で準優勝した時の大丸号であろう。
「お待たせして申し訳ありません」
野良仕事用の前掛けと袖カバーを外した姿で、タオルで手を拭きながら女性が現れた。この上品そうな女性が、あの丸男の妻なのだろうか? どうしても解せない博美は相手が椅子に着く前に、あえて自己紹介から始めた。
「改めてご挨拶させて頂きます。私、ひまわり高原どうぶつクリニックで獣医をしております石井博美と申します。突然押し掛けてしまって申し訳ありません」
ソファから立ち上がった博美が深くお辞儀をすると、その女性も立ち止まり、若干姿勢を正しながら返した。
「私、大内の家内で由美子と申します。主人がいつもお世話になっております」
由美子が頭を下げると、先ほどの女性事務員がお盆にお茶とお茶菓子を載せて戻ってきた。由美子は彼女の方を指し示しながら、「それから、これは・・・」
女性事務員は、由美子の声を遮るように言った。
「大内一実です。いつも大ちゃんがお世話になっております」
ピョコンと頭を下げる一実に合せ、博美もピョコンとお辞儀をした。とても丸男の娘とは思えない、清楚な感じの女性だ。多分、博美よりも三つ四つ年下だろう。サラリとした感触のブラウスの裾が、キュッと引き締まったウェストに絡み付くタイトなスカートの中に収まり、ファッショナブルとは程遠いオフィスウェアに何とも言えない色気をプラスしている。馬鹿な男どもなどイチコロ間違い無しの、セクシーオーラ大放出だ。女としての色香とか物腰の柔らかさとか、博美が学ぶべき点は多そうだ。
「ささ、先生。お座り下さい」
「先生なんておこがましいです。博美と呼んで下さい」
お茶とお茶菓子を置いて一礼すると、一実は机に戻ってまた仕事を再開した。
「あら、そうですか? じゃぁ、博美さんとお呼びしようかしら」
「えぇ、是非」
ソファに向かい合った博美と由美子は、ズズズッとお茶をすすると、何とは無しに壁を見つめた。
「あの写真は丸男さんと大丸君ですか?」
「いえ、あちらの古い写真だけは、先代の大丸号です。それ以外は、今、表に居る大丸号なんです」
「そうですか・・・ ご主人は土佐犬がお好きなんですね?」
「えぇ、とても」
「その後、大丸君はどんな様子ですか?」
「えぇ、退院した直後は元気が良かったんですが・・・ また、主人が例によって・・・」
おそらく丸男が、闘犬の訓練を再開したのだろう。話がいきなり核心に触れそうになって、博美はたじろいだ。もう少し由美子と打ち解けてから、その話題を切り出そうと思っていたからだ。博美はあえて話を逸らした。
「あれだけの大型犬ですと、散歩なんかの世話も大変ですよね?」
由美子も話題が逸れて、チョッと安心したようだ。
「本当に。私なんかでは、とても散歩なんかできませんわ。どっちが散歩させてるんだか判らないくらい。ほほほ」
上品そうに笑う由美子に博美が聞いた。
「じゃぁ、やっぱりご主人が散歩させてるんですか?」
「えぇ、朝と夜は。仕事の前後は主人が連れて行きますの。でもお昼は、息子が・・・」
何故だかそこで、一瞬だけ由美子が言い淀んだ。博美はふと違和感を感じたが、直ぐに由美子が続ける。
「昼は息子が散歩に連れて行きます」
確かに違和感を感じたが・・・ 気のせいだったかな、と博美は思った。昼に散歩に連れてゆくとなると、その息子は学生だろうか? 或いは定職にも付かない引き籠り的な息子で、その恥ずかしさを思い出した由美子の言葉に不協和音的な響きが加わったのかもしれない。だが博美には、そこを掘り下げて聞く理由も無いし、興味も無い。代わりに獣医としてのアドバイスを伝えるに留めておくことにした。
「そうですか。土佐犬は肥満になり易いので、たっぷりと運動させてあげて下さい。ただし体重が重い分、膝や股関節への負担が大きいので決して無理はさせないようにお願いします」
「はい。博美先生」
由美子は悪戯っぽくそう言うと、クスクスと笑った。つられて博美もクスクスと笑った。
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