氷の女王のとかしかた

たれねこ

第1話 ボーイミーツガール in 二日酔い ①

 ふっと意識が覚醒するのを感じる。いつの間にか眠っていたようだ。

 ゆっくり目を開けると、床と散らかっている酒の空き缶に見慣れたテーブルの脚が目に入ってくる。さらに奥には見覚えのある壁と長押なげしに掛けられたスーツや私服。それらを見て、ここが自分の部屋だと確信するが、いつどうやって帰ってきたのか分からない。

 ゆっくり体を起こすと、鈍い頭痛に襲われる。それだけじゃなく、体の中心辺りが嫌に気持ち悪い。さらに硬い床で寝ていたためか体中が痛い。一度深呼吸をしようと、深く息を吸うと、部屋中に充満するアルコールの臭いにむせてしまう。


「二日酔い……なのか」


 薄暗い部屋の中にカーテンの隙間から明るい日差しが差し込む。その光をたよりに痛む頭を押さえながらさっと見渡す。酒の空き缶の山に、少し前に買った少し高い焼酎の空き瓶まで床に転がっている。他にも、つまみにしてたであろうお菓子の袋も散乱していて、惨憺さんたんたる様相が広がる。とりあえず、テーブルの上にあった水割り用に使ったであろう残り半分ほどの水のペットボトルを手に立ち上がり、空気の入れ替えをするためにカーテンを開け、ベランダに続く窓を開ける。

 狭いベランダに出て、再度深呼吸をする。新鮮な空気が美味しい。それだけじゃなく、吹き抜ける風も心地よく感じる。しかし、二日酔いで寝起きの現状では夏本番が始まった七月の太陽が暴力的なまでにまぶしすぎる。

 ベランダの手すりに体を預けながら、持ってきた水を一気に飲み干す。そして、少しずつ正常に回転し始めた頭が痛みの合間に記憶が曖昧だったことを思い出させる。頭を押さえながら、


「記憶って、本当になくなるもんなんだな……」


 そうぼやく様にこぼす。そして、昨日のことを思い出すために記憶をさかのぼる。昨日は三連休の二日目で、バイトもなかったので朝から同じように暇を持て余した大学の友人の川村かわむら市成いちなりと太陽が一番高くなる時間帯から飲んでいた。日が傾き涼しくなるころに居酒屋に場所を移し、さらに飲んだことも覚えている。その後は、市成がバイトしていて、店員割で安くなるカラオケに行ったはずだ。そこでもフリータイムと飲み放題のプランで散々飲んでいた気がする。でも、カラオケに行ったあたりからの記憶がすっぽり抜け落ちている。正確にはその前の居酒屋の記憶も曖昧だ。


「いったいどんだけ飲んだんだよ、俺……」


 そう呟きながらベランダから部屋の中に視線をやる。とりあえずは、あのひどい状況の部屋を掃除しなければならない。そう思うとため息が出てしまう。抜け落ちている記憶は二人にネタにされたり、仮にトラブルだとか起こしていたときには、一緒に飲んだ友人二人に聞けばなんとかなるだろうと楽観気味に考え、据え置くことにした。

 一度大きく息を吐いて、部屋に戻る。空気の入れ替えができたようでかなりアルコールの臭いは薄れていた。しかし、一歩足を踏み入れて違和感に襲われる。さっきまでは寝起きで二日酔いで薄暗い部屋だったため気付けなかったが、色々とおかしいところがある。

 まず、ベッドに膨らみがあるのだ。一人暮らしで彼女いない歴イコール年齢のような自分には連れ込むような相手は酒に酔っていてもいない。おおかた一緒に飲んでいた友人のうちの一人と部屋に帰って飲み直してベッドを貸したのだろうと勝手にこじつけて、うんうんと納得する。

 しかし、その希望的観測は一瞬にして崩れ去る。ベッド脇の床には女性ものと思われるスキニージーンズにブラジャーがまるで脱ぎっぱなしで放置されているかのように落ちている。

 まじまじと初めてみる母親以外の女性もの下着のその質感が妙にリアルでついつい凝視してしまう。

 痛む頭を数度振り、ベッドの布団の中を思い切って確認しようと思い立つ。

 布団の端を握り、おそるおそるといった風にゆっくりとめくるとそこには一人の女性がシャツと下半身は下着のみという姿で寝息を立てていた。そして、夢だと思いたくて見なかったことにして布団を掛け直す。


「えっと……つまりどういうことだ?」


 目の前の状況に混乱しつつも、冷静に考えを巡らそうにも、二日酔いの頭痛に邪魔をされる。

 とりあえず、現状を整理しよう。

 昨日飲み過ぎて途中から記憶がなく、部屋には酒を大量に飲んだ形跡があり、ベッドには女性が半裸で寝ている――。

 そして、その女性には見覚えがあり、そのことがますます混乱の度合いを増す要因になっている。


 その女性は、水見みずみ秋穂あきほ。同じ大学、同じ学部の同級生で一見するととんでもない美人なのだが、どこか人を寄せ付けない雰囲気を発している。誰かと親しく話しているところを見たことがないし、その美貌びぼうに釣られ一人でいる水見さんに声を掛けたはいいものの、無言でひと睨みするだけで追い返したなど、撃沈報告を風の噂で耳にすることも多かった。

 そのクールで取っつきにくいところや美貌から学内では『氷の女王』なんて異名がまことしやかに広まっている。そして、今や、その女王に挑戦する者も横に並ぼうとする存在もほとんどいなくなった。


 しかしながら、相手が顔見知りだと言っても水見さんがなぜここにいるのか分からない。水見さんとは、今まで必修などで同じ講義を受けたことは多々あるが、話したことはなく、接点と言えるものが思い当たらない。水見さんとどういう経緯でこうなっているのか必死に思い出そうとするも記憶はどこか彼方で思い出すきっかけすらないわけだ。

 そもそも酒を飲んで記憶が飛ぶということ自体、初めての経験でそのことに対する恐怖心や戸惑いが渦巻いてくる。二日酔いのせいだけでなく、目が回りそうなほどだ。

 そして、水見さんの半裸の姿を見るに、自分の知らないうちに童貞を失っているのかもしれない。仮にもしそうなら、記憶がないことがもったいないことこの上ない。都合よくそこだけでも思い出したい。

 少し落ち着いてきたので、もう一度布団をゆっくりめくってみる。そこには夢でもなく現実に半裸の水見秋穂がいて、普段自分が使っている布団の上で気持ちよさそうに寝息を立てている。その姿はちょっと興奮する。ノーブラだと知っているので素肌にシャツだけというのはそそるものがあるし、丸出しの下着にすらりと伸びる細長く綺麗な足には生唾を飲み込んでしまう。大人な体つきに反して、寝顔だけは年相応というより幼さを感じ、そのギャップもまたたまらない。

 しかし、ここで手を出すほどの勇気を持ち合わせてはいないので、またしても布団をそっと掛け直す。


「やっぱりスタイルいいし、美人だよなあ……水見さん」


 そう言葉にして、ふと思う。もしかして、今の自分の状況は相当まずいのではないかということだ。水見さんがいるのはもう否定のしようのない紛れもない現実で、通報されでもしたら否定する弁を述べるにも語ることがないうえに状況証拠が揃いすぎている。最悪、逮捕案件でもれなく前科者の仲間入りだ。それも性犯罪者とか最悪すぎる。社会復帰もできないレベルで詰んでいる。


「ああ、クソっ!! まじでどうなってんだよ!!」


 つい大声を上げ、頭をかき乱す。その大声のせいか、「んん……」となまめかしい声を漏らし、水見さんが目を覚まし、上体を起こす。眠気眼ねむけまなこをこすりながら、辺りをゆっくり見まわし、視線が合うと、目を見開き、固まる。次の瞬間、バッと掛け布団で体を隠す。そして、布団の中を覗き込んで自分の姿を確認したのか、顔を真っ赤に染める。

 普段から無表情で心を乱されるようなことがないと思っていた水見さんのそんな普通の女の子のようなリアクションに意外さを感じるよりもどこかほっとしてしまう。そして、ホッとしたと同時に、現状を思い出し、どう言い訳したものかと頭をフル回転させるが頭痛が思考の邪魔をして、何も考えられない。

 しばらくの無言の後、


「あの……小寺くん」


 と、か細い声が聞こえてくる。無言で顔ををそちらに向けると警戒心からか布団を顔の前まで持ち上げる。


「私の服と下着取ってくれない?」

「ああ、えっと……うん。わかった」


 言われるがまま、まずスキニージーンズを渡し、照れながらブラジャーを拾い上げ、水見さんに渡す。そして、少し離れて着替えを見ないように背中を向ける。しばらくすると、衣擦きぬずれの音が聞こえ始める。音だけというのが逆にエロく、先ほど直接見たとはいえ、生殺しにあっているような感覚になる。


「もう、いいよ」


 その声に振り向くと、いつものポーカーフェイスでクールな水見さんがベッド脇に腰かけていた。

 怒っているわけでないことに胸を撫でおろし、なんて声を掛けようかと考える。ここは気さくに「おはよう」と挨拶すべきなのか、「ごめんなさい」と先手を取ってとりあえず謝るべきか。むしろ、「昨晩はお楽しみでしたね」とどうとでも取れそうな意味深発言をぶっこんでみるか。どれも違う気がして、水見さんの出方を待ってみるしかないと受け身の姿勢を選択することにした。

 しかし、水見さんからは何も話しかけられず気まずい沈黙が続いた。先に沈黙に耐え切れなくなって何か話そうと声を掛けることにした。


「あの、水見さん――」

「ごめんなさい。私、帰ります」


 そう言い、足元にあった自分の鞄を手に立ち上がり、水見さんは部屋を飛び出していった。一瞬呆気にとられていたが、扉を開ける音に我に返り、鍵がいつものようにズボンのポケットにあるのを叩いて確認して、急いで後を追うために飛び出した。

 目の前でついさっき閉まった玄関の扉を開け、階段のある方に視線を向けるが水見さんの姿はなかった。不思議に思いながら扉を閉め、鍵を掛けようか、追いかけるだけだから掛けなくてもいいかもしれないと、数瞬すうしゅん考えを巡らしていると隣で鍵を差し込む音が聞こえ、その音の方に振り向くとそこにはなんと水見さんがいた。

 しかし、自分の記憶では隣の部屋は空き部屋だったはずだ。


「あの……水見さん? これはどういう?」


 水見さんは気まずさから目を伏せ、鍵を差し込んだまま指を離す。そして、こちらに向き直り扉を指さし、


「ここ……私の部屋。最近引っ越してきたの」


 と、衝撃の事実を告げられる。思わず言葉を失い、口をパクパクさせるしかできなかった。

 知らないうちに水見さんとお隣さんになっていた――。

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