サイズ
彼女は何かを迷っているらしく言いあぐねていたが、やがて背を伸ばし潮風の匂いを思い切り吸い込んだ。「ふぅ! 気持ちいい。あのね、先生は生真面目過ぎるんです。これまで測ることも研究も、真摯にやってきました。それは素敵な事なんですけれどね。しかもそれで人生が上手く回っていましたし」
「そうでしょうか。小さい頃はだいぶ周りの子に苛められましたよ?」
「ふふ、それは子供の頃の思い出でしょう? 今となっては些細なことです」
「そんな……当時は気にし過ぎないよう思いこませていましたが、結構ふかく傷ついていたんですよ」トラウマを小事扱いされたので、僕は少し腹が立ってきた。けれど訴えはミーに無視されてしまった。
「一途な情熱というのは
海はいま最高に真っ赤な夕陽に照らされ、水面が一色に光り輝いていた。いつの間にか、ミーは眼鏡を外していた。素で見る瞳のレンズが、太陽と同じオレンジ色をしている――そんな彼女の真剣な顔を見ていると、どんどん反論の言葉が吸い取られていく気がした。
他に答えにたどり着けず、僕はいったん
ミーは、夕陽と自らの姿を重ね自嘲的に語る僕をじっと見つめていたが、不意に訊いてきた。「先生。日が沈む時の角度ってご存知ですか?」
「え?」僕は答えに詰まった。ずっとずっと昔に何かの本で読んだかもしれない。ただもう子供の頃の記憶で、手の届く引き出しには置いて無かった。
「答えは太陽の
「けれど、それは終わりでしょうか?」問いかける彼女の表情が逆光で読み取れない。ゆっくりと、ミーは僕を正面に見ながら海の方へと後退りしていく。「先生の目の前から夕陽が消えたあの瞬間、まったく同じ角度で、まったく違う誰かの情熱が燃え上がったかもしれないって、考えられませんか?」陽光がミーの背後からやってきて、頬と顎と細い腕と、胴の隙間とをくぐり抜ける。
僕は言葉を失った。人が生まれながらに持つ柔らかな体の線に沿って、光がミーの輪郭を人型にくり貫いていた。波風にはためく彼女の細い髪は、持ち上がって空に無限の格子を描く。その微細な一本一本までも、光は漏らすことなく丁寧に縁取り、橙色の空に縫いとめていた。
「レイリー先生。黄昏は世界の誰かの夜明けなんです。いまは失った情熱だって、些細なきっかけで戻ってくるかもしれませんよ」ミー・ホワイトはそう言って笑った。
彼女が最後に口にした言葉は、生まれてからこれまでに感じた事の無い速度で、僕の胸に染み入っていった。
地球がまた少し動いた。夕陽の世界が蛍光灯のスイッチを切ったように、ぱっと終わりを告げる。間もなく辺りは夕闇に包まれていった。
「ミー」僕は立ち上がって、彼女に手を伸ばした。
「何ですか、先生?」ミーが戻ってきて、僕の二本の指の先端をつかむ。
「君の言うように、僕にもまた夜明けが……情熱を取り戻す日が来るかもしれません。けれど僕が情熱を取り戻した時、君が誰かに雇われてしまっているという状況は、とても困るんです。だって君は僕の研究にとって、大事で欠かせない存在なんですから。その……それで、なるべくなら……いや絶対に……」そこから先は、しどろもどろだった。「それまで僕の家に通ってもらう事はできませんか?」恥ずかしさで顔を上げられない。「つ、つまり雇い直すという事で……給料はこれまでのようには出せませんけれど……できれば毎日……」
海を背に立っていたミーの表情が、一瞬見えなくなった。彼女は少しだけうつむき、震え、そして――。
「長かったなあ。先生……49.2mmです」
「え?」僕は目を
ミーが顔を上げて優しく笑った。海から来る風に流され、彼女の目尻が濡れて光って見えた。
「先生がなさらなくても良いように、ずっと前に私が測っておきました。私の……薬指のサイズです」
(スケール おわり)
※レイリー散乱 … 光の波長よりも小さいサイズの粒子による光の散乱である。(中略)日中の空が青く見えるのは、レイリー散乱の周波数特性によるものである。レイリー散乱という名は、この現象の説明を試みたレイリー卿にちなんで名付けられた。
(出典:Wikipedia)
※ミー散乱 … 光の波長と同程度の大きさの微粒子による光の散乱。雲や湯気が白く見えるのは、それらを構成する微細な氷晶または水滴の大きさが、可視光線の波長と同程度なため、可視光全体が等しく散乱されることによる。ドイツの物理学者グスタフ=ミーが発見。
(出典:コトバンク)
※世界遺産であるイラクの遺跡「シャフリ・ソフタ」からは、世界で最も古い木製物差しが発見されている。材料は黒檀が使われ、幅は10cm。1.5mmの正確さで物を測る事ができるという。
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