失職



「顔色が真っ青です。こちらでお休みになって下さい」ミーは動けなくなった僕の腕を肩で支え、ソファまで歩くのを手伝ってくれた。


 硬直から開放されたばかりで、体の節々が痛む。立とうとしたが力を入れられず、僕はがっくりと肩を落とした。あの姿勢のまま固まっていのは腕や足だけでなく、精神もだった。夜中眠らなかったせいで、目玉がひりひりと痛んだ。


「助かりました。ありがとう、ミー」僕は目頭を強く押さえて言った。


「確か持病をお持ちではありませんよね? お仕事のし過ぎなんじゃないですか? ここのところ忙しかったから。とにかく無理はしないでください」


 僕はミーに出された飲み物に手をつけながら、昨夜起こった出来事を話し始めた。「夕焼けの光がデスクに伸びてきたんです。毎日のことで、いつもなら特に何も思わないのに、昨日に限って久しぶりに『心から測りたい』って思いました。物差しは手元には無く、ソファに置いてありました。それを拾いに行って、いざ長さを確かめようとした時、ふっと夕陽が消えてしまったんです」コーヒーをすすった。


「それで……その後夜中じゅう原稿が書けなくなったというのですか? 硬直したままで?」


「そうなんです。馬鹿みたいですよね。たいして残念でもないし、些細な出来事だと思っていました。それなのに……」その時の感覚を思い返して身震いした。僕は同じことを繰り返し訴えた。「たまたま長さを測れなかった。事実はそれだけなんですよ? なのにそれ以降、僕の指がキーを押すことを拒絶するんです。脳から出る信号が手にも足にも到達しない――そんな感覚を持ったことはありますか? 若いあなたには特に無いでしょうね。休憩を挟んだ前と後とで、自分が別人に変わってしまったみたいな、恐ろしい体験でした」


 ミーは紅茶を注ぐ手を止めて、僕の震える肩に優しく手を置いた。「今日は一日お休みになってください。そうすれば、またいつものようにお仕事に戻れますから」


 ミーが気休めで慰めてくれたとは思わないし、僕もそれを信じた。


 けれど翌日も翌々日も、僕は仕事に戻ることは出来なかった。心にはまだ数式やデータ、アイデアが残っているのにそれを具体的な姿にしようとすると、途端に体全体がそれを拒否する。


 僕は嫌だと言ったのだけれど、ミーの勧めで病院に行くことになった。専門医にいろいろ尋ねられ正直に答えた。結果は慰めの言葉と2週間分の睡眠薬が渡されただけで、原因は何もわからない。一応正直に薬を飲み眠ってみたが、症状が改善される様子はなかった。


 このままでは僕は失業してしまう。幸い研究に費やされた人生。無駄遣いは少なかったので、余生を稼ぎ無しで生きるだけの蓄えはあった。しかし仕事がなくても脳は動き続ける。僕には人生をどう再設計したら良いのかさっぱり答えを導けなかった。


 さらに雇われの身で無くなるという事は当然、長かったミーと僕の仕事の付き合いが終わる事を意味する。先生と助手という関係が解消され、2人は他人として定義される。僕は何か首周りに原因の分からないむず痒さを感じた。


 そしてその日はあっという間にやって来た。


「長い間、ありがとう」


 ミーは勤務中ずっと使っていた椅子(もはや自分の物と言っても良かった)に腰掛け、物言わず僕の喋りを聞いていた、いや聞いていたかは定かではない。えらく不機嫌そうな彼女の視線は窓の外を通り抜け、ただうつろに海の方を注がれていたから。


「僕にとって、ミーと仕事できた15年間は貴重な財産となりました。そして君は僕の研究の大事なスタッフのひとりです。それでもこんな僻地での勤務は、まだ未来のあるあなたにとって、会社からの命令という鎖でしか無かったのだろうと思います。ようやく僕から解放されて、好きな研究を続けられますね。応援しています」


 一般的には優しくない言い方かもしれないが、僕的にスピーチは完璧だと思った。ミーが目も合わせない理由は、僕を見ると泣いてしまうからだと思っていた。


 餞別にそれだけ言うと、僕はもう彼女を見送った気持ちになっていた。そうして本棚に振り返り、これから使うことがないだろう学術書や資料を整理する作業に取りかかろうとした。



「先生。海を見に行きませんか?」

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