第92話 ─ 悪魔が憐む歌 ─…ある男の独白
酒場を出ると、アマローネに貰った楊枝を鼻に突っ込み、折れた鼻の骨を直す。
その後に、ポケットティッシュを丸めて両鼻に詰めた。
息がし
──くそっ。アマローネの酒場も安心出来る場所じゃなくなったか。
またミトラに、いいようにこき使われる日々が始まるかと思うと、どす黒い感情が胸に沸いて渦巻く。
二、三年前に何処からともなく現れると、突然悪魔退治屋を始めたアイツ。
噂では、この街の例のボスの関係者らしいと聞く。さすがの俺様も、その真偽は未だ掴めないままだ。
街の人間も、誰もが当たり前のようにミトラを受け入れた。俺様も、変だなと思いながらも、何故か流してしまっていた。
いつの間にか姿を消していたので、安堵していたんだが……。
自分の住むアパートの近くまで来ると、建物の間の影に隠れるように座っている、物乞いが目に入った。
今日も俺様は、物乞いの前に置かれている空き缶にコインを入れてやる。
こうする事で、無くした良心が満足するような気がするのだ。
そういえば、コイツも最近いつの間にかここに住み着いているな。
こんな隠れるように座って、本気で物乞いする気があるのだろうか?
フードをいつも深く被って、まともに顔も見せない男。
だが今日は、その物乞いがコインを
「旦那、今日は遠慮しときまさぁ」
「何だ? どうした」
そう俺は物乞いに聞き返す。
そういえば、コイツの声を今日初めて聞いたな、と思いながら。
物乞いの男は、粗野ながらも不思議な気品を感じさせる喋り方で、俺様に答えた。
「旦那の治療費の足しにしてくだせぇ」
そう鼻を押さえながら、答える男。
俺様は苦笑しながら、物乞いにコインを押し返す。
「こんなの怪我の内にも入らねえよ。良いから取っとけ」
物乞いの返事も聞かずに、アパートの自分の部屋に入る。
靴だけようやく脱ぐと、俺様はそのまま泥のようにベッドで眠った。
*****
さっきから物音がする。
俺様は動かない思考のケツを叩いて、頭を音のする方へ動かした。
誰かが部屋の中に居る!
一瞬で目が覚めた。
俺様はベッドから跳ね起きると、その見知らぬ人影に身構える。
人影は、そんな俺様の態度を気にした風も無く、テーブルの上にグラスを置いてバーボンを注いでいた。
椅子に腰掛け、まるで我が家のように
「よう。悪いが、勝手に
「誰だテメエ?」
そいつは……見知らぬ男は、黙ってコインをテーブルに置いた。
さっき俺様が物乞いにやったコインを。
その時初めてハンガーに掛けられた、薄汚れたボロボロの、フードの付いたハーフコートに気がついた。
「テメエは……」
「多分、アンタの力になれるんじゃないかと思ってね。失礼させて貰った」
薄汚れてはいるが、奇妙にも髭ひとつ生えてない整った顔の、物乞いの男はそう言った。
*****
「……つまりはこの俺様に死ね、と?」
テーブルを挟んで、男と対峙する俺様。
あまりにも突拍子もない話に、そう返すのが精一杯だった。
だが男は反論する。
「新しい人生が手に入るかもしれない、だ」
「死ななきゃならんのは否定しないのか。話にならねえ」
そう切って捨てた俺様の言葉に、男は低い声で返してきた。
まるで地獄の底から漂ってきたかのような声だった。
「……生きていると言えるのか?」
「あ?」
「他人に
「何を……」
「少しあんたの過去を調べさせて貰ったよ。
……父親を知らず、母親にも愛されず、他人から踏み付けにされる。それを、もう少しマシな人生としてやり直せるかもしれない。
……背がもっと高ければ。顔がもう少し人並みならば。そう考えた事は無かったのかい、あんた?」
「…………」
いつの間にか男は立ち上がり、こちらへ顔を寄せてきていた。
話し方も、
男は続ける。
「本当に欲しくは無いのか? 俺の顔。俺の身体。WASPの連中ほど恵まれる訳じゃないが、今よりよほど良い人生を過ごせるぜ?」
ここで一旦言葉を切り、少し迷った様子を見せる男。
だがすぐに続けて言った。
「……本当の自尊心が手に入るかも」
俺様の口の中は、いつの間にかカラカラになっていた。
もつれる舌を必死で動かして言う。
「テメエにメリットが無さ過ぎる」
「あるさ」
男は即座に答えた。
「あんたはこの街の何処にでも現れる。そして街の皆は、その事に疑問も感じない。存在すら認識してないんじゃないか?
俺は、あんたのそんな立ち位置が欲しい」
「その為に俺様の……」
「ああそうさ。あんたの魂が欲しい」
そう言って、テーブルの上に何処から取り出したのか、一冊の古い本をドサリと置く。
しおりを挟んだ箇所を開くと、俺様に続けて話す。
「この本に書いてある方法が正しければ……儀式が正しければ。あんたの生きた心臓を俺が喰らえれば」
「……間違っていたら?」
「あんたはこのクソッタレな人生からおさらばするだけさ。俺に殺される形になるんだ。自殺を許さない神様も許してくれるさ」
「……そっちは?」
「目的を果たせず、ジ・エンド」
その時、初めて俺様は男の耳に気がついた。こんなに目立つのに何故分からなかったのだろう。
まるで悪魔のように長く尖った耳に。
あのミトラの物とそっくりな耳に。
俺様は乾いた笑いを浮かべた。
「色々とゴタクを並べていたが、結局は俺の魂か。まるで悪魔との取引きだな」
男は、椅子にドサリと座ると自嘲気味に呟いた。
「悪魔みたいな立派なモンじゃねえよ」
そして少し考え込む。
「そうだな、俺は……通りすがりのダーティーエルフさ」
「テメエの……アンタの名前を……いや、別にいいか。俺様が、俺がアンタになるんだったらな」
「その言葉は、契約成立と受け取って良いのかな?」
「ああ」
男は俺様に手を差し出した。
少し寂しげな笑みを浮かべて。
「では……よろしくな、マロニーさん」
*****
そこで目が覚めた。
気が付けばすっかり夜が明けて、朝の明るさが外に立ち込めていた。
酷い悪夢を見たものだ。
他人の身体に成り代わる、か。無意識にそんな欲望が育っていたとはな。
ミトラに無理矢理に何杯も飲まされたビールで、悪酔いしたのかもしれない。
そう思って、なぜか今朝に限って妙に狭く感じるベッドから起き上がる。
そして苦笑いしながら洗面所に行き、顔を洗おうとする。
鏡を覗き込む。
そこには見慣れた自分の顔と……。
口元から胸元にかけて、ベッタリとくっついている、ドス黒い
慌てて俺様はテーブルの上を確認する。
何故起きた時に気がつかなかったのか!?
そこには、昨夜の悪夢の中の光景そのままに、無造作に置かれているグラスと、秘蔵のバーボンの瓶。
そして、部屋に漂うバーボンの甘いバニラの香り。
そうだ! この部屋はこんなにも狭かっただろうか!?
天井だってこんなに近くなかった筈だ!!
それに顔だ!
見慣れてると感じたけど、全然違う顔じゃないか、なぜ自分の顔だと思ったんだ!?
そんな風にパニックを起こしている俺様の耳に、例の男の声が聞こえてきた。
“よう、おはようさん。どうやら上手くいったみたいだな”
「お、おいこりゃ一体全体どうなってやがんだよ!? 俺様の身体はどうなった!」
“何だよ、忘れたのか? あのビルの地下に転がっているだろうが。説明もしたろ? 儀式の生贄も兼ねさせて貰うって”
「だ、だけどこんなの変わり過ぎだろ!」
その時、隣の部屋の住人がドンドンと壁を叩いて抗議してしてきた。
しまった、大声で叫び過ぎたか。謝罪に行かないと。
そう焦る俺様の耳元……いや、これは脳内か? 俺様の内側からだ……に、再び声が聞こえてくる。
“大丈夫だよ、多分。あんたの魂が表に出ている限り、皆この身体をマロニーだと認識する。そういう魔術なのさ、あの本の通りならな“
「そんな無責任な……」
“そんな事より、さっさと顔を洗ってその血を落とせよ。んで、隣に謝罪に行くんだろ?”
「くそっ、気楽に言ってくれるぜ!」
ヤケになって俺様は、顔と胸元を必死に洗う。その後にようやく気付く。
「あっ……服はこれ一着だけじゃねえか!」
“あー……本当だ。悪い悪い”
「ちっくしょ。覚えてろよ、テメエ」
“もうアンタでもある”
仕方が無いので、上半身裸で行く事にした。
別人だとバレたらどうしよう。
くそくそくそくそっ!
隣の部屋の呼び鈴を鳴らす。
死刑を待つ死刑囚のように、ドキドキしながら待つ。
やがてガチャリと開けられるドア。
ドアチェーンはかかったまま。
訝しげな表情で俺様を見る隣人の中年女性。上から下まで舐めるように俺様を見渡す。
ああ、やっぱり違うよなぁ。
どうしよう、すぐにこの街から逃げ出さないと。
「……マロニーさん? 上半身裸でどうしたんですか?」
「へ?」
「前々からおかしな人だとは思ってましたが、あまりこちらに迷惑をかけないで下さいね!」
そう言って、ガチャンと乱暴にドアを閉める隣人の中年女性。
俺様は呆然とその場に立ったまま。
そしてあの男の声が聞こえてくる。
“ふむ。やはり問題無かったようだな。それでは改めて、これからよろしく、相棒”
*****
※WASP……White Anglo‐Saxon Protestant(アングロサクソンの白人でプロテスタント)の略。アメリカの上層階級と目される人々を揶揄する言葉。
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