第3話 奇策

 レポロが最初の一手を打つと、「へぇーっ」と感心するような声が、相手ベンチから聞こえた。勿体ぶって後々まで引き摺ると思われていたか……?

 だが、この試合は一度勝ち越すことに意味がある。先手必勝だ。

 ここからが勝負だ――と、考えた瞬間。


「うちらも戦術変えるよーっ」


 みふたんが、こちらの手の内を見ることなく戦術変更を指示した。いや、そりゃ昨日の時点で変更後のフォーメーションはバレているけれど。

 俺が一つしか策を持っていない保証はないわけで、ここでレポロの様子を伺うこともなく即座に手を打つなんて悪手ではないだろうか。

 何が変わるんだ……? と様子を伺っていると、オルフェスのゴールキーパーが軽く走りながら前へ出てきた。

 ……前へ出て…………前へ…………。


「おい。ディフェンダーを追い越したぞ」


 ゴールキーパーの職務放棄とでも表現すべきだろうか? ディフェンダーを追い越して中盤の底へ行ってしまって、オルフェスのゴール前はがら空きだ。

 攻撃的なゴールキーパーというのは、現代サッカーにおいて全く珍しくない。むしろメジャーだと言えるだろう。

 例えばレポロの男子チームもそれをやってきた。

 でもあれは『広大な範囲を守るゴールキーパー』もしくは『最後尾でパス回しに参加するゴールキーパー』という意味であって、フリーキックを蹴るセットプレーでも捨て身のパワープレーでもないのにゴールキーパーが中盤にいるなんてことはありえない・・・・・

 こんなもの、自殺行為に等しい。

 ……だが梨原なしはら深冬みふゆの顔に視線をやると、自信満々というようにしか見えなかった。


「あれ、ひょっとして2-7-2……じゃないですか?」


 ベンチで『見る専』こと一ノ瀬いちのせ有紀ゆきが呟く。


「2-7-2……って、合計が十一人になってるぞ」


 フォーメーションはゴールキーパーを除いた・・・選手を、最後尾ディフェンダー中盤ミッドフィルダー最前線フォワードに分けたもので、合計は十一人からゴールキーパー一人を除いた十人に必ず・・なる。

 4-4-2、4-1-2-3、3-4-3、全て十人だ。


「ゴールキーパーを、フィールドプレイヤーとしてカウントするんですよ」

「それじゃ本当にゴールキーパー無し……ってことか? どう見ても自殺行為なんだが」

「私も試合映像を見たことはないんですけれど――。サッカー雑誌に載っているのを読んだんです。こういう戦術のチームがある……って。確か、育成年代だったと思いますよ」


 プロでそういう戦術が使われたという話は、聞いたことがない。育成年代ならではの戦術――? U15カテゴリも、もちろん育成年代だ。

 ……嫌な予感がする。


「全員にマンマークを付けても一人余る――ってことか」


 こちらのフォーメーション変更にまどわされることなく、同じ選手が同じ選手をマークしてくる。

 ひょっとするとオルフェスにフォーメーションという概念はあまりない……ということだろうか?

 あるとしても守備を固める人海戦術のときだけで、あとはマンマークとハイプレスの組み合わせ――?

 ヤバい。頭の中にクエスチョンマークが乱立している。マジでわからん。理解不能。ゴールキーパー無しとか、どう考えたって自殺行為以外の何物でもない。


「奏にもマークが付いて、チサには二人か……」


 十人に対して十一人が対応するのだから、一人は余る。それを一番危険なチサに当てた。

 とんでもない戦術だ。


「前に蹴るんだ!! ゴールキーパーはいない!!」


 ここで俺は、一つ目の罠に引っかかった。

 心乃美が大きく蹴り出したボールに一枝果林が自慢の脚力を発揮して追いつこうとしたが、果林は自分をマークする一人・・の選手とオフサイドラインの駆け引きをしていた。

 オフサイドは簡単に言えば『自分より前に相手選手が二人いなければ、プレーしてはならない』というルールだ。

 通常ならゴールキーパーが一人目となって、二人目以降はディフェンダーが該当する。

 ……しかし今、相手のゴールキーパーは中盤まで上がって、果林よりもレポロのゴール側に近い位置で立っている。

 つまり『最前線でマンマークしてくる相手と一対一の駆け引きをしていた果林は、ずっとオフサイド状態だった』ということだ。

 果林は無人のゴールに向かって爆走しようとしたが、すぐに笛が吹かれて、オフサイドだったことを知らされる。オルフェスのディフェンダーは果林を追いもしなかったから、これは戦術のうち――――ってことだろう。


「とんでもないこと考えやがるな……」


 相手のディフェンスラインはぐんぐんレポロのゴール側へ進行してくる。

 そりゃそうだ。こっちの最前線である果林は、前に二人の相手選手がいなければプレーに関与すらできない。関与すれば全てオフサイドでファールになる。

 だから後ろへ下がって、前に相手選手を二人残す状況を、自ら作り出さなければならない。

 ――そして、そこにマンツーマンの守備が立ちはだかる。

 果林が下がってきてオフサイドポジションでなくなった瞬間、同じくフォワードのチサと結衣、前に残ったどちらかがオフサイドポジションになってしまう。

 チサをマークする選手は二人いるけれど、横ではなく前後で挟むようにしているから、ルールを利用した戦術を理解して実行していることはもう、疑いの余地がないだろう。


 前線を拡大すれば、オルフェスの選手を●として普段のオフサイドラインがこう。


     ↓

●チサ● |

   果林●

 結衣● |


 ここから果林が相手選手を追い抜けば、有効なプレーとなる。脚力が生きる。

 しかし今のオフサイドラインはこうなっている。


   ↓

   |

●チサ●

   |果林●

 結衣●

   |


 果林は常にオフサイドポジションにいるから、オフサイドラインの後ろまで下がる。そうすると相手ディフェンダーは、より前で守ることが可能となる。


「これではロングシュートも狙えない……か」


 相手の最後尾に当たるディフェンスラインが、フィールドのほぼ中央まで進行してきている。

 ここまで押し込まれてしまっては、ガラ空きのゴールを狙おうにもボールが届かない。

 そもそもマンマークされているから、自由にボールを蹴れる選手が一人もいないわけで……。


「おい有紀、この戦術ヤバくないか!?」

「ヤバいです!!」


 ヤバいだけで会話が通じてしまうほど、気が動転しかかっていた。

 ゴールキーパーがゴールを守る仕事を放棄する戦術なんて、考えたこともない。想定しているわけもない。

 悩んでいる間に、ボールの扱いが苦手な奏がボール回しに失敗。ショートカウンターで失点。

 先制を許してもなおオルフェスは守りを固めず、今度は七海がボール回しに失敗して同じくピンチを招き、うちの守護神である手島和歌がどうにかボールを抑えて危機回避。

 しかしこちらの攻撃と思った瞬間、チサについていたはずのマークがいつの間にか一人離れて美波を二人で囲み、そこでボールを失って今度こそ失点。

 あっという間に2-0……。

 どうしよう? どうしよう? どうしよう?

 何か策は無いのか!? 十一人を相手に、どうやって有利に試合を進めればいい!? こっちも同じ戦術をやらせてみるか!?

 でも付け焼き刃で適う相手じゃない。

 どうしよう。どうすればいい。どうするべきだ。

 監督役がこんなに悩んでるって選手に伝わったら、悪影響しかない。どうすればいいんだ、これ…………っ!

 頭を抱えてベンチの前でしゃがみ込むと、またピンチになって今度は相手のシュートが枠を外してくれた。

 こちらのゴールキック――というところで、フィールドから「チサ!?」と疑問形で、果林の甲高い声が響いた。

 状況を確認するべく視線を移すと、チサがゴールキーパーの手島和歌のところまでポジションを下げていく。

 ゴールキックでの試合再開で、相手選手はペナルティーエリアの中へ入れない。

 チサにくっついていた二人の選手は一旦それに気付かずペナルティエリアの中へ入ったものの、主審の注意を受けて外へ移動させられた。

 同時に守内真奈と釘屋奏、心乃美――。ディフェンダーの三人もペナルティエリアの内側へ入り、まるでいつ攻められても構わないように――と言わんばかりに、危機感を多分に含んだ表情でゴール前に立った。

 完全な安全圏での、ゴールキック。

 最も遠くまで、一気にボールを蹴ることができる、機会。

 しかしボールは前へ飛ばさず、すぐ傍のチサへ、小さく短く――。

 …………俺はいつか、チサの炭酸好きを『サッカー界で一番有名な死亡フラグ』だと言った。

 ある有名な漫画で、炭酸好きな天才が自陣ゴール前からドリブルを開始して、そのまま十一人抜きの偉業を遂げて倒れ込み、帰らぬ人となったからだ。

 チサはボールを持つとそのままドリブルを開始。奪いに来た一人目を華麗なダブルタッチ(左右の足でボールを持ち替えて突破するシンプルな技)でかわし、追い詰めに来た二人目をシャペウ(ボールを空中に浮かせて相手の背後を狙う浮き技)で置き去りに。

 そこからは相手の選手が一斉に、完全に多対一の状態を作りながら囲み、奪いに来る。

 この恐ろしいリスクを背負った自陣でのドリブル突破によって、七海や美波からはマークが外れたわけだ。

 サッカーはいかに数的優位を作り出すかの勝負。一人で何人も置き去りにした時点で、仕事のほとんどは終わったはず――。

 しかしチサは更にドリブル突破を敢行。とにかく前へ進むスピードが速く、気付いた頃には中盤を突破。少し進行方向がサイドへ流れはしたが、ほぼ全員をドリブルで抜いてしまった。

 相手のゴールキーパーが全速力でゴール前へ駆けたところで、キーパーの上を抜く長い弧を描くロングループシュート――。

 きっと、ここにいる全員が呆気にとられた。

 フィールドやベンチ、メインスタンドに人がいることすら忘れる静寂の中、ゆっくりとボールだけが宙を漂って、地面に接地。あと一メートルでゴール――というところを、オルフェスのゴールキーパーがラグビーのトライのように、片手でボールを地面に押さえつけた。

 十一人を正面から抜いたわけではないが、自陣ゴール前から相手ゴール直前まで、たった一人でボールを運んで見せた――。

 メインスタンドでは歓声が上がらず、代わりに喝采と言えるほど大きな拍手が鳴らされる。――驚こうにも驚けなかったのだろう。あまりの出来事に、確実に世界は時を止めていた。

 そして俺は、大チャンスをギリギリで防がれたというのに、安心してホッと溜め息を吐く。あれを成功させていたら、本当にチサが死ぬんじゃないか――、そんなことを本気で思ってしまっていた。

 見てもチサは、倒れ込んでもいないし、第一、シュートが入っていたから死ぬなんてありえないのだが――。

 俺は声を大にして指示を送る。


「結衣!! 今のを繰り返すんだ!! 結衣とチサ、二人なら成功する!!」


 ――失敗はしたが、光明は得た。

 相手の戦術は組織的にルールを有効活用し、個人のマンツーマン守備でショートカウンターを狙うもの。

 ならばこちらは割り切って、結衣とチサの攻撃力に頼る。

 才能に頼ったサッカーだと言われるかもしれないけれど、他に方法が思いつかないんだ。どうしようもない。

 覚悟を決めると同時に、前半が終了した。

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