第7話 噛みしめる

 家に帰ると毎回、チサが出迎えてくれる。


 わざわざそんなことをしなくていいと言っているのだけれど、自転車を止める物音や車のドアが閉まる音に気付くとつい、玄関まで出てきてしまうそうだ。犬じゃないんだからさ……。まあ、すんげぇ嬉しいんだけれど。



「おかえりなさいっ」


「ただいま」



 夫婦になれる気がする。


『お邪魔しています』ではなく『おかえりなさい』を言ってくれるというのは、チサが家族に馴染んでいる証だろう。輪をかけて嬉しい。


 以前なら怠け者の妹がナマケモノのように、のそっとソファで棒アイスでも舐めていて、忘れていたかの如く棒読みで『あーおかえりー』と言ってくれるだけだった。笑顔で『おかえりなさいっ』なんて跳ねた語尾にされると可愛すぎて新鮮すぎて舞い上がってしまう。



「荷物、持ちましょうか?」


「カバンしかないって」



 今日は試合の日だったから、いつもに比べると荷物が多い。カバンはパンパンに膨れてしまっている。それを見て言ってくれたわけで、ほんと、よくできた後輩だ。あと可愛い。


 …………そして見上げたことに、今日のことには一つも触れないでいてくれている。



 チーム結成以来はじめての負け。それはチサも同じ。


 いや、負けず嫌いの彼女が憧れの瀬崎結衣と共に攻撃の中核を担っていたのだから、攻め崩せなかった責任も口惜しさも痛いほど感じているだろう。


 それでも何も言わないでいてくれるというのは、ひとえに気遣いだ。年下にそんなことをさせていると思うと本当に申し訳ない。


 俺はチサの行動に感謝をしつつ、口を真一文字に結んだ。そして覚悟を決めてから、怖々とリビングへ向かう。


 きっと気遣いも容赦もしない、妹が待ち構えているから。



「お兄ちゃん!!」


「はっ、ひゃい!」



 浴びせられる非難の言葉を想像して、更にギュッと口を結んだ。


 しかし――。



「………………………………言わなくてもわかってるみたいだから、いい。今日は怒らないであげる」



 ジィッと観察するような目で見つめてきた妹は、それだけを言うとドカッとソファに腰を下ろしてしまった。


 ……いやいや、何か言ってくれよ。


 いっそ『最低』とか『偉そう』とか『少しは空気読め』とか『選手の気持ちを考えろ』とか『だから彼女できないんだ』とか、なんでも良いから思いっきり罵倒してくれよ。そのほうがスッキリしそうなのに――。


『わかってるでしょ』と何も言われないほうが、余程こたえる。


 この手法は母さんがよく使ったやつだ。


 家事は全壊しているのに、妙なところだけ受け継いだもんだなぁ。



「お父さんは一緒じゃないの?」


「……一緒に帰ってくるほうが珍しいだろ」



 親父はコーチとミーティングを開いた。


 いつもの酒を酌み交わしながら居酒屋でやる座談会ではなくて、事務所に全コーチを集めてのガチなミーティングだ。


 バスでの異常な空気の重さには当然、同席したコーチも気付いていて。内の一人だった多湖たごコーチ(小学生の頃に俺を指導していた人。再開以来ロリコン扱いしてくる)から俺とソフィは報告を求められ、正直にありのままを伝えた。


 俺たちにこのままU15ガールズを任せて良いのか、議論しているのだろう。



 正直に言って負けることを考えていなかったから、その後のフォローの仕方も考えていなかった。勝つことは考えていたけど、負けた後のことにまで頭が回っていなかったんだ。


 そんな人間がコーチをする。それも試合となれば、監督役までやる。


 しっかり議論されて然るべきだろう。親父の性格なら、選手に直接影響するところは絶対に軽んじないはずだ。



「――――ん、なんか焦げ臭くない?」



 妹がちょっとだけ人並みより高い鼻を、スンスンと鳴らす。



「そういや……」



 同じようにスンスンと鼻で空気を吸うと、確かに焦げ臭い。


 ふと台所にいるチサを見ると、鍋から煙が出ているのに隣のコンロで味噌汁を作っていた。


 慌てて駆け寄ってコンロの火を止め、鍋の中のタマネギがきつね色を通り越して黒より黒くなってしまっていることを確認した。



「――――――あっ、す、……ごめんなさい!」



 チサがこういうミスをするところを、見たことがない。



「悪い。一緒にやれば良かった」


「いえ、そのっ――考え事をしてしまってつい」


「はじめて負けたんだ。気にしないほうがおかしい。…………大丈夫か? 火傷とか、してないよな?」


「…………はい」



 答えるとチサは、シュンとしぼむように視線を下げた。


 この小さな身体で年上の選手の分まで責任を背負って、帰ってからも気を遣って――。よくできた後輩だけど、チサは便利屋じゃない。幼気いたいけさが色濃い中学一年生だ。考え事をするよりも先に、そばへ寄って一緒にいるべきだった。


 なんで俺がフォローされる側になってるんだよ。ちくしょう……っ。



「……なあ、チサ。…………負けて、悔しいか?」



 問うとチサは俺の目を一直線に見つめながら僅かに瞳を潤ませて「はい」と頷いた。


 本当は泣くほど悔しいのに、俺が空気を悪くしたばっかりに気を遣わせて……。


 悔しさなんて沢山味わって損はない。成長の糧だ。栄養みたいなもんだ。でも味わっている最中は、とんでもなく悔しくて苦しくて、食事なんて喉も通らない。チサはそれでも項垂れることなく、みんなの食事を作り始めて、俺を出迎えてくれた。


 そんな後輩に偉そうに言える言葉は一つも見つからない。



「――俺もコーチになって、はじめて負けたからな。それも戦術的にやられた。かなりショックなんだ」



 だからせめてもの償いにと、本心をありのまま語る。


 傷を晒す行為に声が震える。



「啓太さんも……?」


「それだけじゃない。七海と美波に、なんであんなこと言ってしまったのか……。今更、悔やんでる」



 黒焦げになったタマネギを申し訳ない思いでゴミ箱へ処分して、近所のお婆ちゃんから頂いた新聞紙包みのタマネギを足下の棚から取り出して、調理に取りかかる。



「――私は、どちらの気持ちもわかるんです」


「ん?」


「その……っ。ほ、ほんとは、こんなことを自分で言いたくはないんですけれど」



 刻む包丁の手を止めて、チサを見る。


 胸に秘めた想いを明かすかのような、赤らんだ顔だ。灼髪の赤みがかった髪と頬の紅色が美しく馴染みあって、俺は思わず息を飲んだ。



「たっ、沢山練習して、少しは上手くなったつもりなんです。……でも、瀬崎さんと同じようには、なれませんから……」



 少しどころか恐ろしく上手いと思うのだが。そこはチサの控え目な性格で現実と認識の乖離かいりを引き起こしているのだろう。


 だからこそ現状に満足せず更に頑張れるわけだ。寺本千智という選手の強さはそこにある。


 そして左利きのチサは、右利きの瀬崎結衣に憧れるがあまり利き足を右に修正しようとまでして、プレースタイルをそっくり似せようとしていた。


 ソフィが気付いて、俺が指摘し、チサは『結衣になる』のではなく『結衣と同じチームで戦う』ことに目標を切り替えてくれた。もちろん左足を使ったプレーのほうが断然ナチュラルで個性的。以来、その左足は輝きを増して何度も並外れたプレーを見せてくれている。


 利き足を封印するなんてことは並大抵の努力ではできない。それでも彼女は目標を切り替えて、『努力の末に諦める』という悔しい経験を積んだ。

 この子の辿ってきた道はすでに、年齢だけで推し量れるものではないのかもしれない。



「――――今でも俺は、今日言ったことを間違いだとは思ってないんだ。でも正解かはわからない。サッカーをする目的は人それぞれ。プロでのプレーを目指す人間もいれば、学生の間に限定して割り切ってる奴も沢山いる。もちろん、楽しめることが一番ではあるんだが……。目標に手が届く楽しさと純粋にプレーを楽しむことは、簡単に両立できそうで実は難しいんだ」



 レポロはプロ選手の育成組織ではない。勝利至上主義も掲げていない。


 親父や他のコーチ達は、選手にサッカーのプレイヤーとしてだけではなく、人としての成長を求めている。だから礼儀作法にも厳しいし、指導者だって裏ではセクハラ発言を機関銃のように乱発しながらも選手の前では毅然としている。……いやほんと、あの人達の座談会(飲み会)は怖いからね。単なるオヤジの集合体だよ。スライムがキングスライムになるのと変わらない。キングオヤジの爆誕である。


 それでも勝利至上主義でないことは、監督役を俺とソフィの素人学生二人に任せる時点で明らかだ。


 にも関わらず、四年で三度の全国出場という結果も残している。


 俺の世代を除く二度の全国出場で中心選手にいたのは、一年差の世代違いで結衣とチサ。地域の育成サッカークラブとしてはやはり反則級の実績と力を持った選手を抱えているんだ。


 だからやられるとしたら、経験豊富で規模も大きな歴史あるチームに……と予想していた。


 まさか名前も初めて聞いたような、自分より年下が指揮を執るチームに叩きのめされるなんて想像が及ばなかった。



「……そうですね。私も目標に手が届かなくて悔しいことは沢山あります。でも……達成感――って言うのかな。それが楽しくて嬉しくて……。だから続けられているんだと思います」



 そう口にしたチサは唇を噛み眉尻を下げていて、でも健気に、笑おうと頑張っていた。辛いことがあったときにあえて楽しいことを思い出すことで誤魔化そうとしているような、そういう印象だ。


 俺がもっとちゃんとしていたら、チサにこんな顔をさせることは無かったのに――――。


 この悔しさを忘れちゃいけない。少しのあいだ彼女の顔を見続けて瞼の裏に焼き付け、一旦視線を外してから冷蔵庫を開ける。



「なあ、チサ」


「はい?」



 こうしていれば、チサに表情を見られることはない。……卑怯なんだろう。自分の顔だけは見られたくないなんて。


 包み隠さずに胸の内を明かしたつもりなんだけど、どうにも俺の感情にはまだ底があったようだ。


 とてもじゃないが、正面から向かい合って口にするのは苦しい。



「――――負けるって、悔しいな」


「…………はい」



 何年もサッカーをしていれば負けたことなんて数え切れないほどある。それはチサも同じだろう。


 でも、何度負けても、悔しさには慣れない。

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