第5話 未経験の令嬢
四月に入って最初の月曜日。
例年通りのペースで桜が散り始めた頃、高校生活がスタートするよりも少しだけ早く、俺は親父の経営するクラブチーム『FCレポロ』の練習グラウンドに立っていた。
首には笛、左手に選手名が書かれた紙の貼られたボードを持ち、明らかに選手ではなくコーチを示すスタイルで…………想定外の事態に、直面する。
「これから、この二人が君たちのコーチになる」
親父が俺以外にもコーチを用意していて、二人一組の行動を義務付けてきた。
それも、めちゃめちゃ顔見知り。
「なんでお前が日本にいるんだよ」
「お姉ちゃんが役立たずだから、私にお鉢が回ってきたね!」
彼女はソフィ。俺が所属するアカデミーチームの、オーナー令嬢だ。
一家揃って日本好き。というか無類の日本食好きで、俺の帰国に併せて彼女の姉であるセルヴィさんも同じ飛行機で来日した。
こっちはエコノミークラスで、あっちはビジネスクラスだったけれど。飛行機の機内ほど小さな世界で格差を現わす場所は珍しいだろう。ファーストクラスに乗っていないのが意外だったくらいだ。
そんなセルヴィさんだが、ロンドン空港を飛び立って関西空港に降り立つなり即行で旨いものを目指して天下の台所、大阪の街へ消えてしまった。
あとで知らされたが、俺がサッカーを辞めるかもしれないと知ったオーナーが説得を目的にセルヴィさんを派遣しようとしたそうだ。
「お前の姉ちゃん、日本に着くなり一瞬でいなくなったぞ。空港でだ。関西空港ってガチな人口孤島だから道は一本しかないはずなんだがな。……多少性格は知ってたつもりだけど、どんだけ日本食が好きなんだよ」
ちなみに関西空港より福岡空港のほうが、ここまでの道程は圧倒的に近い。
だがロンドンからの直行便がなくて関西空港に降り立った。
仮に福岡へ降りていたとしても、ウッキウキで中洲の屋台辺りへ消えていく姿が目に浮かぶけどね。
結局セルヴィさんにとっては俺の動向云々なんて、日本行きに都合の良い話でしかなかったのだろう。変に説得されるよりはそれぐらいのほうが、精神的に楽だ。
「多分、そうすれば私が日本に来る――って、考えたんじゃないかな!」
中々に流暢な日本語を喋るソフィは、長いブロンド髪と青い瞳、そして高い鼻で大人っぽく見える。けれど俺と同級生、まだ十五歳だ。外国人って怖い。十三歳ぐらいの子でも二十歳にしか見えなかったりすることがあるからね。
大人の女性だと思って口説こうとしたらJCでしたなんてオチにならないよう、要注意である。
「お前も説得しに来たのか?」
「もちろん!」
「よし、わかった。頭おかしいのは簡単に娘を送りつけるオーナーだな。大切な娘だろうに、何を考えて高々一人の選手に……。単なるアカデミーの選手だぞ」
「それだけ、ケイタに期待してるってことだよ」
美しくすら感じる笑顔に純真さを宿した瞳で、俺のことを見てくる。
やめてくれよ……。そんな顔でそんなことを言われると、色んな意味で胸が苦しくなるだろ……。
その期待に応える自信がない――どころか、選手としてプレーすることを放棄しようとさえしているのだから。
胸の中に熱く
……しかしコーチと言っていたけれど、彼女にサッカーの経験はあるのだろうか。グラウンドに彼女が来ることは多々あったけれど、プレーをする姿は見たことがない。それどころかボールを蹴ってるところすら見たことがないような……?
「ソフィって、サッカーしたことあるんだっけ?」
「ないよ!」
「……じゃあ、なんでコーチになんか」
「メチャ美味しいうどん、食べさせてもらったから!」
お、おぅ……。
親父のやつ、旨いとはいえ庶民的なうどん屋でオーナー(世界的な資産家)の娘、釣りやがった。
釣り師すぎるだろ。釣られるほうもどうなんだ。
二人で会話を始めてしまった後ろから、その親父が監督として言葉を発する。
「えー、但し二人はまだ高校生だ。解決の難しい問題や大人の手助けが必要な時には、監督やコーチにちゃんと相談すること。わかったね?」
親父――いや、監督の言葉に、目の前にいる女子中学生達が『はいっ!』と声を張って返事をした。
「高校は、日本で通うのか?」
「ケイタと同じ高校だよ!」
ソフィは頭が良いし日本語も上手い。
難しい言葉に関しては、ひょっとしたら俺より詳しい。
イギリスで言葉を覚えるまでの間、この日本語を喋る同級生には随分助けられたものだ。けれどまさか、日本でも一緒になるとはなあ。
「じゃあ、コーチは自己紹介を」
監督が場を仕切る。
……気が重い。こういうの、あまり得意じゃないんだ。
コーチという立場上――。年上でもあるし、失敗が許されない気がしてしまう。
「え――っと、
距離感の測りようがない女子中学生達を相手に、無難な挨拶だと思う。
下手に笑いを取りに行って滑りでもしたら大火傷だ。トラウマになる。
しかし何人かの選手は俺のことを知っているのか、驚いた――というような表情を見せた。
まあ三年生とは一つしか歳の差がない。過去に一緒に練習をしたりプレーをした可能性は十分にある。
ただ俺のほうはと言うと、実のところよく覚えていない。チームに女の子……いたかな。同級生にはいなかったから、飛び級していた選手がいたかどうか。そうなると知らなくても仕方ないか。
気を利かせた監督がパチパチと手を叩くと、それを合図に適度な音量の拍手で迎え入れられた。
最初が肝心ということもあるから、もうちょっと親しげに喋ってフレンドリーな印象を持ってもらった方が良いのかな……とは思うけれど、こんなもんで上出来だろう。
男子選手が相手ならいっそ、鬼軍曹的な印象を植え付けても良かったかもしれない。
でも……中学生とはいえ、女の子に嫌われるのは怖い。トラウマどころか立ち直れない傷を負いそうだ。
第一、二人一組なら役割を分担するほうが無難だろう。
鬼軍曹はともかくとして、フレンドリーな役割はソフィに任せればいい。性別は同じで年齢もほとんど変わらないんだから。
俺は、隣に立つソフィが声を出す瞬間を待った。
こうして見るとスタイルが良いだけじゃなくて、背も結構高いな。
「ケイタの飼い主の娘です! よろしくお願いします!」
「日本語訳間違え過ぎてんだろ!?」
彼女の言葉は驚きだったのだろう。選手達が全力でザワついた。
「いやいやっ、
焦りまくって全力の否定をする。確かに動物の飼い主もオーナーと呼ぶけれど、俺は犬や猫じゃない。
「私にサッカー経験はない! サッカーは観るものだと思っているよ! 以上!」
「お前、マジで何しにここに来たんだよ!?」
俺の切実な疑問を遮るように、親父が手を叩く。
すると心なしか、さっきよりも少なく感じる音が、選手達の手で鳴らされた。
――そりゃそうだ。
小学校低学年のチビッコ選手ならまだともかく、中学生選手に素人の彼女が何を教えるというのか。
中には何年もサッカーをしてきた選手も多いはずだ。
コーチとして専門的に勉強してきたというのならサッカー経験がなくても、教わることがあるだろう。けれど俺の知る限りでは、そういうわけでもない。
ここは監督に、何故ソフィをコーチにしたのか説明を求めるべきだと考えた。
しかし瞬間、
「監督ーっ!」
後方から声変わり前の少年の声が聞こえる。小学生選手だろう。
すると親父こと監督は「じゃあ、後は任せたからな」とだけ言い残して、去ってしまった。
取り残された俺は一度、複雑な心境を空気に混ぜ込んで肺から吐き出す。もう、肺から空気と言うより胃から昼飯をリバースしそうな気分だ。
たった今結成されたばかりの女子チームに、サッカー経験のない相棒コーチ。こんなんで放り出されて一体どうしろと言うのか。前途多難にも程がある。
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