第8話 珍事

 木曜はU15ガールズの練習がない。


 だから今日はコーチとしてではなく、単純にチサと遊ぼう・・・と思った。



「うわあ――。凄いです!」



 チサのテンションは高い。



「庭にこんな練習場があるなんて」



 人口に対して土地が余っている田舎だ。ちょっと遊べる程度の庭はそう珍しくない。


 それでも四隅に支柱を立てて防球ネットでぐるりと囲んだ家というのは、あまり見かけない。うちはこれを小さな練習用設備としている。


 親父と母さんと家族四人で作ったんだけれど、元が畑だったから土を入れ替えて芝を張り…………とにかく大変だった。何せ日本というのは芝が育ちにくくしっかり根付かせるまでも根付いてからの管理もとんでもない労力がかかる。日本のグラウンドはいつまでも土だらけと言うけど、高温多湿なのに冬は雪が降る日本というのは特殊な環境で難易度が高い。


 しかしそこで経験した苦労には家族の団らんとも呼べる笑顔がいつもあって、今となっては良い思い出だと言える。



「広さはフットサルもできない程度だけど、一対一のミニゲームぐらいならできるんだ」



 俺の言葉に、心乃美このみも続ける。



「リバウンダーネットもあるから、パスやトラップの練習もできるよ」



 ボールを跳ね返す『リバウンダーネット』は、一人でもパスやトラップの練習ができる優れものだ。


 壁当てをするには頑丈なコンクリート壁が必要だし、それでは壁とボールがぶつかった衝突音でうるさくなってしまう。


 一応住宅街だから、お隣さんに騒音被害やらで迷惑をかけたくはない。いつも野菜を頂いているし。



「私、こういうの初めてです!」


「そういや、リバウンダーネットはレポロの練習じゃ使わないな」



 基本的には一人練習用だから、活用しづらいのかもしれないけれど。使い方次第では面白そうだ。



「ちょっとやってみるか?」


「は、はいっ!」



 僅かに緊張を見せつつも跳ねた調子で返事したチサの前に、ボールを転がす。


 するとすぐに目つきが変わった。


 ボールに触れるときのチサは冷静沈着で、しかし、誰より熱い瞳をしている。



「わっ!」



 ただ、今に限ってはすぐに驚きの表情へ変わった。


 リバウンダーネットの跳ね返りはかなり特殊なんだ。こいつは全力でシュートを打ってもしっかり衝撃を吸収してくれるが、その分、返ってくるまでに時間の溜めができて独特なリズムになる。


 反発力はものによって違うけれど、うちのはソフトなタイプだから、強く蹴ってもポーンと緩めに返してくれる。



「跳ね返ってきたボールを地面に落とさずリフティングして、もう一度パスして……って繰り返すと、ただリフティングしてるより楽しいぞ」


「や、やってみます!」



 やはりというか何というか、チサはすぐに順応して楽しげな笑顔まで見せ始めた。

 いきなりボールを落とさずに安定して繰り返せる辺り、やはり天才的な適応力だろう。



「チサちゃんすごーい。私だってそんなにうまくはできないよ。なんか、お兄ちゃんみたい」



 さて、問題は利き足である。困ったことに今のところ殆ど右足だけで、リズムよくボールと戯れている。ここまでやれて本当に左利きなのか……?



「お兄ちゃん、何か言いたそうな顔してるより、素直に言っちゃった方が楽になれるよ」


「よく見てるな。そういうところは尊敬するわ」



 こういう観察力があるから守備の要ができるんだろうな。正直に言って、例え身長が高かったとしてもきっと、俺にはできないポジションだ。



「なあチサ、ちょっといいか」



 呼びかけると、リズムよく鳴っていたボールの弾む音がトンッ――と止まった。



「どうしたんですか?」



 軽く息が乱れている。


 こういうのは上手ければ上手いほど間断なく動き続けることになるから、逆に疲れるようになるんだ。効率が上がるとも言える。



「チサの利き足、右じゃないんじゃないかと思ってな。ほら、包丁は左手に持ってただろ」



 問うと、チサは少し気まずそうに、斜め下へ視線を落とした。



「…………やっぱり、下手ですよね」



 下手? なんの話を――。



「右利きになりたくて、もう一年以上右足の練習をしているんですけれど……。やっぱり見る人が見ると、わかっちゃうのかな」



 見る人――それは俺じゃなくて、ソフィだ。



「…………いや、俺には見抜けなかった。ただソフィは――あいつはトッププレイヤーを間近で見て育っているし、練習を動画に撮って繰り返し見ているようだから、なんとか気付けたんだろう。俺じゃ包丁の持ち手を見ても……疑問にすら思わなかったぐらいだ」



 コーチとしての熱意で、俺はソフィに負けているのかもしれない。次からは俺にも動画を見せてもらえるよう、お願いしよう。サッカーバカが熱意で負けたら何も残らない気がするし。



「チサちゃん、五年生の頃は左利きだったんだよ」


「って、お前は知ってたのかよ!」



 なんてこったい……。心乃美に訊けば良いだけの話だったのかよ。盲点だった。



結衣ゆいに憧れて、右利きに直したんだよね」



 心乃美の言葉にチサは、こくりと一度だけ頷いた。


 右利きに直すって箸や鉛筆じゃないんだから……。



「……少しでも瀬崎せざきさんに近付くためには、右足の練習をしたほうが良いと思ったんです」



 俺は思わず、息を呑んだ。


 そんな理由で右足を使い始めて……現にチサと瀬崎結衣の技術差は、それほど大きくないように見えている。真似事としてはかなりの高次元、すでに実戦レベル――――。


 たった一年という月日で逆足をここまでのレベルに引き上げるなんて、どういう修練を積んだんだ。


 それもさっき、自分のことを下手と言っていた。現状に満足する様子が全くない。



「一度、左足でプレーしてみてくれないか。見てみたいんだ」



 俺はもう、チサの利き足を確認する気持ちではなく、純粋な興味や関心だけで言葉を口にした。


 ただただ純粋に、この目で見てみたい。



「……あの、私、左足に頼るクセがあるので……。納得するまでは右足の補助にしか使わないって、決めていて……」


「そんなっ。勿体ないにも程がある!」



 つい、口調が厳しくなる。



「……いや、ごめん……。でも見てみたいんだ。頼む!」



 俺は自然と頭を下げていた。滅多にそんなことをする柄じゃないのに、どうしても今すぐ確認しないと夜も眠れないような、そんな気がしていた。



「――あっ、じゃあさ、お兄ちゃん! 『フットプロム』で対戦して、勝ったら左足でプレーしてもらえば良いんじゃない?」



 兄の姿を見てどう思ったかは知らないが、心乃美が少し慌てた様子で提案してきた。



「サッカーのことはサッカーで決めちゃえばいいんだよ。ね?」



 更に人差し指を立てて、俺が頭を下げるより珍しいことに可憐に微笑んだ。

 うちの妹いい子……っ。できることなら、いつもその顔でいてくれないかな。ソファでだらーっとアイスペロペロしてるより今のほうがずっと可愛い。

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