キッチンから炒める音が聞こえて、愛は目を覚ました。

 冷房で冷えた部屋。身体にかけられた茶色のタオルケット。ふんわりと漂ってくる、食欲を促す良い匂い。まだふわふわする頭を横に振り、ゆっくりと身体を起こす。傍のローテーブルからスマホを手繰り寄せる。画面を点けるとすぐに男からのメッセージが目に入った。スケジュールを確認し空いていることを確認すると、愛は二つ返事で返答をする。そして、スマホを機内モードにしてローテーブルの上に戻した。

「起きてたんだ、おはよう」

 Tシャツに短パン姿、菜箸を片手に持った綾香が笑顔で言う。

「ご飯できるよ。食べれそう?」

 胸が温かくなる。愛はゆっくりとソファーから立ち上がる。

「おはよう、綾香さん。少しなら食べれそうです」

 よかった、と呟き、綾香は再びフライパンに視線を向ける。

 ゆっくりとした足取りで、愛はキッチンへ向かう。

 愛の気配に気づいたのか、

「ごめん、愛ちゃん。お皿取ってくれる?」

 綾香は野菜を炒めながら言う。

 愛はゆっくりと綾香に近づき、背中に抱き着く。

 どうしようもなく温かいぬくもりに、時間に、目頭が熱くなる。

 どうしたの、と綾香は問いかける。愛は無言で首を横に振る。

 綾香が火を止める。ゆっくりと愛のほうへ振り向く。

 少ししゃがんで、綾香は愛の額にキスをする。そのまま愛を抱きしめ、頭を優しく撫でる。

「怖い夢でも見た?」

 愛は首を横に振る。あやかさん、と言いかけた口が止まる。どうしたの、と綾香が優しく囁く。

「すき……?」

 恐る恐る、愛は綾香に問い掛ける。

「好きだよ」

 何の迷いも無く、綾香は言う。

「ご飯食べよっか」

 綾香の言葉に、愛は小さく頷いた。


「私、変なこと言ってませんでしたか?」

 昼食を終え、珈琲を片手に一息入れていると、愛が突然そう言った。

 すぐに綾香はそれが昨夜のことだと理解した。

「うーん。特に言ってなかったけどな。あ、でも」

 焦らすように言うと、愛は真剣な表情で顔を近づけてきた。

「私の名前をずっと呼んでた。あやかさん、あやかさん、って」

 囁くように、綾香はあの時の愛の真似をする。

「綾香さんのいじわる。忘れてください」

 頬を赤らめる愛が可愛らしい。もっと攻めたくなる衝動を堪えて、

「愛ちゃん、昨夜の記憶ないの?」

 と愛に訊いた。

「映画を見てるところまではあるんですけど、その後はないです」

 愛は困ったように微笑む。

「映画の途中から凄いペースで呑み始めたもんね」

 綾香は笑顔で言いながらも、昨夜のことが頭から離れずにいた。

 まだ確証ではない。それでも、せめて今だけは幸せな時間を過ごしてほしい。

「そうだ、愛ちゃん、今日行きたいところある?」

 そんな気持ちを込めて、愛に問いかける。

「綾香さんが行きたいところ」

 微笑みながら愛は言う。

「だめ。愛ちゃんが行きたいところに私は行きたい」

 困ったように愛は視線を下げる。

「……み」

「み?」

 愛は困ったように微笑む。視線を上げ、綾香の顔を見る。

「うみ……いきたいです」

 どこか控えめに言う愛に、綾香の胸がきゅっと締め付けられる。抱き締めたい衝動に駆られる。

「よし、じゃあ今日は海に行こう」

 頷きながら言うと、愛は嬉しそうに微笑んだ。


 夕方まで家でゆっくり過ごし、二人は家を出る。

 どうにも愛は海で泳ぎたいわけじゃないらしい。

 二人で海をのんびりと眺めたい。愛がそう言った時、綾香は無性に愛のことが愛おしく思えた。

 砂利道の駐車場に車を停めて、踏み均された細道を歩き松林を抜ける。

 ぱっと広がる砂浜と、広大な海に二人は脚を止めた。

「わあ」

 愛が子供みたいな声を上げる。

「……凄い」

 感心したように綾香は景色を眺める。

「綾香さん、早く行こ」

 愛が早足で進みだす。

「転ばないようにねー」

 先を行く愛に大きな声で注意すると、綾香は愛の背中を追いかけた。

 愛の白いワンピースが揺れる。カーキーの半袖のジャケットがふわりと浮かぶ。

「綾香さんはやくー!」

 渚に辿り着いた愛が急かすように言う。

 砂に足を取られながらも、綾香はなんとか愛の傍まで向かう。

「きれい」

 海を眺める。

「本当だね。人も全然いないしよかった」

 愛は無言で頷く、綾香は横目で愛の横顔を見る。

「ねえ、あし入れてもいい?」

 遠くの方を見つめながら、愛は訊く。

「うん。そう言うと思ってタオル持ってきたよ」

「ありがと綾香さん」

 愛はゆっくりとスニーカーを脱ぐ。可愛らしい靴下を脱ぎ、砂浜に足をつける。

 恐る恐る愛は海に足を踏み入れる。冷たい、と小さく呟き、もう片方の足も入れる。

「気持ちいい」

 嬉しそうに呟き、愛は足を進める。

 小さな波が押し寄せてくる。愛は退かずに、それを受け入れる。

「服濡れちゃうよ」

 うん、とどこか上の空で答えて、愛は静かに海を眺める。

 その背中はどこか寂し気で、今にも消えてしまいそうなくらい儚くて、

「こんなに広いんだ」

 独り言ちるように愛が言う。

「海を見てると、自分の悩みって小さく見えるなあ」

 愛が不思議そうに振り向き、

「綾香さん悩んでるの」

 真剣な表情で言う。

「そりゃあね、私も悩みごとぐらいあるよ。愛ちゃんは? 困ってることとかない?」

 愛の目を真剣に見る。二人は見つめ合う。愛は困ったように微笑み、

「ねえ、綾香さん」

 再び海を眺める。なに、と優しく綾香は問いかける。


「見たでしょ」


 小さな波が愛の身体に押し寄せる。白いワンピースが濡れる。綾香は固まる。

 ゆっくりと愛が振り向く。まるで悟ったように、困ったように微笑みながら綾香に言う。

「やっぱり。今日の綾香さん、なんだか凄く優しかった」

 愛は綾香を見据える。

「身体売ってるの、私」

 言葉に詰まる綾香に、愛は続ける。

「お母さんアル中でね。中学の時に頭変になっちゃって、それで叔父さんに引き取られたの。叔父さんは私を女としてしか見なくて、家に帰りたくなくて知らない人とホテルでシたの。それが始まり」

 淡々と、愛は語り続ける。

「高校卒業して、叔父さんにデリヘル紹介されて、働きながら援交して、家を出たの。普通に近づきたくて、普通じゃないことをしながら大学に行くためのお金を貯めて、そのお金で、私は今ここにいる」

 胸が痛む。止めてくれと血潮が叫ぶ。

「――汚いと思った?」

 どうして笑いながらそんなことを言えるのと、叫びそうになる衝動を堪える。

「そんなこと――」

「私は自分が汚いって分かってるよ。そして、これからも汚れていくんだって受け入れてる」

「私が養うから」

 綾香は愛の顔を真っ直ぐ見つめる。

「だから、やめようよ。もうそんなことしなくていい」

 愛は固まる。驚いたように綾香の顔を見て、そして、再び微笑む。

「ありがとう綾香さん。気持ちだけ貰っとくね」

 帰ろう、と愛は綾香に促す。

 綾香は無言で愛にタオルを差し出す。

 ありがとう、とタオルを受け取り、愛は靴を履く。

 言葉を交わさず、二人は砂浜を歩く。

 綾香は告白された事実を受け止めきれず、俯きながら。

 愛は真っすぐと前を見つめる。足取りは軽く、綾香の前を歩き続ける。

 助手席に座ると、明日バイトだから帰るね、と愛は綾香に言った。

 綾香は力なく、うん、と返事をする。

 何て言葉を掛けていいのか綾香には分からなかった。告白された事実を受け入れることで精一杯だった。

 二人を乗せた車は進み続ける。

 灰色に染まった景色。まるで世界が変わってしまったかのようだった。

 楽しかった時間がどこか遠い日のことに感じた。


「……また金曜日、ね」

 それは、車を出してから初めて綾香が口にした言葉だった。

 シートベルトを外そうとした愛の動きが止まる。

 振り向かずに、

「うん、また」

 淡々と呟いて、愛は車を降りた。

 愛の背中が遠のいていく。思わず涙が零れそうになった。

 愛の姿がマンションに消えるまで、綾香は愛を見送った。

 その日以降、愛に連絡が付くことはなかった。

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