6
キッチンから炒める音が聞こえて、愛は目を覚ました。
冷房で冷えた部屋。身体にかけられた茶色のタオルケット。ふんわりと漂ってくる、食欲を促す良い匂い。まだふわふわする頭を横に振り、ゆっくりと身体を起こす。傍のローテーブルからスマホを手繰り寄せる。画面を点けるとすぐに男からのメッセージが目に入った。スケジュールを確認し空いていることを確認すると、愛は二つ返事で返答をする。そして、スマホを機内モードにしてローテーブルの上に戻した。
「起きてたんだ、おはよう」
Tシャツに短パン姿、菜箸を片手に持った綾香が笑顔で言う。
「ご飯できるよ。食べれそう?」
胸が温かくなる。愛はゆっくりとソファーから立ち上がる。
「おはよう、綾香さん。少しなら食べれそうです」
よかった、と呟き、綾香は再びフライパンに視線を向ける。
ゆっくりとした足取りで、愛はキッチンへ向かう。
愛の気配に気づいたのか、
「ごめん、愛ちゃん。お皿取ってくれる?」
綾香は野菜を炒めながら言う。
愛はゆっくりと綾香に近づき、背中に抱き着く。
どうしようもなく温かいぬくもりに、時間に、目頭が熱くなる。
どうしたの、と綾香は問いかける。愛は無言で首を横に振る。
綾香が火を止める。ゆっくりと愛のほうへ振り向く。
少ししゃがんで、綾香は愛の額にキスをする。そのまま愛を抱きしめ、頭を優しく撫でる。
「怖い夢でも見た?」
愛は首を横に振る。あやかさん、と言いかけた口が止まる。どうしたの、と綾香が優しく囁く。
「すき……?」
恐る恐る、愛は綾香に問い掛ける。
「好きだよ」
何の迷いも無く、綾香は言う。
「ご飯食べよっか」
綾香の言葉に、愛は小さく頷いた。
「私、変なこと言ってませんでしたか?」
昼食を終え、珈琲を片手に一息入れていると、愛が突然そう言った。
すぐに綾香はそれが昨夜のことだと理解した。
「うーん。特に言ってなかったけどな。あ、でも」
焦らすように言うと、愛は真剣な表情で顔を近づけてきた。
「私の名前をずっと呼んでた。あやかさん、あやかさん、って」
囁くように、綾香はあの時の愛の真似をする。
「綾香さんのいじわる。忘れてください」
頬を赤らめる愛が可愛らしい。もっと攻めたくなる衝動を堪えて、
「愛ちゃん、昨夜の記憶ないの?」
と愛に訊いた。
「映画を見てるところまではあるんですけど、その後はないです」
愛は困ったように微笑む。
「映画の途中から凄いペースで呑み始めたもんね」
綾香は笑顔で言いながらも、昨夜のことが頭から離れずにいた。
まだ確証ではない。それでも、せめて今だけは幸せな時間を過ごしてほしい。
「そうだ、愛ちゃん、今日行きたいところある?」
そんな気持ちを込めて、愛に問いかける。
「綾香さんが行きたいところ」
微笑みながら愛は言う。
「だめ。愛ちゃんが行きたいところに私は行きたい」
困ったように愛は視線を下げる。
「……み」
「み?」
愛は困ったように微笑む。視線を上げ、綾香の顔を見る。
「うみ……いきたいです」
どこか控えめに言う愛に、綾香の胸がきゅっと締め付けられる。抱き締めたい衝動に駆られる。
「よし、じゃあ今日は海に行こう」
頷きながら言うと、愛は嬉しそうに微笑んだ。
夕方まで家でゆっくり過ごし、二人は家を出る。
どうにも愛は海で泳ぎたいわけじゃないらしい。
二人で海をのんびりと眺めたい。愛がそう言った時、綾香は無性に愛のことが愛おしく思えた。
砂利道の駐車場に車を停めて、踏み均された細道を歩き松林を抜ける。
ぱっと広がる砂浜と、広大な海に二人は脚を止めた。
「わあ」
愛が子供みたいな声を上げる。
「……凄い」
感心したように綾香は景色を眺める。
「綾香さん、早く行こ」
愛が早足で進みだす。
「転ばないようにねー」
先を行く愛に大きな声で注意すると、綾香は愛の背中を追いかけた。
愛の白いワンピースが揺れる。カーキーの半袖のジャケットがふわりと浮かぶ。
「綾香さんはやくー!」
渚に辿り着いた愛が急かすように言う。
砂に足を取られながらも、綾香はなんとか愛の傍まで向かう。
「きれい」
海を眺める。
「本当だね。人も全然いないしよかった」
愛は無言で頷く、綾香は横目で愛の横顔を見る。
「ねえ、あし入れてもいい?」
遠くの方を見つめながら、愛は訊く。
「うん。そう言うと思ってタオル持ってきたよ」
「ありがと綾香さん」
愛はゆっくりとスニーカーを脱ぐ。可愛らしい靴下を脱ぎ、砂浜に足をつける。
恐る恐る愛は海に足を踏み入れる。冷たい、と小さく呟き、もう片方の足も入れる。
「気持ちいい」
嬉しそうに呟き、愛は足を進める。
小さな波が押し寄せてくる。愛は退かずに、それを受け入れる。
「服濡れちゃうよ」
うん、とどこか上の空で答えて、愛は静かに海を眺める。
その背中はどこか寂し気で、今にも消えてしまいそうなくらい儚くて、
「こんなに広いんだ」
独り言ちるように愛が言う。
「海を見てると、自分の悩みって小さく見えるなあ」
愛が不思議そうに振り向き、
「綾香さん悩んでるの」
真剣な表情で言う。
「そりゃあね、私も悩みごとぐらいあるよ。愛ちゃんは? 困ってることとかない?」
愛の目を真剣に見る。二人は見つめ合う。愛は困ったように微笑み、
「ねえ、綾香さん」
再び海を眺める。なに、と優しく綾香は問いかける。
「見たでしょ」
小さな波が愛の身体に押し寄せる。白いワンピースが濡れる。綾香は固まる。
ゆっくりと愛が振り向く。まるで悟ったように、困ったように微笑みながら綾香に言う。
「やっぱり。今日の綾香さん、なんだか凄く優しかった」
愛は綾香を見据える。
「身体売ってるの、私」
言葉に詰まる綾香に、愛は続ける。
「お母さんアル中でね。中学の時に頭変になっちゃって、それで叔父さんに引き取られたの。叔父さんは私を女としてしか見なくて、家に帰りたくなくて知らない人とホテルでシたの。それが始まり」
淡々と、愛は語り続ける。
「高校卒業して、叔父さんにデリヘル紹介されて、働きながら援交して、家を出たの。普通に近づきたくて、普通じゃないことをしながら大学に行くためのお金を貯めて、そのお金で、私は今ここにいる」
胸が痛む。止めてくれと血潮が叫ぶ。
「――汚いと思った?」
どうして笑いながらそんなことを言えるのと、叫びそうになる衝動を堪える。
「そんなこと――」
「私は自分が汚いって分かってるよ。そして、これからも汚れていくんだって受け入れてる」
「私が養うから」
綾香は愛の顔を真っ直ぐ見つめる。
「だから、やめようよ。もうそんなことしなくていい」
愛は固まる。驚いたように綾香の顔を見て、そして、再び微笑む。
「ありがとう綾香さん。気持ちだけ貰っとくね」
帰ろう、と愛は綾香に促す。
綾香は無言で愛にタオルを差し出す。
ありがとう、とタオルを受け取り、愛は靴を履く。
言葉を交わさず、二人は砂浜を歩く。
綾香は告白された事実を受け止めきれず、俯きながら。
愛は真っすぐと前を見つめる。足取りは軽く、綾香の前を歩き続ける。
助手席に座ると、明日バイトだから帰るね、と愛は綾香に言った。
綾香は力なく、うん、と返事をする。
何て言葉を掛けていいのか綾香には分からなかった。告白された事実を受け入れることで精一杯だった。
二人を乗せた車は進み続ける。
灰色に染まった景色。まるで世界が変わってしまったかのようだった。
楽しかった時間がどこか遠い日のことに感じた。
「……また金曜日、ね」
それは、車を出してから初めて綾香が口にした言葉だった。
シートベルトを外そうとした愛の動きが止まる。
振り向かずに、
「うん、また」
淡々と呟いて、愛は車を降りた。
愛の背中が遠のいていく。思わず涙が零れそうになった。
愛の姿がマンションに消えるまで、綾香は愛を見送った。
その日以降、愛に連絡が付くことはなかった。
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