夜に手を伸ばして
宇月零
ひとり寂しい夜に
1
彼女と出会ったのは、知る人ぞ知る落ち着いた雰囲気のバーだった。
一つ隣のカウンターではカップルが甘い言葉と共に、グラスを口へと運んでいる。
「ほんっとありえない・・・」
私はというと、元彼が家庭持ちだったこと、所謂不倫をしていたという事実にひとり打ち拉いでいた。
二年だ。私は二年間、無意識のうちに不倫をしていたのだ。
甘い愛の言葉。誕生日にくれた綺麗な指輪。快楽と安堵で満たされる二人の夜。
思い出が走馬灯のように蘇る。胸がきゅっと痛んで、目頭が熱くなる。
「……マスター、おかわり」
「かしこまりました」
そっと出されたグラスを口へ運ぶ。
投げやりで一気に飲み干し、そして腕に顔をうずめる。
明日なんて来なければいいのに。
一層のこと世界なんて滅んじゃえばいいのに。
そんなとりとめのないことを考えていると、ふと隣に人の気配を感じた。
「隣。いいですか?」
どこか幼さを感じるその声に驚き、私は顔を上げる。
「え――あ、はい」
顔を上げた瞬間、思わず彼女に目を奪われてしまった。
黒く艶のある長い髪。幼さの残る小さな顔。長いまつ毛に、どこか陰を感じる黒い瞳。
彼女が私の隣に座った。ふわっと甘いにおいが漂ってくる。
清楚な落ち着いた服装。真夏なのに長袖なのは日焼け対策だろうか、長い袖から覗く雪のように白い手は小さく可愛らしい。
「アマレットミルクをください」
かしこまりました、とマスターは頷き、グラスを取り出す。
マスターが何の疑いもせずに注文を取るということは、未成年ではないのだろう。
「ここにはよく来るんですか?」
微笑みながら彼女が言う。
「ううん、昔はよく来てたんだけど、久しぶりに」
「そうなんですね。さっきから凄く呑んでますよね。もしかして……失恋でも?」
「うん、そんな感じ」
ストレートだが棘のない彼女の言い方に、何故か私は居心地の良さを感じた。
「おまたせしました」
グラスを受け取ると、彼女が私にグラスを向けた。
グラスを上に少し上げて乾杯すると、彼女と目が合った。
「これからきっと良いことがあります」
笑顔で言う彼女に、思わず視線を逸らす。
「うん。ありがとう」
彼女を横目に、彼女と合わせるようにグラスを口へ運ぶ。
不思議な雰囲気の子だと思った。きっと年下だろう。
どうして私の隣に来たのだろう。それが不思議でならなかった。
「あなた、お名前は?」
嬉しそうに顔をほころばすと、
「あい。愛です」
なぞる様に、浸透するように私に言った。
「かわいい名前ね。わたしは綾香。」
「あやかさん」
彼女に口にされると、胸が高鳴るのを感じた。
「愛ちゃんは、社会人?」
「いえ、大学生です。大学二年生」
「そっかあ、大学生かあ」
それにしては大人びているなと、綾香は思った。
「愛ちゃんモテるでしょ。っていうか彼氏いるでしょ」
愛は顔を少し困らせると、
「いえ……男の人、苦手なので」
そう言って困ったように微笑んだ。
もしかしてそっちの気があるのではないかと、綾香はふと思った。
「そっか」
それにしても、なんて可愛らしいのだろう。
グラスを口に運びながらも、綾香の視線は彼女に釘付けだった。
「綾香さんは、こんな時間まで呑んでて大丈夫なんですか?」
無垢に、心から心配してくれるように、彼女は問いかける。
「うん。やけ有給とったから。今日は倒れるまで呑むの」
「身体に悪いですよ。それに倒れたら……」
今にも泣きだしそうな彼女に、加虐な気持ちがふつふつと湧いてくる。
「そしたら、愛ちゃんがうちまで連れてってくれる?」
困ったように微笑みながら、
「わかりました。私でよければ」
自信なさげにそう言った。
ひどい頭痛で目が覚めると、そこは見知らぬ部屋だった。
ふかふかのダブルベッド、裸の私と――、
「っ――」
裸の彼女。
一気に目が覚めて、身体を動かそうとすると、冷たい手がきゅっと私の手を握った。
静かに寝息をたてて眠る彼女。私の手を握る白い手首には赤い線と茶色い線が痛々しく刻まれている。
困ったと綾香は深く息を吐いた。
厄介なことに巻き込まれたかもしれない。
この子には悪いけど、早く家に帰ろう。
「……ごめんなさい」
囁くような小さな声に私は驚き、彼女を見る。
ごめんなさい。彼女は何度もそう口にしながら、閉じた瞼から涙を流していた。
そっと彼女の頭を撫でる。
涙を流している彼女を見ていると、なんだかほうっておけない気持ちになる。
いつしか恋人を失った悲しみは癒え、心はどこかすっきりしていた。
もう少しだけこのままでいよう。綾香は静かに布団に戻り、そして再び眠りに就いた。
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