一月に二度目の満月があったその日、無数のちょうちんの前で楽器の練習をしていたひとの話

 明確な殺意を持って相手を呪ったことがばれたら、罪に問われるのだろうか。

 ひたひたと石段を登りながら、そんなことを考えた。

 満月の煌々としたあかりが降り注ぐ夜。町中を歩いているときは、猫のカップルがブロック塀の上でにゃあにゃあ鳴きあうわ、寿司詰めを持った酔っ払いが歌いながら歩いているわ、呪いを決行するにはふさわしくない騒がしい夜だった。

 けれどここまでくればその喧噪も遠い。人や猫の気分を惑わしているようだったあやしい月明かりも、暗い石段を上るのを助けてくれる、静かで優しい道しるべだ。

 呪うしかない、と決めたのは前の満月だった。思えばあの夜は月明かりを繁華街の狭く汚い駐車場で受け、あやしい明かりに思いをとらわれてしまったのだろう。

 呪おうと思ったのが満月だったので、呪いを決行すると決めたのも満月だった。珍しく、一月に二回満月が見られる時で良かった。もし来月にこの思いを持ち越していたら、流されて絆されて、思いが風化してしまったかもしれない。

 ちょっと騙されていたくらいだったら、別にここまで思わなかった。他に女がいても良い。許せないのは、ただ一人の理解者面して、実際のところ何一つ私のことを分かっていなかったところだ。去るならさっさと去ればいいのに、やれ会社にばらすなだの、口止めだの、うるさいったらありゃしない。そんなことしなくても、もともと誰にも言う気なんてなかったのに。そんな女だと思われていたなんて。

 誰にも言いやしないけど、泣き寝入りするつもりもない。もう少し穏当な方法を選ぼうと思っていたけれど、ここまでコケにされては、呪うことでしかこの恨み晴らせない。

 藁人形に五寸釘。髪の毛や爪の先を手に入れるのなんて簡単。愛情込めて藁の中にねじ込んで、口づけして封印した。けれど昨今では、全ての作法に則るのは難しい。なのでせめて呪いの力を強めるために、呪詛の念を抱いた日と同じ、あやしい力が地上に満ちる満月に、これを決行するのだ。

 石段の途中で道を外れて、林に入る。ご神木がどれかは知らないので、なるべく樹齢が長そうな、立派な木を選ぶ。

 けれど、ここでちょっと困ってしまった。あの木はいかにも立派だけど、前に打ち付けたのもあの木だっけ? それともその向こうの木? 同じ木に呪いを込めるのも気が引けるので、もう少し上まで登ってみることにした。

 いつの間にか私は、神社の境内近くまで登ってきてしまっていたようだった。木と木の隙間から白い石庭が見える。いつもなら回れ右するのに、ふらりと引き寄せられたのは、満月のせいか、それとも別の何か――例えば、涼やかに聞こえる笛の音のせいか。

 気付けば私は境内の裏手に出ていた。お祭りや初詣で来ることもあるから、よく知っている。境内にはたくさん提灯がつるされていて、行事の時はぼうっと灯るそれらがかわいらしいが、今は明かりは入っておらず、どこか不気味に見えた。

 笛の音は近いところから聞こえてくる。建物の向こうだろうか。よく聞けば、時々音が外れて、同じところを繰り返していた。片手に握りしめた藁人形のことも話ずれて、私はふらふらと音の方へ引き寄せられた。

 じゃり、と白石を踏む音が夜に響いて、同時に笛の音が止まる。

 月明かりの下、着流し姿の男性が、ちょうど口元から笛を離すところだった。

 私は、藁人形を取り落とした。提灯に月明かりが入り込んで一斉に明るく灯り始めたような気さえした。

 しばらく無言で見合ったあと、やがて彼が口を開いた。

「丑の刻参りは、困るんですが」

「いいえ、いいんです」

 間髪入れず、私も答える。あいつの髪の毛や爪までなかったことにするように、ぐいっと足で踏みつけ、潰した。

「それはそれで」

「この神社の方ですか?」

 ええ、まあ、と彼は私の足元を見ながら答えた。

「すてきな笛の音だったので、ここまで来たんです。もっと聞かせてくれませんか?」

「練習していただけなので」

「それでもいいんです」

 しつこく食い下がると、彼は渋々といった様子で笛をもう一度口にあてた。そんな表情や仕草ひとつひとつが、すてきだと思った。

 静かに、躓きがちな笛が始まる。呪おうと思っていたことも、怒りも、殺意も、全部忘れた。やがて音がやんだ時、私の心は澄み切っていた。

「さあ、もう帰って」

「お付き合いしてください」

 面食らったような彼の瞳に、月の光がきらきら映る。その瞳に私を映して、同じようにきらきら輝かせたい。強烈にそう思った。

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