記憶と忘却の川の水

ナスカ

プロローグ


「よく来たわね、こんな所まで」


年季の入っていそうな、古めかしい木製の扉を開くと、少女と言っても良いほどに若い女性が仁王立ちで呆れたようにこちらを見下ろしていた。

ハッキリした目鼻立ちのせいか少しキツい容貌だが、文句なしの美人。

茶色に黒掛った髪の色と明るい鳶色の瞳がキメ細かい白い肌をより目立たせていた。

歳は大体二十歳前後であろう。

しかし、扉が開かれた時に丁度ドアに手を掛けようとしていたために間抜けな格好と表情で彼女を見返す形になってしまった。


「……嫌がらせでもやろうとしていたのなら、本気で怒るわよ?」


女性は先程と変わらない表情のまま言う。

流石に今日初めて訪れた家にそんなことをするほど馬鹿ではない。多分。

中途半端な格好をしていても疲れるだけなので、さりげなく姿勢を正し尋ねる。


「あの、ここは」

「わかってて来たんでしょう? なら黙ってついて来なさい」


言いかけた質問を途中で遮り、彼女は背を向け奥へと歩き出した。

美人ではあるが、少しばかり短気ではないか、と思う。


「なに呆けてるのよ。ついて来いって言ってるでしょう。早く来なさい」


振り返った彼女は怒ったようにそう言って、また歩き出した。

失礼極まりない思考に気が付かれでもしたら余計怒らせることになるであろう。


「すみません」


先程よりも早足で進む後ろ姿を、大人しく追いかける。

二階程の高さがある右の棚にはギッシリという言葉がピッタリな程に本が詰め込まれていた。

真っ直ぐに奥に延びた通路の左側には本棚が背中合わせにいくつも並べられいくつもの通路を作っている。

まるで図書館のようだ、などと考えている間に通路の突き当たりまで歩いていた。


「着いたわよ」


そう言って彼女は周りと同じような本棚に手を伸ばす。

そのまま本棚を手前に引くと、扉のように棚が開いた。

中は広い部屋で、応接間のような造りになっていた。

奥の壁には先程と同じものであろう本棚が壁一面に置かれている。


「座ってね」

「……どうも」


また怒られないうちに、と一人掛けの方のソファーに座る。


「それで、あの」

「カウンセリング?」

「はい。この家でのカウンセリング……悩み相談室、みたいなことをやってくれると聞いて」


躊躇いがちに答える。

本当はそれだけではないが、本当にここがそうだとはわからないのだ。


「それだけ?」

「え?」

「わざわざこんな裏通りまで来るなんて、他にも何か理由があるんじゃないの?」


どうやら見透かされていたらしい。


「……単に話を聞いてケアをするだけではなく、別の方法で解決をくれると」

「どんな?」

「嫌なことだけを全部忘れさせてくれたり、とか」

「天と大地の狭間、争いの娘、彼の娘の瞳は何を見る?」


どこからか取り出した夜色の表紙の本を取り出して唐突に尋ねた。


「記憶と忘却の川の水を」

「その名は?」

「テレとムネモシュネ」


この答えを聞くと、ふぅ、と彼女は溜め息を吐いて本をテーブルの上に投げ出した。


「因みにそれを聞いた場所、または人物」

「……夜の人から」

「またあいつか」


途端に彼女の声が低くなる。

隠れた怒り、とでも言うのか。

その声から伝わってくるものは正直に言って、怖い。


「あ、の」


おそるおそる声をかけると、彼女はゆっくりと、微かに俯むいていた顔をあげた。

そして、にっこりと、にっこりと微笑む。


「なんでもないわ」


そう言った眼は笑っていない。


「とにかく、そちらの方の話も聞いているわけだ」

「……まあ」


彼女はひとつ、大袈裟に溜め息を吐く。


「まあ仕方ない。もう来てしまったんだし。真昼、客よ」


半分諦めたような声で彼女は座っているソファーの背後にある扉へと呼び掛ける。

向こうで何か、高く積み上げたものが崩れるような音と、うわっ、と言う男性の短い悲鳴が聞こえた。

それからすぐに扉が開く。

そこから出てきたのは彼女と同じ年頃の青年だった。


「月夜、患者じゃなくてお客さん?」

「依頼人。ゲストじゃなくね。震源地はあいつよ、また」

「ここのところ多いね」

「仲介料とか言ってせびりに来たりしないでしょうね。まあ、来たところで徹底的に追い返すけれど」

「そこまではしないとは思うけど……でもあまり忙しいのは困るから、それだけは言っておいてね」

「大丈夫、それ以上もやっておくわ」


存在を忘れられたかのように、完全に無視をして二人は話し込む。

仕方なく本日何度目になるかわからない呼び掛けを発する。


「あのー」

「あー、そうだった」


まるで今思い出したと言わんばかりの表情で、彼女はポンっと手を叩いた。

どうやら本気で存在を忘れられていたらしい。


「月夜、またなんの説明もしないで僕を呼んだね?」

「キーワードは言わせたわよ」

「説明じゃないよ、それは」

「嫌いなのよ、そういうの。面倒だし」


青年が苦笑する。

彼は席を詰めてもらって二人掛けのソファーへと座った。


「簡単に説明するね。僕は真昼、こっちが月夜。この家でカウンセリングみたいなことをやってる。君が話を聞いた人とは昔からの知り合い。で、ここからが本題なんだけど」


真昼は一度言葉を区切る。

反応を観察するように視線を外さずに、再びゆっくりと言葉を紡いだ。


「僕達は普通じゃない力を持っている。例えば君の記憶を忘れさせたり、反対に忘れてしまったことを思い出させたり出来る」

「……本当ですか?」

「嘘吐いてどうするのよ。大体、あなたはそのためにここへ来たんでしょう?」

「それに、それがわからない程君は馬鹿ではないはずだよ」


彼が普通の人間にここを話すことは滅多にないから、と真昼は続ける。


「……ここを紹介されたということは、夜の人にも見破られていたわけですね」

「あいつをにこにこしてるだけの凡人だと思ったら大間違いよ。人の抱える闇には敏感だから」


少し不機嫌そうに月夜が答える。

確かに、不思議な雰囲気を持つ人だとは思っていたけれど、まさか見透かされているとは思わなかった。


「それで、何を望みに来たのかい?」


静かに深呼吸を繰り返す。

やっと、この願いが叶えられるかもしれない。


「思い出させて、忘れさせて欲しいんです」


月夜と真昼、二人の瞳が何も言わずこちらを見つめていた。


「……僕は、人を殺しました」


その言葉が嘘であったら、どれだけよかったであろう。

それこそが、この願いの発端。


「一番大切な人を、この手で」

「そう」


月夜も真昼も驚きもしない。

ただ視線を外すことなく話を聞いている。


「沙希乃は、病気だったんです。治ることのない、重い。使っていた薬の副作用からか、身体に激痛が走って動くこともままならない状態でした」


私を殺して。

そう嘆願する彼女の声が耳元に蘇る。


「殺して、と。彼女は会う度に言っていました。それであの日、僕は……」


救いたいという思い。

何も出来ない悲しみ。

今ではもう、それすらも感じられない。


「この手で、沙希乃の首を絞めました」


途端に視界が歪み、一粒の涙が溢れた。


「あれからもう五年たちます。そしていつの頃からか、少しずつ沙希乃のことを忘れ始めました」

「人の記憶は時間が経つ毎に薄れていく。例えどんなに覚えていたいことでもね。それが人の記憶の運命なんだ」

「……そうかもしれません。けれど、僕の中から沙希乃が段々とおぼろげになって忘れられていくのに、僕は耐えられない」


閉じた瞳からもう一筋、温かさが頬を伝う。


「それを思い出したいのね。それで、何を忘れたいの?」

「沙希乃を殺したことを、忘れさせてください」


月夜の表情が、気に入らないとでも言うように不機嫌を表した。

その横で対称に真昼は穏やかに微笑む。


「でも、彼女を殺したことを忘れて、その後どうするんだい?」

「……忘れてから、考えます。まずは彼女のことを思い出させてください」

「それは僕の仕事だね」


そう言うと真昼はテーブルの上の本を手に取り、こちらへと差し出した。

わけがわからず彼を見ると、読んでごらん、と笑顔で返される。

おそるおそる本を開く。

何も書いていない白い頁の中に、沙希乃の笑顔を見た。

次を捲ると拗ねた背中が、次を捲ると抱き締めた時の温かさが、香りが、声が。

彼女と過ごした時間が、蘇る。


「ありがとう、ございます」


夜色の本をそっと、テーブルの上に置く。

忘れていたのは、この気持ち。


「すみません。お願いします」

「本当にそれでいいの?」

「無責任だというのはわかっています。でも、僕は彼女といつまでも過ごしていたいんです」

「そう」


今度は月夜が、テーブルの上から先程の本を取り上げて乱暴に放り投げた。

受け取って頁を捲る。

周りが見えない。

本にだけ意識を集中させ、次々と頁を捲る。

最後の裏表紙を閉じると同時に、意識が遠くなっていくのを感じた。



* * * * * *




「本当、無責任過ぎるわ。殺しておいて忘れようなんて」

「仕方ないよ。それに、これからあの人にはその分の罰がくる。もういなくなってしまった恋人の幻影を延々と追いかけ続けなくてはならない」

「それって、罰かしら。あの人は彼女がいなくなったことを知らないのに」

「既に終わってしまった過去を追い続けるのは不幸だよ、月夜」

「……不幸になると知っていて、真昼は彼の願いを叶えたわね」

「無責任だと思っても、月夜は彼の願いを叶えたね」


記憶の川の番人は微笑む。

忘却の川の番人は、仏頂面になって、テーブルの上に置かれたままだった本を手に取った。


「人の記憶って面倒ね。すぐに何かを忘れるし、無駄なことはいつまででも覚えている。記憶も忘却も、自由に出来れは良いのに」

「それが出来たら誰も苦労はしないさ。人の記憶は脆いけれど、なかなか壊れない。だからこそ人間は強くて儚い」


そう、と女は呟いた。


「真昼なら、人が物事を記憶する意味を知ってる?」

「なら、月夜は人が忘却していく理由を知ってる?」


男は微笑いながら問い返す。


「知らないわ」

「僕だって知らないよ」


二人の番人は視線を交して微笑む。

彼の人の記憶の夜色の本は、棚に空いた一冊分の空白を埋めた。

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記憶と忘却の川の水 ナスカ @KOIKURENAI

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