一夜のキリトリセン

白地トオル

 ひゅっ、と。


 鋭い刃先を鳩尾みぞおちに突き立てられる。

 反射的にお腹がへこみ、そして息を飲む。刃が肌に触れていないことに気づく。安堵とともに、妙な浮遊感が身を包んだ。

 差し出された〝ハサミ〟の刃をそっとつまみ、美波みなみの方にくるりと半回転させる。


「美波、ダメだよ。人にハサミを渡すときはね、こうやって……、コッチの方を持って渡してあげるんだよ。分かった?」


 僕は美波の小さな手を取り、ハサミの刃を彼女の手に握らせた。


「持ち手の部分を渡してあげないと危ないよね」

「……うん」


 美波はどこか腑に落ちない様子だったが、それでも、大人の言うことにまだ疑問を持たない年頃なのか、黙って刃を持って柄の方を僕に差し出した。


「ペタペタペタペタ…………」


 呟きながら、美波はお花の形に切り取った赤い色紙を、今度は白い画用紙に張り付けていく。彼女は切り絵に挑戦しているらしかった。誰も彼女に切り絵を教えたことがない。彼女は日常テレビを見ることも許されていない。まだ保育園にも通っていない。それなのに、彼女は〝切り絵〟というものをどこかで知り得たのだ。あるいは、自分の頭の中で想像したものを実践できる生来の才能があるのかもしれない。


「それ、お花さん?」

「ペタペタペタ……」


 彼女は僕に構わず、切り取ったお花を下地の画用紙にくっつけていく。


「綺麗なお花さん。上手く切れてるね」

「ペタペタペタ……」


 彼女は器用に指の腹を画用紙に押し付ける。花びらの先がペロンと捲れ上がると、米糊を指で絡めとり、その指で裏面をなぞっていく。そうしてまた別の指を使って優しく押し付けていく。

 やっぱり、この子は特別だ。生まれてまだ三年と経っておらず、ついこないだまで、どこに行くにも抱っこしてあげていたのに。あの姉の子だとはいまだに信じられない。


「―――――ペタ、ペタ」


 美波がふと手を止めた。そして、隣に座っていた僕の膝頭を乱暴に叩いて、


「チョキチョキ! チョキチョキ!」


 と言いながらハサミを催促する。


「いい加減……、僕はお道具箱じゃないんだぞ」


 まだ体温の残るハサミの刃を持って、柄を彼女に差し出した。

 彼女はそれを素早く奪い取ると、青い色紙を手にし、大胆に切り込みを入れていく。恐らくまた花の形に切ろうとしている。下書きはない。そこに見えない線が見えているわけでもない。きっと彼女は初めから、四角い紙を花の形に切るには、どのタイミングで、どれぐらいの角度を付けて曲線を描けば綺麗なお花に見えるのかを知っているのだ。


「チョキチョキ……、チョキ、チョキチョキ……」

 

 だけど、彼女の手さばきがいつもの本調子ではなかった。

 

「美波、ごめんな」

「チョキチョキチョキ……」

「叔父さん家、その大人用の大きなハサミしかなくて」


 何度も切り込みの角度を変えるたび、持ちにくそうに柄を握り直す。


「チョキチョキ……」


 美波は黙って許してくれた。大人のワガママだけど、そういう風に解釈した。


「楽しい?」

「チョキチョキチョキ……」

「切り絵、どこで覚えたの?」

「チョキチョキチョキ……」

「完成したら、叔父さんにちょうだい?」

「チョキチョキチョキ……」


 彼女は僕に目もくれず、切り絵に没頭していた。

 この子はずっとこうだ。一度集中モードに入るともうてこでも動かない。黙々と作業に打ち込み、自分の世界に入ってしまう。いったい両親のどちらに似たのか。義兄の圭一けいいちさんはそういう人じゃない。実家に挨拶に来たあの日も、優しい笑顔で終始周りを気遣い、他人のための行動を優先する自己犠牲の塊のような人だ。僕もあの人には幾度とお世話になった。志望の理系大学に入学するため、受験勉強に打ち込んだ高校三年の夏。成績が振るわず、何度も〝文転〟を考えたけど、その度、圭一さんが僕の背中を掴んでくれた。国立の理系大学出身で、現在も大手医療機器メーカーの研究科に勤める彼が受験との戦い方を教えてくれた。

 

 『自らを律する、と書いて自律』―――――人間はどこまでいっても欲に溺れる動物だ。日がな勉強に打ち込んでいると、明日くらいは遊んでもいいや、明後日もいいやとどこまでも欲に走る。それなら、自分で自分を縛るルールをひとつ作ればいい。日常、自分たちの行動が法に律せられているように、自分の行動を自分で律せばいい。

 

 圭一さんはそんなことを教えてくれた。

 その時、僕が最初に決めたルールは『週末十時間勉強しないと、夕食を抜かなきゃいけない』というものだった。受験生にとってその日その日唯一の楽しみは〝食事〟だ。それが抜かれるとなると必死にならざるを得ない。自分で決めたルールに縛られるなんて馬鹿らしいと思っていたけど、いざ実践してみると、それを破ることの方が段々と怖くなってきた。だから、本当に夕食を抜いたことはない。薄々と気づいていたからだ。本当に夕食を抜く事態になった時、全てが崩壊する、と。


 受験勉強が佳境に入る最中さなか、圭一さんが僕の部屋を訪ねた。勉強は捗っているか、と。僕は圭一さんのお陰で順調だと答えた。〝自律〟の方法について説明すると、圭一さんは笑って答えた。


―――――それだといつか限界が来るよ。××くらいやってのけないとなあ。


 僕は驚いた。そこまでやらなきゃ受験に合格できないんだ。『夕食を抜く』くらいのことはまだまだ自分を律するに甘すぎる罰だったんだ。確かに食事を制限したところで、自分の弱い心を縛ることが出来るなんて考えてみれば馬鹿らしい。

 逆に、『毎日十時間勉強しないと地球に隕石が降ってくる』くらいの切羽詰まったものじゃないと。いや、それじゃあ、そもそも受験する大学も、この日常も無くなるわけだから、それは駄目だ。じゃあ、なんだ。僕がやりそうで、でも、絶対にやってはいけないような、何か。


 考え、考え、しばらくして家に合格通知が届いた。

 第二志望だったけど、念願の理学部だったから、僕はもう〝自律〟をやめた。

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