ピーチフル! ~永久凍土で春を待つ人々~

プリンぽん

第1話

 オールドレイク(旧湖)だと思われる広大な平原で加速された風は犬に追われる羊の大群がごとくモコモコと粉雪こゆきを巻き上げ進んでいく。


 やがてそれは残丘ざんきゅうにぶつかり、最寄りの山小屋を霧のように覆い尽くした。


 小屋の中ではメキメキと暖炉で薪が燃えている。そして赤ん坊が泣いている。


 少女はよろいの胸板を剥がして服のボタンをはじき、白い乳房を露わにした。

 なにも出るはずがない。少女は男を知らぬ生娘であった。

 それでもたとえ偽りでも安心したのか赤ん坊は泣きやみ、

 少女はそのむず痒き痛みと共にほっと、胸をなでおろすのであった。







「身分証明書を提示するように」

 街を取り囲む石壁は、非常にりっぱなものだった。門番はただ惰性で先程の言葉を発したのであるが、少女の赤い鎧を確認すると慌てて一礼を付け加えた。


 少女の思惑どおり山小屋から街までそれほど遠くはなかった。小さな街に見えたが正式な店舗の他に露天もあり、そこには活気のある人々の笑顔が満ちていた。人間が生きるために必用なもののすべては、この街だけで賄われている風だった。



「すまないが赤ん坊に乳をもらえる所はないか?」

「はぁ? 自分で産んでおいて……」

 声をかけられた職人風の男は振り返り、途中で言葉を飲み込んだ。相手が赤い鎧を着ていたからである。


「えー、その先のギルドがやっている互助会なら……」

「かたじけない」

 ギルドはすぐに見つかりなんなく目的は達せられた。とりまとめらしき女性は笑顔で日に3度は連れてくるようにと少女に語った。それには少女は閉口した。



 取り急ぎの用事も済んだので、あらためて少女は街中を散策する。

 人々の営みとは不可思議で、宿場を探せば自然とそれらしきモノはそれらしき場所にある。なんとなくわかるもので、そして見上げれば何軒か並ぶ宿屋の二階の窓辺に黄色い十字架をかたどった盾が吊してあった。


 少女は一階にいる宿屋の店主に、あの盾の所有者の連れだと伝え、部屋に案内して貰った。





「セレンのあねさん、遅かったっすね…………………………………………………………………………………………………………って、なんですのんっ! その赤ん坊!!!」

 部屋に入るなり、カッパギのアルフェスが目を丸くした。


「道中、拾った」

「いやっ、拾ったって」

「すまないが昨晩は寝ていないんだ。一眠りするよ。3時間置きにこの子にミルクを飲ませてやってくれ」

 それだけ言うと、少女は鎧も脱がず宿屋のベッドに倒れ込んだ。ギチルッ、と鎧のきしむ音だけが残った。


「まだ昼前っすよっ!? ったく、なんだよ三時間おきのミルクって? そりゃ……赤ん坊なんて今どきめずらしいけれど……」







 冷たい雨が降る朝だった。

 少女は20時間以上寝ていたことになる。体の骨と鎧のきしみを同時にポキポキと鳴らしながら、少女は部屋の居間にのっそりと現れた。


「姉さんいったい何時間寝てるんですか? ……ブルーバードがやってきやしたぜ」

 アルフェスの言葉に少女が目を泳がせる。簡易テーブルの上で青い鳥が濡れた翼を嘴で手入れしていた。そして少女に気づくと体を振動させ、機械音を発する。


「教授からの伝言です。『もしもしセレン様。いやぁ、中世ヨーロッパ風の世界観は素晴らしいですな。生きている実感があります。人間本来の姿とはやはりこういったモノではないでしょうか? 勿体ないので、合流は少し遅らせて存分に楽しもうかと思います。時間は腐るほどあるので構わんでしょう? では後ほど』だそうです」

 ブルーバードは振動をやめ、可愛い目をパチクリとさせた。


「そんな用件でブルーバード飛ばすなやっ! なにあの欠陥品じじい。売春宿にでも入り浸ってんじゃないだろうな? じじいの癖にっ!」

 アルフェスは顔をしかめた。


「老人だとて教授には、リビドー性的衝動エネルギーがあるのだから大目にみてやればいいよ。それにどうやら、急ぐ仕事でもないらしいからねぇ」

「別にのんびりするならそれはそれでいいですけど……あっ! こっちのが問題だ。大問題だ!!!! なんなんすか? 6回もミルクやらされて、うんち処理もしたんっすよ!」

「ああ、そうだったね。めんどうをかけた」

「ああ、そうだったねじゃねえです! こんなもんどこで拾ったんすか?」

「その話は追々ね。どれそれじゃあ出かけるとするか」

「どこいくんっすか?」

「最低でも、一日一回は生乳なまちちやらないといけないそうだ。赤ん坊ってめんどうだねぇ」

 そう言うと、少女は赤ん坊を抱き上げて、眉根をハの字にした。お出かけに喜び、ブルーバードが嬉しそうに小さく羽ばたいて、スィーと少女の肩に留まった。



 雨にもかかわらず街は昨日と同様、活気に満ちていた。どうやら特別なお祭りなどではなく、これがこの街の日常らしい。少女は、屋台の間を縫うように歩かなければならなかった。


「おでかけ。赤ん坊。おでかけ。赤ん坊」

 ブルーバードが体を震わせる。


「オウムの真似をするな。きちんとしゃべれ」

「失礼。いやぁしかし活気のある街だね。赤道直下のフィンランドやノルウェーからは随分と離れていて人間が暮らせるギリギリの地域なのに……」

「おかげで助かったよ。ここでは妊娠している女性もそこそこ居る。そうじゃないと生乳なんかもらえないからね」

「今は夏だからこれくらいの寒さだけど、冬になったら極寒だよ。それに宗教なんか残ってる。青い鳥は幸せの象徴ではなく『木の上からそそのかすモノ』 ってサタン扱いされてるから焼き鳥にでもされそうでヒヤヒヤだ」

 

 離れ地にぽつんとある露天に、少女の目が奪われた。


 なんて素敵な品を取り扱っている店だろう。腕輪、ネックレス、ピアス、どれもが秀逸だ。中世ヨーロッパ風の世界観は女心をくすぐってくれる。


「手にとってみてもいいですか?」

 少女は店主らしき中年の女性に声をかけた。


「構わないけど、あんた金は持っているんだろうね?」

 ……金? あぁ……この世界の……


「あの……その……」


「だろうねぇ。ここは仮想世界じゃないからね。現実だよ? 地下空間から来たばかりかい?」


「……いえ。海中都市から……」


「なんだいエリートじゃないか。どっちにしろ中世ヨーロッパ世界にブルーバードは似合わないさ。金がないなら邪魔だからかえっとくれっ!」

 リビドーを失っても、女の敵は女だなと少女は思った。

 中年の女性には赤い鎧への畏敬の念はみじんも感じられない。

 一般人には危害を加えられないことを十分に理解している。


 一礼して、少女はその場を後にした。

 外に出た目的は赤ん坊に生乳を与えることで、アクセサリーは今度でいい。


「あんたは一足先に宿屋に帰っておくれ。どうやらあんたはここでは嫌われているようだよ」そう言うと「やっぱり地上は偏屈な人間が多い」とブルーバードは少女の肩から飛びすさっていくのだった。





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