八月上旬 その三

 今日もスマートフォンのアラームが鳴る。濃子は布団から手を伸ばし、それを止める。ついでにアプリを開いて、天気予報を確認する。

「今日は曇り」

 最近、気持ちが晴れないのに、空までどんよりになるとさらにへこむ。まるで自分には希望がないんだと言われているような気がして嫌気がさす。

「アレ…?」

 何か、違和感がする。

 濃子はすぐ、自分の身の回りを確かめた。

「何も、ないよね…」

 別にどこかが腫れているとか、痒いとか、血が出ているとか…。そういうのは一切なかった。

「ない…? ない!」

 右手首を見た。昨日まで巻いてあったミサンガがないのだ。違和感の正体はそれだった。

 布団から出て、探してみるとそれは枕元にあった。

「切れてる」

 一本の紐状になったミサンガを指でつまみながら、言った。

 ミサンガが切れたということは、願いが叶ったということだ。

 でも願いって…。今は瑠瀬の目が覚めることだが、これを巻いてもらった時は違ったはずだ。

 濃子は思い返した。あの時、麻林は何を言っていたのかを。

「瑠瀬の幸せ…」

 それを思い出した瞬間、濃子はすぐに支度をして家を飛び出した。

 今の瑠瀬の幸せは、何だろうか? その問いに濃子は答えたのだが、その解答の通りなら…。

「まさか…」

 一瞬だけ、考えてしまった。瑠瀬の意識が戻らず、脳死と判断された時のことを。そしてその先を。

 瑠瀬はみんなに看取られて、本来濃子が行くはずだった世界に旅立つ。最後までみんなに囲まれているなら、幸せな死なのかもしれない。

 少なくとも、今の意識がない状態が続くことが瑠瀬の幸せとは思えない。

 でも死ぬことが、はたして本当に幸せなのだろうか。この時の濃子には、それを考える余裕がなかった。自分が死ねば瑠瀬は幸せと、平祁から聞いていたためである。濃子には、死と幸せを切り離して考えることが不可能だったのだ。


 電車で栃木駅に着くと、すぐに病院に向かう。そして瑠瀬の病室に駆けつける。

 ドアの前で、少し待った。呼吸も心拍数も乱れている状態で瑠瀬が息を引き取ったことがわかったら、自分も心臓も止まりかねない。

「…………」

 病室の中から、医者や看護婦の声が聞こえる。何を話しているのかは聞き取れないが、昨日のこの時間には、特に何もなかった。医者がいるということは、それ相当の何かがあったということだ。

 覚悟して、濃子はドアを開けた。


「あ…」

 目の前の光景が、信じられなかった。

「濃子…。大丈夫なのか?」

 瑠瀬は、目を開けていた。体を半分持ち上げて、医者に聴診器を当てられている。

「異常はないみたいだな」

 聴診器をしまうと医者は、採血して部屋から出て行った。

「濃子。無事…だったんだな、俺たち」

 濃子は何度も頷いた。流れた涙を瑠瀬に拭き取ってもらいつつ、あることを思い出した。

 麻林のミサンガに込められた願いは、瑠瀬の幸せじゃない。ミサンガを組んだ時、麻林は、瑠瀬に振り向いて欲しいと思っていた。だから願いは、瑠瀬が振り向くこと。その形が何であれ、瑠瀬は意識不明の重体から振り返ってこっちの世界に戻って来てくれた。

 言わなければいけないことを瑠瀬に伝える。

「瑠瀬、驚かないで…。平祁も源治も、消えてしまったの。自分たちの未来に帰ったとは思えない。きっと…」

「…? 何のこと?」

 話の途中で、瑠瀬が遮った。その言葉に、濃子は驚きを隠せない。

「な、何って…。あの日も途中まで一緒にいたじゃない?」

「一緒? 俺は濃子の分しかチケット、買えなかったけど…」

 話が一部、噛み合わない。濃子は瑠瀬に、事情を説明した。しかし返って来た言葉は、

「全然記憶にないんだけど…。そんな人たちが本当にいたの?」

 しかもそれだけじゃない。次の日麻林と共に瑠瀬に会いに行くと、

「今日は面白い夢を見たよ。和哉がホームラン打つんだけど、何故か観客席じゃなくてサッカーゴールに入ってさ。レッドカードをもらって、怒ってバットを折って球場から出て行くんだ」

 瑠瀬が見る夢は、全て予知夢だったはず。それに関して聞いてみると、

「そうだっけ? それは覚えてないな…」

 としか帰って来ない。

 瑠瀬には、平祁と源治だけでなく、予知夢に関する記憶もなかった。


 それは、後遺症なのだろうか? そう言われると濃子の頭には疑問がある。

 かつて平祁が言っていた歪み。それが、二人を過去へ干渉することを妨げた。でも今の瑠瀬には、それがなくなっている。

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