七月 その三

 理科室では、実験が行われていた。しかしテストが近いので、簡単な実験だ。あまり出欠に厳しい部ではないし、試験勉強もある。だから今日は瑠瀬と朋樹と徹しかいない。

「準備はいい?」

 北上先生が言う。三人は頷いた。実験台には、必要な器具がすべて揃っている。先生が理科準備室の冷蔵庫から、冷やしておいたタマネギを取り出した。

「まずはこれをミキサーに入れて粉砕する…」

 ミキサーには予め、十パーセントの食塩水を入れておく。

 その場でジャンケンをし、勝った朋樹が行った。ギュルルルルルと音を立ててタマネギは粉々に砕け散る。

「これをろ過。今度は瑠瀬の番だな」

 一度ミキサーの中身をビーカーに移し、ナイロンメッシュでろ過する。この感触が、ちょっと嫌だったからジャンケンで勝ちたかった。ろ過されない固形物はいらないので、ゴミ袋に捨てる。

 次の作業は三人で行えるよう、ビーカーの中身を、一回り小さいヤツ三つに分ける。それに、台所用洗剤を含めた食塩水を静かに加えた。

「では、今から十分間。かき混ぜましょう。ゆっくりよ?」

 ガラス棒でかき混ぜる。何度も何度も、円を描くように。十分後、先生が冷やしてあったエタノールを持って来たので、それをビーカーに静かに注ぐ。

「ほほう」

 白い沈殿が浮き上がってくる。これがDNA。まだ粗製であるが。ガラス棒で巻き取って取り出す。それをまた別のビーカーに移した。

「はい、食塩水」

 それを加えて、粗製DNAを再び溶かす。そしてビーカーをガスコンロの上に置き、温める。

「どうして百度にするんですか?」

 朋樹が先生に質問した。

「いい質問ね。それはね…不要なタンパク質を変性させるためよ。今のままではDNAだけじゃなく、いらないタンパク質もついてくるの。それを除去するには化学薬品って手段もあるけど、中学レベルじゃ危険だから、温めるの」

 温める時間は五分。

 今度は瑠瀬が聞く。

「DNAの方は大丈夫なんでしょうか?」

「心配しなくて大丈夫よ。DNAはタンパク質じゃないから、百度でも変性しないから。実際にPCRっていうDNAを増やす実験では、操作の途中で九十度ぐらいに加熱するけど、肝心のDNAは破壊されないの。二十らせんではなくなっちゃうけど、今回の実験では、肉眼で見ることが目的だから」

 先生は確か、物理専攻だったはずだ。楸中学には物理部がないので生物部の顧問を無理矢理させられているが、それでも丁寧に教えてくれた。

「徹君は何か、質問はない?」

「ええっ? そ、それじゃあ、ゲノムサイズが一番大きな生物は、やはりヒトですか?」

 徹の質問は、あまりこの場にそぐわない。いきなり指名されてしまったから、しょうがないか。

「いいえ。日本固有のキヌガサソウって植物よ」

「どれぐらいなんですか?」

 朋樹が横から聞いた。

「一四九〇億って言われているわ」

「数字を出されても、イマイチピンと来ない。五分経ったので瑠瀬たちはガスコンロの火を消し、ビーカーを鍋掴みを通して実験台の上に置いた。

「ヒトのゲノムサイズが三〇億塩基対だから、単純計算でキヌガサソウは約五十倍の塩基対を持っていることになるわね」

「五十倍?」

 驚く瑠瀬たち。しかし先生は、

「あくまでも、現在までに塩基配列が決定されている生物の中ではの話だから、この先もっと多い生物が見つかる可能性もあるのよ。あと、遺伝子数の多さならヒトより多い生物は沢山いるわ。マウスもイネも、ヒトよりも多くの遺伝子を持つから…」

 先生の話はDNAや遺伝子についてなので、かなり小さな世界のことだ。しかしスケールがデカすぎて、瑠瀬たちはポカーンとしていた。

 実験に戻る。もう一度ろ過して不純物を取り除き、エタノールを加えた。するとビーカーの中に、白いひも状のものが見えてきた。

「それがDNAよ。実験、よくできました!」

「おお、これが!」

 朋樹の声は、達成感に満ちていた。簡単な実験と言っても、成功すれば誰だって嬉しいものだ。

「親から子へ受け継がれていくんだろう? 俺も誰か、次世代に繋いでくれるいい子いないかな~」

 隣の徹が、なかなか気持ち悪いことを言った。スルーしようと思ったが、できそうにないので朋樹が忠告する。

「徹…。それは絶対に女子の前で言うなよ…」

「わかってるよ流石に」

 この会話に、何と先生も混ざってくる。

「ちょっと、じゃあ先生は女子じゃないの?」

「だって既婚者じゃないですか…」

 先生は女子というより女性なので、瑠瀬はそう言った。

「その点、瑠瀬は安泰だよな」

「朋、何でそう思うんだ?」

「だって濃子がいるじゃないか」

 その一言に、瑠瀬はわずかだが反応した。

「幼馴染なんだろ確か。今度東京オリンピックも一緒に行くものなあ。羨ましいにも程があるぜ」

「そうなの? それはおめでたいわね」

「まあ…」

 瑠瀬の返事は、暗かった。二人と先生は、そこで何が起こるのかを知らないのだ。だから瑠瀬と濃子には、明るい未来が待っているかのような発言ができる。

「なんだよ、ノリが悪い奴だな…。行けなかった麻林の分まで、楽しんでくるんだぞ!」

 朋樹に言われるも、ここで瑠瀬は明るい返事はできなかった。決心は固いものの、実際に起こることを再認識すると、身震いした。だがそれを悟られるわけにはいかないので、瑠瀬はできるだけ強がって実験の場を上手くしのいだ。

 家に帰ると、両親の手伝いを瑠瀬はした。

「瑠瀬。そろそろテストだったはずだろう? 勉強に集中してくれないか?」

 父が言った。しかし、

「気分転換だよ」

 と嘘を吐いた。この店も、あと少しでなくなる。源治がそう言っていた。ならまだ存在する時に、少しでも多く記憶に残そう。

 母に言われた通りに注文を聞いていき、父の作った料理を配膳した。閉店後は一人で掃除も行った。

 自分の夢は、叶えられない。いつか必ず立とうと思っていたキッチンを台拭きで綺麗にしながら思った。でも濃子と一緒にいられるのなら…。同時にそれも考えることで、悔し涙を抑えた。

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