五月下旬 その一
「瑠瀬、母さんちょっと用事があるから、テーブル拭いておいて」
母が頼みごとをした時、瑠瀬は既に台拭きを準備していた。
「言われなくても」
母が喫茶店から外に出た。父も今日はいない。だから自分しか、店を掃除できる人がいない。閉店後の喫茶店に、一人残されている。
一見すると子供に仕事を押し付けているように見えなくもないが、瑠瀬は瑠瀬で満足している。将来ここを継いで、キッチンには自分が立つんだ。昔からそう思っている。
「そういうことに関しては、夢を見ないんだよな~」
やや自虐的な独り言を呟いた。
その時だ。店のドアのベルが鳴った。もう帰って来たのか、いいや忘れ物をしたのだろうと入り口を向くと、瑠瀬の全行動が止まった。
「だ、誰…?」
知らない人が、喫茶店に入って来た。若い男だ。
「す、すみません。今日はもう閉店ですし、僕がキッチンで料理作るの、まだ許されていないんで…」
閉店時間とわからず入って来てしまったのだろう。そう思っての発言だったが、男はそんな感じをさせない。瑠瀬の顔を見るや否や、手に持っているタブレット端末の画面を確認する。
「お…。オマエが毒島瑠瀬だな? オレはオマエに用がある」
不思議と、不審者のように感じなかった。そのため瑠瀬は席に案内し、お冷を彼に差し出した。男も素直に座ってくれた。瑠瀬も向かい合って座り、話を聞くことにした。
「手を引け?」
大声を出してしまった。
「そうだ。これはオマエの将来のために言っているんだ」
男は名前を、
「瑠瀬の気持ちはわかる。だが、気持ちだけでは病気は治らない。この先でそんなに悲しみたいのか?」
病気…?
瑠瀬はその言葉に違和感を抱いた。
「ちょっと待って下さい。濃子が一体、何の病気なんです?」
幼稚園から今に至るまで、そんな話を聞いたことがない。
「オレも詳しくは知らない。だが、生まれた時から患っているそうだ。治る見込みがないらしく、今毎日学校に行けてることが不思議なぐらいだと。もちろん卒業したら、遠くの病院で闘病生活が始まる」
「なら…」
なら自分がそばにいてやらないと。瑠瀬はそう言いたかったが、平祁が遮った。
「オマエを巻き込むことはできない」
それを言われては、瑠瀬は何も言い返せなかった。
「今のうちだけ、一緒にいることも駄目なんですか?」
「それをしたが最後、離れることができなくなるだろう? 無理な相談だ」
瑠瀬のわずかな希望も、平祁は奪っていく。
「オレを恨んでくれていい。でもオレたち一族としては、身内の不幸に他人を巻き込みたくはないのだ。わかってくれ。オレはオマエが嫌いだから言っているんじゃない。寧ろ逆だ。高く評価しているからこそ、傷ついて欲しくない」
辛い現実がぶち当たり、瑠瀬は顔を上げることができなかった。
濃子は苦しんでいるのに、自分には何もできないのか…。その無力感が悔しい。
「もしも病気が治れば、すぐにでもオマエを呼ぼう。それは約束する」
「ほ、本当、ですか?」
「ああ。だが、期待はしない方がいい。主治医によれば、余命はあと数年…」
一瞬だけ希望の光が差したかに見えたが、これは多分そうではない。気休め程度だった。
「オマエなら、約束を守ってくれると確信している。オレたち一族はそれぐらい、オマエを買っているのだ」
平祁はそう言い残して喫茶店から出て行った。
打ちのめされた気分になった瑠瀬は、一人席で涙を流した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます