20161107

バルトに対しての肯定的な評価はもちろんなのだけれど、止揚的な批判を見るときに、その通りだと思いつつも、バルトに対しての気持ちが細かいけれども段数がものすごくある階段を、一段ずつ上がっていく感覚がある。

こまで惹かれるということはあまりないし、この気持ちや感覚を無視するわけにはいけないし、無視してはいけない。



お風呂入らないの?って訊くため居間に行ったら、スマホをいじっているところで、見て見てと写真を見せてくる。どれどれと見れば、根津かどっかの神社や下町とかいろいろある古きよき街に遊びに行っていた写真。職場の仲のよいかたがたと行っていたらしく、楽しそうに映っていた。

「これこれ、戦前から焼けてない教会だって、なっちゃんにいいかと思って」「あー、まー、教会ね……きれいだね」「古いんだよ。ほらほらこれ、義信の墓だって。家康と義信だけが将軍家で墓で、いまも夜叉孫のひとが管理してて、土葬か火葬か訊いたんだけれど秘密らしくてうんぬん」「好きだねえ……」

母親は宗教のことについてほとんど興味がないみたいなんだけれど、江戸時代オタクというかマニアというか、私のことオタクと言えないだろって思うくらい江戸時代が大好きで江戸時代について詳しいので、義信の墓ってだけで楽しかったみたいですね。しかもみなさん母親のために行ってくださったそうで。

あとはおみやげらしいコンビーフを口に突っ込まれた。おいしいでしょと言われて、ほんとにおいしかったので、おいしいねーと言っておいた。

まあ母親が楽しそうにしてるのなによりだよ、なんかやっと、って感じだものな。

しかもだいじなところ誤字ってる。「家康と義信だけが将軍家で墓で」ではなく、「家康と義信だけが将軍家で神道式の墓で」って言いたかったんです。いちばんだいじなとこじゃねーかよな……聴いたところだけれども、ほかはぜんぶ仏式だったんだってよ。へー。

誤字ってか脱字だな。しっかりしろ私。



さらりと「松戸」という字が出て来て「!?!?!?」ってなってるんだけれど……シンクロニシティ怖いよお……。

しかもよしもとばななって日芸出身なのね……ふうーん……。

あと「吉本ばなな」ってむかしの表記じゃん?って思いながらWikipediaをざーーーっと見たら、2015年「よしもとばなな」に戻してるのね。さすがにそこまで知らんかったわ、よしもとばななばっかり読む!ってわけでもないし。

しっかしこの本は平成九年のものなので、むかしの表記ってことなんだろな。

私はほんとにいつまで経っても、平成ひと桁時代の女性作家の文章から抜け出せないね。おまえそのとき発生してないか赤ん坊か幼児だろ、って自分に対して思うのだけれど。

もうさ、私は平成ひと桁時代に出版された女性作家の小説やエッセイやよくわかんないイラスト本や対談本やそういうのぜんぶ、読み尽くすしかないのかもね。

小説のための勉強としてだったら現代の小説だって進んで楽しんで読んでいるし、学問のための勉強としてだったら古典作品だって進んで楽しんで読んでいる。だが、ふう、と息をついて手に取る本、そういうのがいつまで経っても変化しない。十年。もう、十年以上だ。ずっと、そういうのを、読んでいる。

現代のほうに意識を向けようとしたこともある。だが向かないんだな。本棚に溢れかえるのは、似たような本ばかり、私の本棚なんかたかが知れているのだから、そのわずかな本だけで、私の根本はできあがっているということだ。

自分のレーベルの新人賞くらい追わなきゃなとか芥川賞や直木賞くらい追わなきゃなとかベストセラーくらい追わなきゃな、って、そういう気持ちはあるんだよ。だがねえ、いまのところ追いかけてはいないねえ。

まあもうしょうがないんだと思う。悲観するようなことでもなし。潔く読んでいくわ、果てがあるのかわからないけれど、平成ひと桁台というのはもう二度と来ないわけだから、読書という行為においてはまーだ希望があるのかもね。



吉本ばななが特定の宗教のことを言っていないということなんか百も承知だが、吉本ばななの書くものはそれこそ『キッチン』をはじめとしてすっごく宗教的だというのはほんっとむかしから思ってるし、でもそれってなんだろうとはわからなくって、でもいま思ったの、すごくね、カトリック的だなあ、と。

もちろん違うかもしれない。吉本ばなながどう思っているか、ほんとうのところはわからない。だがそうではなく、吉本ばななの抱く世界観というのは非常にカトリック的である。どこがって、静的なところだよ。吉本ばななのなかには不動の静かな世界があって、そのうえを生きている、そんな感じがする。

おぼろげにカトリックのいう「静的な神」を感じていたんだけれど、ここで確信めいた。「だとすると本当に世界はひとつ、でもみんなそれぞれの個性を反映させていろいろな表し方で描いているものが実際ひとつのものだったりしてすごく美しい。」(吉本ばなな『夢について』「木目の夢」p104)

そうなんだよね、もう言いたいこと言うけれど。カトリックの世界っていうのはさ、ほんとうにうつくしいんだよ。音楽や建築などの芸術との親和性が非常に高いのも、カトリックが根本的に抱くものが「美」だからなんだよ。カトリックはそこが最大で最高の極致だし、だからこそ危険性もあるというか……。

ここのフォロワーさんとはいろんなお話をさせてもらっているけれど、それでも宗教の話というのは現代日本においてもとてもデリケートな話だし、あんまり簡単に批判をしてはいけない、と思っている。いや、そうでなくてもなにか特定の宗教を批判することは、原則としてはよくないのではとも、でもねえ。

全否定にならないように配慮させていただくつもりだし、そもそもなんであれ特定の思想を「全否定する」というのは倫理的にもあまりよろしくないしそれ以上に論理的にかなり無理があること。

だから、そうだな、なんだ、わがまま申し上げますが、「私見」だと思ってくださると助かります。表はいちおう立場というものはあるが、ここは私的な立場で、でもあまり過激にならないよう、気をつけるので、まあまたなんか言ってんなーくらいで、流し見していただければ、と。



クリニックとかならいざ知らず、精神科の総合病院の受付日時ってほんとひとを舐めてると思うから、もうちょいどうにかしてほしいってわりと本気で思う。火曜午前と木曜午後だけっておかしいでしょ木曜午後とか授業だわ。火曜午前だって病院に合わせて無理やりこじ開けたみたいなもんだし……。

まあわかるよ、わかる、そもそも私の病気をもっているひとで、仕事したり学校行っているひとなんてほーんと少数なんだもんね知ってるさ。私だっていちおう寛解したからそうなわけでさ。でもなーんかおかしいよねえ。

精神病にかかったという、その一点だけでなんでどうして社会的生活を奪われなきゃならんのか。納得いかないよ。

病気であれ精神であれ、精神じゃないやつは、もちろん種類や程度にもよるけれど、それでもまだ社会的生活はできる場合のが多いじゃないの、ってねえ、思っちゃうんだよねえ。

自分の病気についてネットなんかで調べていると、ほんっと舐めてるというか、肯定的な意見も否定的な意見も、はては公的なサイトのアドバイスでさえも、精神病にかかったというだけで一段下に見てるやつが多いのほんっっっとどうかと思う。

さいきんいちばん腹が立ったのはあれですね、「精神病のひとが結婚したいと言ったら、頭ごなしに否定するのではなく、成長したのだと思って見守ってください」ってやつ。ほーーーんと舐めてんのかと、小学生じゃねえんだよこっちはふざけてんじゃねえよ、と。

と、まあ、あんまり愚痴るのはよろしくないですが。

精神病ってもちろんそのものの生きづらさみたいなものもすごいんだけれど、現状かなり偏見と差別があるし、もともと「苦手」だったものが「あなたは精神病なんだから」っていう環境によって、「苦手」ではなく「できない」になってしまって、ますます生きづらくなっていくってこと、あると思うんだよ。

難しいんだよな、そこらへん。勝手に断薬したりするのはまずいんだろうが、主治医や家族の言うことを鵜呑みにしてもよくない場合があるっていうか。私だって数年前にはもう社会的に生きられない宣告みたいなのされたからな。小説家もやめといたほうがいいって言われたし。だがいまどうよ、って感じ。

まあなにが言いたかったって、あした午前の何時間かをただ毎日体内に投入する炭酸リチウムとなんたらかんたらみたいなやつを受け取るがために、ただそれだけのために、私の何時間かを費やすんだなーーーと思っていただけお風呂のなかで、それだけ。



なんであれいままでの世界に対する認識は、すべて自分を通してのものなのだと、当たり前のことなのだけれどそのことを実感する瞬間がときどきあって、そういうときってなんともふしぎな気持ちになる。ありません、そういうこと?

客観や論理とどれだけ声高に叫ぼうが、世界の認識はすべて自分によるものであって、自分を介さない世界というのは自分にとってありえないという、事実、単純な事実に直面すると、いつもふしぎな気持ちになって、どうすっかなー、みたいな、そんな感じになるんだよね。

きのうの昼間だか、客体として認識されたくないむしろ自分が認識したくない、とさんざん駄々をこねたが、あれと根っこはおんなじ感覚ですね。部屋にいて、声帯と表情筋をつかわずにただひたすら本を読んだりキーボードを打ったりする時間というのは、直接的な関係性がなくて、特殊な時間だと思う。

私はいままでの人生においてのそういう時間の累計が、たぶんわりとあるので、なおさらそう思うんだろうね。

高校のときもよく言ってた、というか書いてたもんね。「喋るよりも、書くほうが話せる」って。それはこういうことだったんだな、って。

私だって、ふだん負の感情とか、そこまでいかなくってもそれめいた感情を抱かないわけじゃない。ただ私は、感情と身体表現があまり結びついていないというか、結びつける練習をしてこなかったので、かなり下手なんだな。適度に身体で感情を表すことができないから、爆発したときやばいっていうか。

すっごく苛々しているときにキッチンで水を飲んで、鏡があるから鏡を見ると、顔になにも浮かんでいなくって、むしろびっくりする、みたいな。そしてそのことによってますます苛々する、みたいな。

なんというかここらへんの違和感全般。私だけってことはまさかないだろうが、こういうのをもっているひとがいたらお話したいなあ、とは思う。

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