20161108
さいきんではゴッホとゴーギャン展、よかったなあ。ゴッホもゴーギャンもすごくその絵が好きというわけではなかったのだけれど、エピソードは好きで、ゴッホとゴーギャン展は構成が本気出しまくってて圧倒されるほどすばらしく、エピソードにより絵がわかり好きになるという稀有な逆転現象が起こった。
最初の25分間くらい出席票のコメントを読み上げつつ雑談して、60分間くらいで演繹法をやって、最後の5分で慌てながら帰納法やるあたり、ほんときわまっていて科学哲学の講義大好きだよ。
なんか科哲のE先生を中心に、自主ゼミをやろうみたいな話があるので、やりたいですーと便乗したコメントをしたら、なんとE先生、私の卒論指導も担当してくださっているN先生に相談したらしく、私は戦々恐々としつつも興味津々、愉しくなってきたと思ってる。いったいなにがどーなるんでしょーねー。
なんかもう四回くらい連続で私の出席票が読み上げられる件。きょうのはどうだかな、VRの話に絡めてソードアート・オンラインを持ち出してみたが、はたして先生の興味にふれるのかどうか。
演繹法をやってるときにユークリッドの公理についてもやって、中学生当時は暗記していてあまり意味がわかっていなかった、図形、あの意味がするするとほどけていって、自分でもびっくりした。あったしかに面白いわー、と。
通知で知って、一気読みした。場面緘黙症のことは知っている。私は、いちどだけ、過ちを犯した。だれに話したこともない。ただ、読むしかなかった。★かんもく少女が同人BL漫画を描いて人生救われる話:第一話 | モリナガアメ http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=52332324 #pixiv
きれいごとでも愚痴でもなく、とても、よかった。叫びだった。多くのひとに読んでほしい。書籍も買うつもり。
私は、ほんとうに、決定的な過ちを犯した。告白することすらできない。思い出すことは少ない。だが相手は、思い出しているのかもしれない。たとえばきょうのような冷たい夜に。そのことは消えない。ずっと消えない。私の自己陶酔の道具なんかにしてはいけない、そのことだけは、ずっと守っていく。
世のなかにはもちろんいろんな生きづらさというのがある。そして場面緘黙症というのも生きづらさである。だからみんなに知ってほしい。
次は間違いたくない、誓いたいけれどもこれにかんして絶対というのはない。だから、間違いたくないと、その気持ちだけはもち続ける。
私の罪深いところはもちろんたくさんあるけれど、「弱者が許せない」というのもそのひとつだと思うし、まずいんだろうなあと思っている。自分が弱いから自分よりもっと弱い(と思われる)存在が許せない、っていうね。おとなだからではなく、小学生のころはすでにこうだった。過ちはそこから起こった。
「私(なんかのなんの取り柄もなく劣った人間)ができること(私程度の劣った人間にできるんだからすごく簡単でどうでもいいこと)が、できない、なんて(劣っている私より劣っているなんてありえない、努力してない、なのにどうして笑えるの?許せない許せない許せない)」って感じだったのですよ。
ぶっちゃけいまもこの思考はこびりついている。あえて言えば小学生高学年のころがいちばんひどかったかなあ。私はそこで笑顔を覚えたのだし。中学は環境はともかくはじめて「自分の言葉で」話をできる相手と出会えたし、高校は楽しくて優しかったし、よくはなってきているけれど、でもまああるなあ。
私が回り道して過剰に他人を持ち上げてしまうよくない癖は、ここらへんから出て来ているのですよ。基本的に私の思考って「私が底辺」だったから、まあいまはちょっとよくなっているけれど、「私ごときの基準で相手をはかってしまっては申しわけない。このひとならこのくらいできる!」って思い込む。
その思い込みは、周りのひとにとっては嬉しい場合より苦しい場合が多いのだと知ったのは、じつはここ数年なんだよねえ。
自分より「弱い」とか「できない」と自分が思い込んだ存在が、それでも家族がいたり友だちがいたりして、笑えることが、なんというかそのときはほーんとに許せなかったんだよなあ。そこでぐるぐるしてたなあ、あのころはいつも。
周りが「弱い」とか「できない」ではなく、人間というのはそーんな単純に計れるものではなくって、強いところも弱いところもある、できることもできないこともある、そーんな当たり前の事実に気がつくまで、知るまで、私はかなり多くの時間を費やしたように思う。
いまはまったく違うけれど、人生初期における私の勉強の動機って、「愛されたい」に尽きるからね。愛されたいからたくさん勉強したしよい成績を取ったし、それでも愛されてると思えないから、もっと勉強しただけの話。
私がある程度勉強ができるという評価をいただくのは、単純にこれの後遺症みたいな感じ。
まあでもどのくらい前かな、数年以内だとは思うんだけれど、友人と飲んでいて、なんとなーくの雰囲気で言われたんだよね。「菜月は頭がいい。でもほんとうに頭がいいひとに、『頭がいい』とひとはなかなか言わないもんだ」みたいなことをね。それを聴いたときは、ほんとすごい衝撃だった。
あとで知った。幼いころの話。周りも、私が「勉強ができる」ということはもうそれが「当たり前」だと思っていて、とくに褒めなかったんだと。
私はそれを聴いて思ったね。ひとのことは褒めようと。だれでもかんでもいつでもではなく、褒めたい、と思ったときには素直に褒めようと。そうすれば、私みたいな悲劇に対する抑止力に、ちょっとでも、ちょっとでもなるんではなかろうか、と。
私はいまも「頭がよい」と思いたがりつつもやっぱり「頭が悪い」という自己認識から抜けられない。けれどそれでいいのでは、とさいきんは思っている。だって仕方ない。いますぐ解決できることではない。
よかったこともあったしね。勉強のやり方や語学力。べつにそれらがほしくってやっていたわけでもないのだが、気がついたらできるようになっていた。だから、やっぱり、ものごとは単純によいわるいでは決められないのかもねって。
ここらへんのことをちらりと言うとさいきんは、「ふざけんな☆」みたいなことを言ってくれる友人たちに恵まれつつあるので、よかったよそれだけでよかった。
やっぱりむかしのあれこれのことを思い出すと、ここらへんはついて回るなあ。
しつこいけれどごめん言わせて。
私はツイッターによってリアルタイムで記録をしている。メモをすればいいじゃんと言われそうだけれど、メモだとあとで読んだときにわかりづらいことが多くって、ここのフォロワーさんが、もちろんいつもではないかもしれないけれど、見ててくれる、なんというかそれだけでさ、助かるの。
はっきりと自覚したのはさいきんなのだけれど、私はほんとうにできごとを覚えていられない。なにもしないと、できごとの記憶はもって一日か二日で、それ以上前のことはほとんど思い出せない。
いろんな記憶がからだのなかをすり抜けている感覚があった。「からっぽだ」とよく書いていたし思っていた。覚えていたいのに覚えていられないのは、自分が欠陥品だからだとほんとうに思い込んでいて。
だから、ツイッターという場はとても嬉しい。記録が記憶になってくれる。そして記録をすることで、いくらか記憶力も上がったと思う。
私は私なりに、思い出をもつことができる。
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