なんでもメモ20170122(日)

「ファジィ論理」



「オッカムの剃刀」で水槽の脳の可能性を否定するという可能性。

より単純というが。

より妥当なほうへ。

「単純」という概念ではなく、「日常性」を取り入れるとよいと思う。

日常レベルにおいてどう判断するか。

脳が水槽につながれていると、あるいは他者がゾンビだと、「日常的に」世界をそう捉えているのならばそれは狂気だ。

「狂気の哲学」ともいうべきなにかだ。

そうではないのだから、オッカムの剃刀というか狂気の剃刀?かなんかは妥当だとすべき。

というか、それしかないんでないだろうか。哲学はあまりにも日常的現実性を軽視しているような気がする。



神はいるのか、と尋ねられたとしたら私は、言い淀みながらも、いる、と答えるだろう。

神がいるというそのものの事実が問題なのではなく、神はいるいないではなく、いるんだということを、そういった質問をするひとにはそもそもうまく伝えられないだろうと思うからだ。

けれどもたとえばイスラームのひととイエスについて話したとき、どうなるだろうか。

私はイスラームのひとを説得する気はない。

なぜならば、イスラームは私の生まれ育った現代日本と「遠い」からだ。

これは突き放した意味ではなく、人間は、かかわったひととつまり関連性が高い相手と、優先してかかわっていく義務があると思う。

アフリカの子どもが、という理屈が簡単に否定されてしまうのは、「遠い」からにほかならない。

そしてそれはけっして悪いことではない。

すべてをすくえるのは神だけ。

人間にできることは、周りのひとつまり、家族、恋人、友人、知人、仕事仲間、それ以外の名前がつけられない関係性でもなんもかも、関連があるひとのことを考えていくことだけ。

神の領分に手を出してはならない。

遠い異国にあこがれるより、いまそこにいるひとのそばにいろ。

それでも必要なのだったら、たとえばイスラーム圏でもアフリカ大陸でも、必要であれば神さまがそちらに召してくれるはず。

私がいまここにいるってことは、つまり、そういうことなんだ。

私のいまのフィールドは現代日本社会だ。



@私は最後はエンドロールを背景にみんなが飛び出てはにかめればいいのになってそう思うだけだよ。

天国のこと。

人間世界ではつらかったけれども、天国では語り合えるねって、そんなことがあるとしたらいかほどの救済か。



幸福は世界観なのかなって気がしてきた。

ひとを愛する、ひとを殺したい、というふうな。

そうなるとやはり感覚のものな気もする。



もし私が冤罪で刑務所に入ったら。あげくの果てに死刑になったら。

そのときの世界観はいかほどのものだろう。いかほどの絶望だろう。

そのときでも神を呼べるだろうか。

神を恨みはしないだろうか。

そういうことだ。でも。……そういうこと。

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