クチナシ

「ありがとう。でも、ごめんなさい」


 えっ。

 雲の上から眺めていた神様は目を見開いた。こんなことは初めてだった。


 農耕の神様に海の神様。知恵の神様に死者の国の神様など、この世界には数え切れないほどたくさんの神様が存在している。


 その神様は恋の神様だった。役目は、相性の良さそうな人間達を引き合わせ、恋をさせてあげること。

 恋によって人間を幸せにさせてあげることができる自分の役目。それを、神様は心から誇りに思っていた。


 これまでは失敗したことなんて一度たりともなかった。どの人間も愛する人に出会うことができて、幸せになっていた。

 それなのに、今回の2人は違っていた。

 クチナシという名前の、告白された方の人間が、断った。

 これまで2人はとても仲良くしていた。上手くいかないはずがないと信じ込んでいたのに。


 失恋した方の人間も予想外の返事にだったのに驚いた表情をしたが、クチナシとしばらく何事か話し合うと、少し悲しそうに、けれど笑顔で「じゃあ、またね」と手を振って歩き去っていった。


 しかし、神様の受けたショックはそう簡単には収まらなかった。

 驚きや悲しみや怒りや悔しさや、様々な感情が心の中でごちゃまぜになって整理がつかなかった。


 翌日になっても、神様の頭からはきのうのことが離れなかった。

「私が選んだ人間がきのう、失恋した」


 雲の上からクチナシを何日間か観察してみることにした。

 クチナシは、いつも楽しそうに笑っていた。

 誰にでも別け隔てなく優しく接するクチナシにはたくさんの友達がいた。

 けれども、これまでクチナシが恋をしたことは一度もないようだった。


 なんてもったいないことだろう。恋は人生を豊かに、幸福にする尊いものなのに、それを経験したことがないだなんて。好きだと思える人間に、まだ出会ったことがないだなんて。

 こういうときこそ、この私の出番だ。なんとしてでもこの可哀想な人間に、恋が、幸せがどういうものなのかを教えてあげるんだ。これはこの人間のためなんだ。


 神様は、色々な人間達を次々とクチナシに引き合わせた。

 性別も年齢も出身地域も関係なしに、少しでも相性が良さそうだと判断した人間達はみんな。


 クチナシはその人間達全てと仲良くなった。

 けれど、誰に思いを告げられてもクチナシの答えは決まっていた。

「ありがとう。でも、ごめんなさい」


 失恋した人間達は少し揉める場合もあったけれど、それでも最終的にはクチナシを恨まず、友達でい続けることを選んだ。クチナシはそういう人間だった。


 ますますもったいない。こんなにいい人間だというのに。恋をすれば本人だけじゃなく、恋人もこの上なく幸せになれること間違いなしだというのに。

 もしかすると、恋に臆病になっているのだろうか。たしかに一歩踏み出すのには勇気が必要なときもある。けれど、人に恋をするのは決して怖いことなんかじゃない。そのことを教えてあげなければ。さあ、大丈夫だよ。ありのままに人間を愛してごらん。

 

 神様は決して諦めることなく、しつこくしつこく色々な人間達を片っ端からクチナシに引き合わせ続けた。

 神様が心に思い描いた通りの結果になることは、一度もなかった。


 どうして? 私はこんなにもこの人間のためを思って頑張っているのに……

 もしかしてこの人間、どこかおかしいのかな? 気の毒に。だとしたらなおさら、人間らしく恋する気持ちを持てるように、私がしっかりと治療してあげなければならないな。もっと合いそうな人間を見つけなければ……

 神様の気持ちなど知るはずもなく、クチナシは毎日友達と一緒に笑って、楽しそうに過ごし続けていた。

 



 神様の一生と比較すると、人間の一生はあまりにも短い。

 神様が試行錯誤を繰り返しているうちに、クチナシは年を取っていった。

 少しずつ少しずつ身の回りの色々なことが自力でできなくなっていき、やがては起き上がることもできなくなった。

 それでも相変わらず笑顔を絶やすことはなかった。


 早くしなければと焦る神様だったが、とうとうクチナシの人生最後の日がやって来てしまった。

 結局、私はこの人間を幸せにしてあげることができなかったのか……

 心から申し訳なくてしかたがなかった。


 たくさんの友達に囲まれたクチナシは、自分も苦しいはずなのに、悲しむみんなを精一杯に元気づけ続けた。

 けれどもやがて、ふっと言葉を止めたかと思ったら、いつもの笑顔のまま静かに目を閉じた。

 そうして、もう動くことはなかった。




 一片の悲しみも浮かんでいない死に顔を見た神様はようやく気が付いた。


 この人間は、いや、クチナシは。恋をしなくても十分に幸せだったんだ。

 友達がたくさんいることこそが、クチナシにとっての最高の幸せだったんだ。


 人間は恋をしなければ幸せになれないのだと思い込んでいた。

 だけど、そうとは限らないんだ。こういう幸せもあるんだ。

 私はそれを知ろうともせずに、勝手に不必要な気を回していたのか。

 私の知っている幸せとは違う幸せを享受しているだけのクチナシを、「臆病な人間」だの「おかしな人間」だのと決めつけて、蔑んでいたのか。


 ……なんてことを……


 今度は違う意味で、申し訳なくてたまらなくなった。

 その後悔と罪悪感を、神様はその先もずっとずっと抱えていくことになった。


 けれどその一方で、感謝もした。

 別の幸せの形があるということを教えてくれた。全ての人間にむりやりに恋を押し付けるべきではないと教えてくれた。

 何よりも、あんなにも幸せそうな顔を見せてくれた。


 クチナシという人間を知ることができて本当に良かった。

 その思いも、その先ずっとずっと持ち続けた。

 忘れることなく、忘れないように、ずっとずっと。

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