弾けないピアノを手放した

 私はピアノを習ったことが無い。当然のように弾けない。しかし私の部屋には古い電子ピアノがあった。それは母が彼女の亡き父――つまり私の祖父――から買い与えられたものだった。母もすでにピアノを弾く機会は無く、他の家族はもっと弾かない。ではこのピアノはなぜ今も私の部屋に存在しているのか。その理由は簡単で、処分に困っているということだった。ついでに私はなんとなくこの弾けないピアノを内心手放しがたく感じていて、もう年単位で鍵盤に触れることすら無くなったくせに処分するのを渋った。

 そんな私の元に、高校時代の旧友から連絡が来た。なんでも同じく同級生だった知人が二十歳も何年か前に過ぎ去った今、ピアノを習い始めたのだという。ついては自宅で練習するためにピアノが欲しいらしいので、譲ってやってくれないかという話だった。そういえばこの旧友に弾いていない電子ピアノがあると話した気がする。私は悩んだ。前述の通りこのピアノを処分することに私は抵抗があったし、何より今も所有権は母にあると少なくとも私は思っていたからだ。

 思い切って母に相談すると、母は思ったよりもあっさり頷いた。


「すごく古い機種だってことと、ある程度掃除はするけどカビてたりして状態が悪いことちゃんと話しておいて。それでもいいなら譲る。」


 ピアノを欲している知人に直接連絡を入れると、母の言づてどおりに話した。それでも知人は欲しいと言うので、ここから私の部屋の大掃除が始まった。酒瓶に添い寝する日々からまた一歩前進した瞬間である。

 最早棚と化していたピアノの上に積み上げていた本やその他の雑貨を退けると、細かい傷がたくさんついた本体が顔を出した。まともに弾かれる事もなかったこのピアノに意思があったらきっと私は恨まれているだろう。ホコリを拭き取りながら、ごめん、と一人でピアノに向かって何度か呟いた。上手く弾けないなりにたまに音を出させて遊んだものだけれど、きっと満足に触ったことは無かった。――私の子供とは思えない。なんでそんなに不器用なの?なんで弾けないの?これに触るたびに幼少期に聞いた声が頭の中に反響する。それでも嫌いになれずに部屋に置いたままにしていたのは音楽自体は好きだったからだろうと思う。あるいは、これを手放したら嫌いになってしまう気がしていたのかもしれない。


「やっとたくさん弾いてくれる人のところに行くんだから、おじいちゃんもきっと喜んでくれるよね。あんたもお姉ちゃんも、私も全然弾かなかったし。」


 そんな母の言葉に思わず見えないように苦笑いしてしまった。姉と私がピアノの音が好きなのに演奏の練習をすることに苦手意識を抱くのがなぜか、あまり考えたことは無いのだろう。苦手意識があることも知らなかったのかもしれない。



 引き渡しの日、知人は彼女の父と共に軽トラで我が家を訪れた。高校卒業後一度も顔を合わせるどころか連絡も取っていなかった彼女は、高校時代とそう変わらない姿をしていたと思う。なんせ人の顔やシルエットを覚えるのが苦手なもので、確かこんな感じだった、程度である。一方知人は私をよく覚えていたようで、再会を大いに喜んでくれた。ピアノをなんとか軽トラの荷台に積み込むと、いつかちゃんと弾けてる姿を見せるよ、と彼女は約束してくれた。ああ、それがいい。そのピアノが生き生きとしてる姿をきっと見せてくれと頼んだ。掃除と準備の時間に費やした時間に比べてあまりにもあっさりとピアノは私の部屋を去っていった。

 ついにピアノがなくなった自室はやけに広々としていた。この部屋こんなに広かったんだ、と私は他人事のように思った。まだ掃除に使った洗剤の匂いの残る部屋で感傷に浸るも、いまだ部屋は荒れ放題。まだまだ片付けるべきものがある。この日を期に、私の部屋の環境は大きく変わることになる。


 後になって思うが、私の精神的な部分が多少なりとも前向きに、明るくなった要因は確実にこれ――大掃除だった。今でも片付けは苦手なので雑然としている部分もあるが、部屋を綺麗に掃除した途端に何事にも少しづつやる気が出てきたのだ。前に霊感の強い友人が部屋は掃除した方がいいと言っていたのをふと思い出した。

 幽霊の溜まり場になっていたかどうかは定かではないが、一つ片付くとあれもこれも片付けようとし始める。するとどんどん生活環境が良くなる。そして前向きになる。やりたいことができるとそれをやるための環境を更に整えようとする。そんなループを経て今では酒瓶の隣で縮こまることもなく、悠々と床で昼寝ができるようになった。重い腰をあげるきっかけが必要で、そのきっかけこそがなかなか見つからないのは重々承知しているのだが、気分が塞ぎがちな人は掃除から始めたらいい。


 ピアノを譲った日から数年経った先日、知人からついにピアノが壊れたという連絡が来た。この連絡よりももう少し前に彼女が約束どおりに送ってくれた美しい手つきで鍵盤を叩く動画を再び見ながら、動画を撮影してくれていた彼女に深く感謝するのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る