花の贄

文月(ふづき)詩織

第1話 ルスのエルバ 1 

 世界が白く燃えている。


 純白の木々の枝先に白い花が狂い咲き、花弁が吹雪のように渦を巻く。


 花の屍で舗装ほそうされた湖の上に、それは陽炎かげろうのように佇んでいる。


 神々しく美しい、白い人。


 長い睫毛まつげの奥の目は、光の角度に合わせ、くるりくるりと色を変える。


 幼馴染おさななじみは無辺の湖の底へと沈み、花に埋もれて、もうどこに行ったか解らない。


 白い炎が身を焼いても、痛くもなければ熱くもない。


 伸ばした手が掴んだ虚無の感触が、ただ冷たく確かだった。


 冷たい手をきつく握りしめ、ありったけの憎しみを込めた目を白い人へと向ける。


 白い人は端然たんぜんと笑って白枝を折った。


 高く澄んだ音が空気を裂いた。


 白い人の手の中で、白枝しらえは見る間に優美な純白の剣へと形を変える。


 三度だけ、いかなる願いも叶えてあげよう。


 白い人は己の右目を指の奥に隠して、祝詞のりとを読むようにそう言った。


 白い人の足元の湖面が渦を巻き、白い人を呑み込んでゆく。


 白い花も白い炎も、白い人を追うように渦の中心へと吸い込まれる。


 そして、彼の世界も共に消えた。


 手の中に残ったのは白木の枝からつくられた一振りの剣、ただそれだけ。



                *



 閉ざしたまぶたの隙間から強い光と細かな粒子が眼球の表面に忍び入る。エルバはしばし、温かな闇の中に微睡んだ。


 全部夢だったのだ。今からエルバは部屋のベッドで目を覚ます。またいつも通りの朝が始まる。それなのに何故だか目を開けるのがひどく恐ろしい。


 臆病な自分を叱咤して、エルバは薄く目を開けた。赤い土が目に飛び込んで来た。エルバは飛び起きて周囲を見回した。


 荒涼こうりょうと広がる赤い大地に、エルバは立っていた。見たことのない景色だった。


 ぽかんと口を開けて、その風景に魅入る。乾き切った風が大地を撫で、砂塵を巻き上げた。


 深呼吸をすると、空気に喉の水分を吸い取られた。エルバは激しく咳き込んだ。


「え、何? どういうこと?」


 エルバは自分自身に問いかける。確かに口から言葉が出て、エルバの耳は声を捉えた。それを確認して少し落ち着いた。同時に、これが夢の続きだという儚い希望は透明度を増した。


 これが夢ではないのなら、あれも夢ではないのだろうか。


 街が燃えていた。白い炎に何もかもをめ尽くされた。父も母も妹も、ペットの犬も、あそこにいたのに。幼馴染の女の子が湖の底に沈み、白い人が怪しく笑い……。


 そこでエルバは、初めて自分の足元に純白の剣が落ちていることに気が付いた。淡い輝きを帯びた刃に、白枝の柄。柄にはつたが絡まっていて、瑞々みずみずしい白い葉が生えていた。全体を通して全くの純白である。エルバが柄を握ると、空気が冷たく張り詰めた。


 肺腑はいふに氷を押し込まれたような気がした。この剣がここにあるのは、夢が夢ではない証左しょうさではないか……。


 タッタッタ、と。耳に届いた軽やかな足音に、エルバの注意は引き付けられた。視線を向けると、大きな灰色のイヌが一頭、こちらに向けて駆けて来る。鋭く頑丈な爪で地面を抉り、これによって得た反発を推進力へと変えて、ものすごい速度で一直線に近づいてくる。尻尾を振ってもおかしくないくらいに穏やかな物腰だというのに、エルバの背筋は粟立った。自分と同等の体格の獣が近付いてくるというだけで恐怖を覚えて然るべきではあるのだが、それだけではない。あのイヌはどこかおかしい。何が、と問われれば説明に窮するところだが……。


 イヌは走るペースを乱すことなくエルバの前までやって来た。そして、そのままのペースでエルバに頭突きをした。予兆よちょう予備動作よびどうさもなかった。


 あごに頭突きを食らったエルバは一瞬意識を暗転させ、その場に倒れ込んだ。イヌはエルバの体の上に前足を乗せ、のどに牙をあてがう。流れるような動作だった。機械的でさえあった。緑色に輝くつぶらな瞳は、無邪気にエルバを映している。


「うああああ!」


 腕の中で白枝の剣が冷たい存在感を放った。肩を押さえつけられていて腕の可動域は狭まっていたが、肘と手首だけで事足りた。白い切っ先がイヌの腹部に深々と突き刺さる。イヌの血液がエルバの腹の上に零れ落ちた。イヌの体から力が抜けた隙にエルバは拘束から抜け出し、いっそうの力を込めて刃を押し込む。イヌは痛がるでもなく苦しむでもなく、電池が切れたように唐突とうとつに動かなくなった。


「こ、殺した……」


 エルバは呟いた。乾き切った声は情けなく震えている。家で飼っていた犬のふわふわとした手触りが蘇った。内臓に指が触れた感触がその思い出に重なると、エルバの胃袋は主に反旗はんきひるがえした。


 エルバはその場に屈みこむと、胃の中のものを吐き出した。夢とも現ともつかない記憶の中で最後に食べたものが含まれていた。


 目の端で何かが光り始めた。視線を上げると、イヌの死骸が仄かに輝いていた。鮮やかな緑の光が粒状に解れて、蛍のようにひらひらと儚げに舞い、刹那の後に消える。エルバの服に付着した血も鮮やかに輝き、やがては消えた。


 全ての光が消えた時、イヌの体は血痕一つ残っていなかった。


「なんなんだよぉ……」


 白刃はなおも純白を維持している。イヌの死骸も消えてしまった。イヌに襲われた痕跡は、両肩で脈打つ痛みのみ。エルバはうずくまって頭を抱え込んだ。


 色々なことが唐突に起こり過ぎて、認識が追いつかない。追いつきかけたところで現実がひょいと逃げてしまうのだ。


 タッタッタ、タッタッタ。地面から伝わるそのリズムに、エルバは戦慄せんりつした。見回せば、先ほどエルバを襲ってきたイヌと同じものが一頭、二頭、三頭……。何を考えるよりも前に、エルバは走り出した。


 動物に追われた際、背を向け闇雲に逃げるのは悪手あくしゅだ。肉食獣は逃げる相手を追いたくなるものだから。しかし肩越しに振り返れば、逃げるエルバを目にしてもイヌたちはペースを乱さない。タッタッタ、タッタッタ、と、ひたすら同じリズムを刻んでいる。本能も興奮も興味すらなく、淡々とエルバを追って来る。エルバはいよいよ気味悪くなった。エルバは逃げた。必死で逃げた。


 頭の中で渦を巻く混乱の最たるものは、生き物を殺したことへの罪悪感だった。




 走って、走って、走った。エルバの体力は人並みだ。ペースも考えずに走り続けられるわけもなく、やがて息が切れて足を止めた。イヌたちは息も乱さず、それでいてエルバとの距離は縮まっている。獲物が足を止めたことへの喜びも警戒もなく、機械のように走って距離を縮める。


 エルバは白枝の剣を両手で持って、イヌたちと向き合った。エルバには剣の心得などない。それどころか、およそ人生の中でスポーツというものに進んで関わったことがなかった。せいぜいが子供の頃に幼馴染と二人、丸めたチラシで互いの頭を叩き合った程度のものだ。この剣の重みはあの頃の得物と同じくらいで、いかにも頼りない。


 駆けて来たイヌに向けて、エルバは稚拙ちせつかつ不器用ぶきように剣を振るった。重みは殆ど伝わって来なかった。流水の中に張った一本の糸のように、剣は血飛沫ちしぶきを散らしてイヌの体を通過した。走力の名残に乗ってぶつかって来たイヌのからだによろめきながら、エルバは顔の前に剣を押し出した。二匹目のイヌの大きな口が推進力に任せてさらに大きくなり、その体は顎を境に二分される。


 無様に尻餅をついたエルバは、必死に剣を振り回した。めったやたらと振り回された刃は軽々とイヌの肉を裂いた。命を刈り取ることの、なんと簡単なことだろう。エルバの中に芽生えた優越感は、しかしそれに気が付いた瞬間に萎んだ。


 ほんの一瞬であっても生き物を殺すことを自信に繋げてしまった自分にゾッとする。気分が悪い。このままでは、頭がおかしくなってしまう。


 再び込み上げた吐き気を何とか呑み下して、エルバは何度も深呼吸した。喉がカラカラに乾いている。


「水……」


 エルバはようやく、自分が置かれている状況が思っていた以上に悪いという事実に気が付いた。大きなイヌに追い回されたのなんて些末さまつなことだった。エルバは全く知らない土地にいて、見渡す限り街どころか人っ子一人見当たらず、水も食料も持ち合わせがない。乾いた赤い大地に水は見当たらないし、あったとしても生水を飲むのは危険だ。


 イヌが緑光りょっこうとなって消えていくのを、エルバはぽかんと見つめていた。今この時、エルバは貴重な食料が消えるのをみすみす見送っているのかもしれない。だが、どうしたらいいのか、さっぱり解らない。


 ここで待っていれば救助隊が来るのではないか。エルバは一瞬、そんな希望を抱いた。しかし、切迫せっぱくした飢えと渇きがそんな甘えを許さない。助けは望めない。自分で何とかするしかないのだ。


 まずは何をすべきなのか? 水、食べ物、安全、情報……。探さなければならないものは多い。そして見渡す限り、それはない。ならばとにかく移動しなければならない。


 エルバは一つ気合を入れると、ふらふらと足を踏み出した。


 草一本生えない荒野は、永遠に続いているかのようだった。



               *



 日が天を巡り、沈み、夜が空に昇る。それ自体はエルバの常識を裏切るものではなかった。けれど夜の空に輝く光は、エルバの常識にはない。夜の空はただ暗いもの。夜でありながらこれほど輝く空を、エルバは見たことがない。光点の一つ一つを星というのだという教科書的な知識を、エルバはふと思い出した。


 空の輝きを楽しむ心の余裕は、エルバにはない。休むことさえままならない中、意識も朦朧もうろうとしつつある。


 大きなイヌは次々に襲ってくる。数も次第しだいに増えているようだった。さらには種類も増えている。


 違う種類の獣たちは大きなイヌとは違い、実に獣らしかった。エルバから少し距離を置いて襲い掛かるすきうかがい、威嚇いかくの声を上げる。傷付けば痛がるし、逃げ出すことだってある。死んでも消えなかった。


 獣の死骸を前に、エルバは一度ならず深刻に考え込んだ。平時であれば触れたいとも思わない、みすぼらしく薄汚れた獣の死骸。だが、これも肉だ。おずおずと手を伸ばしたことも一再いっさいではない。結局手を付けなかったのは、火を起こす算段がなかったからである。エルバは火の起こし方を知らないし、まきに使えそうな植物も見当たらない。生食なましょくは流石にハードルが高すぎた。


 ひどく疲れているのに、渇きと空腹に支配されて疲労を意識することができない。大きなイヌに包囲されるのも幾度目になるか、エルバは三頭を斬り殺したところでついに倒れ込んだ。大きなイヌがエルバに群がる。獲物を追い詰めたイヌたちは、相変わらず何の変化もない。機械的に襲い来るのみだった。それを押しのけるようにして滑り込もうと狂乱するのは、別種の獣だ。


 三つの願いを叶えてやろう……。そんな妄言もうげんが、頭の中で渦を巻いた。夢とも現ともつかない白い炎の中で耳にした言葉だった。力を振り絞ってすがりつくにはあまりにも曖昧あいまいな記憶である。


 突然、大きなイヌが動きを変えた。一斉に同じ方向に視線を転じ、タッタッタ、と走り去る。


「お兄さん、息を止めな。」


 その声の意味をエルバが理解するより先に、エルバの周囲に黒い煙が広がった。鼻から入り込んだ煙が鼻孔の奥でツンとした痛みを生じ、エルバは激しく咳き込んだ。獣たちは悲鳴を上げて一斉に身を翻す。


 群れの去った後、ゆったりとした足取りでエルバに歩み寄って来たのは、若い男だった。


 奇抜きばつな格好をしていた。色や質感どころか形も大きさも異なる二着の服を縦に裂いて無理に縫い合わせたような派手な上着がまずは目に付いた。見ればズボンも三着ほどを縫い合わせたような代物しろもので、靴も左右で違うものを履いている。その衣服の派手さに比べればささやかなことだが、長く伸びた髪を雑に結い上げて、赤い毛髪もうはつ状のもので飾っている。男性は短髪というエルバの常識からすれば、これも十分に異様だった。


「あなたは……?」


 エルバは苦労して身を起こしつつ、かすれた声で尋ねた。


「俺はゴート。流浪るろうのゴートだ。そういうお兄さんは何者だい?」


 奇抜な男はそう名乗ると歯を見せて笑った。


「僕はエルバです。」


 エルバは弱々しく名乗った。ゴートはそうかいと答えて手袋をした手を差し出して来た。エルバは恐る恐る、その手を取った。

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