衝動癖

名が待つ

昇降車

 突いた傘の先から、雫が、灰色のコンクリートに広がってゆく。――黒く、黒く浸食してゆく。



 勤める会社の入った薄汚い雑居ビルの四階エレベーターホールで下の階へのかごを待っている。左腕のデジタル盤には23:00とある。

 ……ドアが開く。乗り込み、一階のボタンを押す。しごく機械的な動作。ふと、もしかしたら私は、この人を飲み込んでは吐き出す機械と同類程度の存在なのかもしれないと思う。私はこの会社の歯車。壊れては取り替え、また壊れては取り替えられる消耗品。なんて惨めな。しかしどうすることもできない。人の流れに乗るままに生きてきた身。なにかを変える方法も知らないし、そもそも変える力もない。

 一階に着きドアが開く。そのままビルを出ると、名古屋の街は雨の中にあった。私は右手に持っていた平凡な紺の傘を開く。雫が傘に当たり今の私には悲しく聞こえる音を鳴らす。

 笹山の交差点へと歩き出す。家に帰らなければならない。名古屋駅地下鉄東山線に乗り、二十分。そう遠くはないがその名古屋駅までもが遠いと感じてしまう――憂鬱。


 途中、なぜか十時までしか開いていないはずの地下道への入り口がまだ開いているのに気づく。幸いと思い私はその階段を下っていく。

 電光広告板はギラギラと光を放ち目に痛い。降りた先、地下道の壁面から視線を地面へと逃がす。気持ちと相まって視線の下降は容易。

 タイル目を迷路に見立てる。小さい頃からの癖。基本的に私は内気で、内向的で、気が弱くいつも視線は下ばかり……なのだろうか。

 ドン、と肩に衝撃が走る。

  黒い服、スーツ。私よりも老けて疲れ切った顔が上目にした視界に映る。私はすぐに顔を上げて謝ろうとする。視線は合わせず、下のままで。

 瞬間「チッ」と音がする。舌打ちである。私は驚く。そして出るだろうと思っていた怒りは――しかし出なかった。怒れなかった。そんなエネルギーなんて無かった。

 黒い革靴が私の横を通り過ぎたのを見て後ろを振り返る。


 誰も居なかった。


 驚いた私はもともと自分の向いていた方も確認する。しかしそこに地下道の廊下は無かった。代わりにあるのは金属製で鈍く光ったドア。驚いた私の顔が歪んで映っている。

 エレベーターの中だった。

 操作盤にはボタンが六つ並ぶ。ドアの上に設けられた階の案内表示、どの階にも光はついておらず今どの階にいるのかはわからない。驚いていた割に冷静に状況を認識はできたが、これはいったいどういうことだ? なにが起きている? 私は確かに地下道にいたはずなのに……

「ご帰宅途中でしたか? 」

 心臓が跳ね上がる。鏡面のようなドアを見ると、私の後ろに女が立っていた。女? ――振り向く勇気のない私には声と髪の長さにより判断せざるを得なかった。

「感情を発露しないのはよくないですよ。爆発的な熱情。根源的な人間性。それは生の表れかもしれませんね」

 女――女としておく――はよくわからないことを言うが、先の消えた男のことだろうか? 私が怒れなかった? というか、どちらがぶつかったのかわからないけれども。「それが駄目ですね。なにはともあれ、舌打ちをかましてきた相手には怒らないと」

 女は続ける。

「怒りの対象はあなたの感じる不満でもいいですよ。会社、世界、そしてあなた自身への。必要とされず、必要とされるような力も持たず。

今までだって感じていたでしょう?

 

 その怒り。その欲望。


 生の奔流を感じてください。握る拳のエネルギーを思い出してください」

 女の言うように私はいつのまにか拳を握っていた。どうやらいつまでもほざく彼女に私は怒りを感じているらしかった。私……俺は、自分がわからなくなった。どうも俺らしくなかった。

 女が近づく。俺はいつのまにか女の方を向いている。握った拳が開かれる。女はやはり「女」なようで華奢な手である。すると途端に俺はその白い肌が艶めかしく見え始めた。

 開かれた手にナイフを握らされる。柄がやけに手にしっくりなじむ。手がまるでその感触を求めていたかのように。

「殺りたいですか? 犯りたいですか? 」

――女の言う間に俺はナイフを繰り出している。

  肉。

 肉にずぶり。

  切っ先が肉を切り裂いているのがわかる。肉の弾力が伝わってとても気持ちがいい。何度も突き刺す。本能のままぶっ刺す。突いて引き抜いて突いて引き抜いて。腹、首、胸、目……

 いつのまにかエレベーターが動いている。夢中な俺には上に向かっているのか、下に向かっているのかわからない。

だがどちらでもいい。今気になるのは濡れた股間部の不快さだけである。


 下半身をさらけ出した男の足下に横たわる肉塊となった女が語る。


「どちらでもいいですね。どちらでも同じですね。

 昇るも降りるも、


 天国も地獄も」

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