そんなに偉いの?

日本は経済的に物質的に豊かです。ずいぶんいろんな国に援助をしています。

援助を喜ぶ国も、確かにあるでしょう。日本の動機がどうであれ(貸しをつくっておこう、だとか何とか)、実際にものがもらえることに変わりはない。

でもすべての国が、はたして援助を喜んでいるのでしょうか?


いつかこんな話を、何かの本で読みました。

あるとき、ある地域に日本の技術者たちが援助をしにやってきたそうです。その地域は自給自足の生活をしていて、貧しかった。地域の人々は、最初は喜んだ。これで豊かな生活が送れるようになる、と。人々は技術を学び、建物をつくった。だんだんとみどりは減り、コンクリートのいろが目立ってきた。

そして人々は、畑を離れ工場で働き始めます。日本の技術者たちは、そこにいくつか大規模な工場をつくったのです。その地域の人々が自立できるように、と。人々はその工場で働き始めました。それを見た日本の技術者たちは、「いいことをしたな」とすっかり満足をして、日本に帰っていきました。

さて、残された人々はどうなったのでしょう。日本の技術者がいなくなった途端、彼らは途方に暮れました。だってその工場で機械や部品をつくるには、材料が足りなかったのです。そういった材料は、今まですべて日本が提供していてくれていたのですから。材料のない工場は、動かしようがない。人々はやむを得ず畑に戻っていきました。前に比べて、いくらか汚染されてしまった畑へ。何の役にも立たない工場たちは、今でも沈黙を守って佇んでいるそうです。

記憶を辿って書いたので、すこしばかりの脚色はあるかもしれませんが、大筋としては変わっていないと思います。


他国への援助というのは、「発展途上国」が「先進国」となることを目的に、そしてそれを前提におこなわれています。「発展途上国」は「先進国」になるべき、そういう考えにもとづいています。

それってはたして正しいことなのでしょうか?それを切実に求める国は、確かにあります。そういう国に求められれば、援助するのもいいと思います。ただ、そうじゃない国や地域だって確かに存在する。質素に穏やかな生活を続けていきたいと望む人々は確かにいる。そこに無理やり介入するのは、いったいどうなんでしょうか。こういった出来事があるというのを知らずに、援助行為を肯定するのはいったいどうなんでしょうか。


そういう諸々の事情を知る前に、援助だ支援だと言うべきではないと思います。発展途上国への援助は、すごくデリケートな問題です。そこには責任というものが発生する。飽きたからやっぱりやめますね、というわけにはいかない。一旦関わったら、それなりの責任をとらなければならない。

知るっていうのは大切だと思います。裏の事情をわからずに、それが絶対に正しいことであるかのように主張しないでほしい。デリケートな問題に関わるのには、熟知と熟考と覚悟が必要なんです。それができないくらいなら、いっそなにもしないほうが良い。当然のことですが、ものごとは明るい面だけでないんです。同じくらいに暗い面が、必ずある。明るい面だけを取り出して、日本人向けにデコレートして心地よく伝えるマスコミの類に関しては、閉口します。


日本に限った話になってしまいますが。他国に援助しているわりには、国内のことがおろそかな部分って、あるのではないでしょうか。他国に借金までしているし。そこらへんは、どうなっているんでしょうか。毎日毎日働き詰めで、収入は雀の涙ほど、そういう国内の人に対しての援助やら支援やらは、どうしてそこまで明るく宣伝されないんですか?どうして他国に対する援助や支援だけ、大々的に宣伝されるんですか?


なんだかんだで私たちのもとには、先進国的なものの考えかたのみが届くんです。

援助してあげる、私たちが助けてあげる、救ってあげる、先進国って、そんなに偉いの?

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